神は死んだ、というヨーロッパの不幸・初音ミクの日本文化論(11)

とにかく日本列島の「かわいい」の文化によって発信されているのは、人は他愛なくときめく体験をする生きものであるということで、この生やこの社会のよりどころしてそういう体験は必要であるのかどうかと問いかけている。
そして「かわいい」の文化は、世の思春期の少女たちがそうであるように、「世界の終わり」に立って、その「喪失感」を抱きすくめている。思春期の少女たちは、この世のもっとも退廃的な存在であると同時に、もっとも無邪気でひたむきな存在でもある。思春期とは、そういう二律背反に身もだえさせられる時期であるらしい。だから「かわいい」の文化も,清純派からグロテスクまで、いろいろ取り揃えている。
それは、この生やこの社会には生き延びるための政治経済や宗教こそが大事だという世の大人たちの正義・正論に対するカウンターカルチャーとして発信されている。
大人たちの正義・正論が崩れてしまっている社会だから、崩れてしまってもなおそれで押し通そうとしてくる社会だから、「かわいい」の文化が生まれてくる。
大人たちは間違っているといいたいのではない。正義・正論であるというそのことが胡散臭いのであり、彼女らは大人たちに「反抗」しているのではなく、「幻滅」している。
彼女らは、正義・正論など存在しない荒野の混沌(=世界の終わり)を生きている。
正義・正論から支配されることのなんと息苦しいことか。そんな社会の「秩序=制度」に翻弄されたり追放されたり置き去りにされたりしている若者が世界中にたくさんいて、そういうときに「かわいい」の文化がある種の救済になっているらしい。
「かわいい」の文化は、思春期の少女を中心にした層に支えられている。とすれば彼女らは、この文明社会の生贄のような存在であるともいえる。いやじっさいに、「処女」が神の生贄に捧げられるとか人身御供にされるというような話は、文明発祥以来ずっと語り継がれてきているわけで。

人類が「処女=思春期の少女」という存在をどのように見てきたかということは、たんなるロリコン趣味だけの問題ではない。
とはいえ「かわいい」の文化は、ひとまずロリータ礼賛の文化でもあり、「初音ミク」こそ完全無欠のというか永遠のロリータ(処女=思春期の少女)であるともいえる。
初音ミクには、ほんものの「処女=思春期の少女」たちだって憧れている。
少女は、セックスをしようとするまいと少女であり続けることはできないし、セックスをしたことがなくてもすでに鬱陶しい「女」の体を持ってしまっている。
女は、男たちが想像するほど自分の体に対するナルシスティックな思いはない。自分の体が「商品」としての価値を持っているのどうかということを点検・確認したとしても、自分で自分の体をうっとりと眺めるようなことは案外していない。そういうナルシスティックな心の動きは、男のほうが持ちやすい。
昔は処女であることに社会的価値があったが、それは男が求めている価値だったのであって、彼女ら自身はそのことに自己陶酔してなんかいない。どちらかというと、彼女らはそのことに鬱陶しい思いをしていた。セックスなんかしなくても、避けがたく確実に「女」になっていっているのだもの。
「処女」だって、もうじゅうぶん身の「けがれ」を自覚している。彼女ら自身の中では、処女と非処女の境界線なんかないのです。どっちに転んでも、女は女なのです。おっぱいがふくらみ、生理が毎月やってくるようになればもう、女であることから逃れることなんかできない。だからこそ、ただの人間として見られたいとも思う。彼女らは、男友達に対する「友情」として処女を捨てることも多い。「友情」のほうが大切なのです。恋する相手とセックスするなんて、恥ずかしすぎるし、怖すぎる。
初音ミクにならないかぎり、「けがれ」からは逃れられない。彼女らの「処女」としての人生は、おっぱいがふくらみはじめ、生理がはじまった時点で、すでに終わっている。だから「ロリータ・ファッション」に身を包む。処女であることを示したいのではない、処女としての人生がすでに終わっていることの「かなしみ=喪失感」がそうさせている。そのファッションに身を包めば、女の体になってしまっていることの鬱陶しさをいっとき忘れていられるから。
処女だって、初音ミクに憧れている。

日本人は「けがれ」の意識を持っているから、「かわいい」ものに対する意識も切実になる。
外国人が「ジャパン・クール」というとき、彼らの美意識は意表を突かれている。そして「ああ」と納得してゆく。彼らは、自分たちの美意識にそぐわないものは排除して伝統を守ってきたのに、それでも「かわいい」の文化に対しては納得してしまう。なぜならきっと、かつて人類はみな「かわいい」の文化で歴史を歩んでいたからでしょう。
西洋人は、氷河期の北ヨーロッパで生き抜いていたネアンデルタール人以来の伝統で、体の成長がとても早いし、早く老化する。思春期なんかあっという間に過ぎてしまうし、寒さのせいで乳幼児の死亡率はとても高かった。彼らは、もしかしたらわれわれ日本人よりももっと命のはかなさを知っていたのかもしれない。そこは、「世界の終わり」の地だった。ときめき合い抱きしめ合っていないと生きられない土地だった。
ヨーロッパ人こそ人と人が他愛なくときめき合いながら集団をいとなむ文化の伝統を持っている民族だし、もともと原初の人類の歴史は世界中どこでもそうだったわけで、だからほかの猿と違って一年中発情している存在になっていったのです。原初の人類はその爆発的な繁殖力で生き残ってきたのであって、猿よりも強い猿だったのではないのです。そういう歴史の伝統を持っているからこそネアンデルタール人は、どんなにたくさんの乳幼児が死んでいっても、それを超える勢いで産み続けてくることができたのです。そういう人たちから、「かわいい」の文化が生まれてこないはずがない。
ヨーロッパ人は、早くから文明制度の歴史を歩んできて、そういう原始時代の歴史の記憶を封じ込めてしまっているだけなのです。イギリス人もフランス人もいけ好かないところはあるのだけれど、彼らは「かわいいの文化」のよき理解者です。彼らが、ジャパン・クールと言い出した。
彼らが、「神は死んだ」と言い出した。そのとき彼らは、この生が神に守られ支配されてあるものではないことを人として再認識し、この生ははかなくいたたまれないものだと思い定め、そのことの上に立って人と人の他愛なくときめき合う関係を生きたいと願った。ローマ帝国のネロ皇帝からナチスヒットラーまで、彼らの狂気の歴史は、思考が神=宗教に縛られていることの混乱ではなかったのか。もともと非宗教的だった民族が宗教に縛られて歴史を歩むほかなかったところに、ヨーロッパの地政学的な不幸があった。彼らはもう、地政学的に中東のユダヤキリスト教から侵蝕されるほかなかった。
日本列島が仏教を受け入れるしかなかったように、ヨーロッパだってユダヤキリスト教を受け入れてゆく歴史の流れからは逆らえなかった。そのときそれを受け入れたのはどちらも支配階級だったのだが、日本列島は仏教に対する「カウンターカルチャー」として「神道」を生み出していったが、ヨーロッパ市民はそういうものを生み出せなかった。なぜならヨーロッパ市民と支配階級は直接的な「契約関係」で結ばれており、日本列島の民衆は、支配階級とは別の民衆だけの社会運営のシステムを持っていた。だから日本列島の民衆は、支配関係のことを「お上」という隔絶した社会だと認識してきた。
ヨーロッパ市民は、支配階級や「神」との「契約関係」から自由になれない歴史を歩んできた。だから、しばしばすべてをチャラにしてしまう(革命)を起こすことしかなかった。それは「世界の終わり」から生きはじめる思考であり、ヨーロッパだって、その「世界の終わり」から「ジャンヌ・ダルク」という「かわいいの女神」が生まれてきた歴史を持っている。
「ロリータ」という言葉そのものがもともとヨーロッパ発だし、ヨーロッパにも「処女性の尊厳」を止揚する文化の伝統はある。
ヨーロッパ人の「神」や支配階級との「契約関係」から自由になりたいという願いは切実です。もともと人類拡散の行き止まりの地で日本列島と同じように自由に他愛なく人と人がときめき合う歴史を歩んできたはずなのに、いつの間にかそれに縛られるようになってしまった。そういう無念の思いを秘めながら彼らは、「ジャパン・クール」といい、「神は死んだ」といった。