原初の記憶・初音ミクの日本文化論(10)

「かわいい」の文化は、「世界の終わり」から生まれてくる。
日本人は、「美しい」というよりも「きれい」というような言い方をすることの方が多い。「きれいに掃除をする」とか、よけいなものがきれいさっぱりとなくなることにカタルシスを覚える。「みそぎ」の伝統、それは「秩序」が生まれるということではない。極端にいえば、何もかも消えてしまうこと、その「世界の終わり」がいちばんの「きれい」なのです。
廃墟だって「世界の終わり」の景色で、その雑然とした「混沌」も「かわいい」の要素のひとつです。
東日本大震災津波に襲われた地域の景色もまさに壮大な廃墟で、人々は「言葉にならないほどの無惨な景色だ」とおおいに嘆いたのだけれど、「見たくない」のではない、多くの人たちが見に行きたがり、そこで記念撮影なんかしていた。
じつは誰もが、その廃墟の景色に、心のどこかしらで感動していた。日本人なのだもの、人間なのだもの、「世界の終わり」なのだもの、その廃墟の景色が美しくないはずがない。
そして被災地の人たちは、その「世界に終わり」に立って、みんなで粛々と助け合うという「人間の尊厳」を証明してみせた。
「世界の終わり」に立たなければ、助け合うということは起きない。
誰もが「今ここ」で「世界の終わり」という場所に立っていなければ、誰もが助け合う社会なんか実現しない。
「かわいい」の文化は、「世界の終わり」に立って美しい(きれいな)ものを見出してゆく文化です。「世界の終わり」においてこそ世界は輝いているのであり、「世界の終わり」を抱きすくめてゆく心でなければ世界の輝きと出会うことはできないし、「他愛なくときめいてゆく」という感慨は湧いてこない。
日本列島は、氷河期のその歴史のはじめから「世界の終わりに立って生きはじめる」という文化を育ててきた。それが伝統であり、それが日本的な言葉の作法になっている。「世界の終わり」に立てばもう、「意味=善悪」など問わない。日本列島においては、言葉のだいいちの機能は「感慨」の表出にあり、「感慨」を共有してゆくことによって人と人がときめき合い助け合う集団の文化を育ててきた。
文明社会は、「世界の秩序」という「正義」のスローガンを共有してゆくことによって結束してゆく。「正義」は人を裁く。その集団は、結束しているが、人と人が裁き合ってもいる。「正義」を所有していなければ許さない。これが「神(ゴッド)」の国々の集団運営の流儀であり、それに対して遅くまで文明社会の洗礼を受けなかった島国の日本列島では「世界の終わり」の「喪失感」を共有してゆくことによって助け合う集団をいとなむ歴史を歩んできた。前者は邪魔者(=悪)を排除しながら結束してゆく集団で、後者は許し合いながらみんなで仲良くやってゆく集団がイメージされている。
そういう「喪失感」を抱きすくめてゆくことによって、「かわいい」という他愛ないときめきが生まれてくる。

電子音である初音ミクの声は、人間くささが消えている。それは「きれい」ということで、そこにすぐ反応しときめいてゆくことができるのは、「きれい」の伝統を持っている日本人でなければできないことかもしれない。
だから初音ミクのムーブメントは、日本でなくてもいずれどこかの国から起きてくる、というようなものではないのかもしれない。
日本で起きて、世界があとになって「ああそうか」と気づいた。
ちょっとその電子音を聞きかじっただけで「おもしろい」と飛びつくことは、ほかの国では起こらない。そういう契機がなければ、ここまでのムーブメントにはならなかった。
初音ミクのコンサート、というような具体的な立体映像のイベントのレベルになれば、そりゃあ世界もそれが女神の声だと気づく。
外国人は、その声でいろんな歌を歌わせてみようというような発想はしなかったし、さらには具体的な立体映像のレベルまで盛りげてゆくということは、そうかんたんなことではない。
まあ外国には「聖母マドンナ」や「聖母マリア」や「ヴィーナス」などの女神の伝統はあるが、それらと初音ミクの声が結び付くことは難しいし、その姿を描くこともさらにできない。
やっぱり、ピンクレディーからセーラームーン、さらには現在のコスプレ・ファッションやロリータ・ファッションへとつなげてきた歴史があって、はじめて描けることでしょう。
そういう具体的な姿を示されてはじめて気づくし、気づけば人間としての原初の記憶を呼び覚まされる。

人類は、「非存在=異次元」の世界に超出してゆこうとする衝動とともに知性や感性を進化発展させてきた。
人類の進化はひとまず原始時代に終わっている、ともいえます。
われわれ文明人は、原始人の知性や感性がひらめいたり発見したりして得た革命的な飛躍(イノベーション)の上に立って、それをビルド・アップしてきただけです。
記憶の上にビルド・アップしてゆくことよりも、新しくひらめいたり発見したりする知性や感性のほうがずっと高度かもしれない。
われわれ文明人は、原始人のように、猿のくせに猿の習性を超えて二本の足で立ち上がったり、一年中発情している存在になったり、地球の隅々まで拡散していったり、火を使うようになったり、埋葬をはじめたり、言葉を生み出したり、そんな革命的な飛躍をしているでしょうか。そういうイノベーションの上に立ってビルド・アップしてきただけではないでしょうか。
しかし、そうした人類史に革命的な進化をもたらした原初のイノベーションの記憶は、世界中の人の遺伝子に刻まれている。それは「非存在=異次元」の世界に超出してゆこうとする衝動のことであり、超出してゆくことのカタルシスのことです。
そしてその「非存在=異次元」の世界にいるのは、宗教としての「神(ゴッド)」ではなく、非宗教としての「女神」なのです。
「非存在=異次元」の世界のことはもっとも非宗教的な日本人がいちばんよく知っているし、気づかせてやれば世界中の誰でも思い出す。
世界の人は、宗教のせいで原初の記憶が封殺されてしまっている。
気取っていえば、初音ミクによって世界中の人の中に封印されてあった原初の記憶がよみがえった、ということになる.
いやまあ、初音ミクに出会った世界中の人がなんだか目から鱗のような新鮮な驚きとときめきを覚えた、ということです。