たましいと霊魂の違い・初音ミクの日本文化論(13)

今どきは「初音ミクに救われた」といっている若者がたくさんいるのですよ。
やはりこの年ごろはいろいろ迷ったり身もだえしたりしてしまうわけで、そんなときにカルト宗教やスピリチュアルにはまるより初音ミクで遊んでいる方がずっと健康でしょう。
初音ミクの歌を聞いたり動画を眺めたりすることはただの「遊び=娯楽」だけど、信仰よりも遊びや娯楽で人が救われるなんて、素敵なことです。
初音ミクはアイドルであると同時に女神でもあり、人の世のいわば「生贄」であり「救世主」でもあるのだけれど、それでもそれは宗教ではなく、ただの遊び=娯楽なのです。なぜなら、宗教者が神は存在すると信じているのに対して、初音ミクが存在すると思っているものなどひとりもいないからです。
初音ミクは嘘の存在であり、「嘘で遊ぶ」ことのよろこびというものがある。存在しないものが出現することの驚きとときめきがある。それは、「存在する」と信じるよりももっと高度な認識体験です。
この生が嘘でないという証拠はあるのか?
「嘘=非存在」が出現することの驚きとときめき、この生の救済はそこにこそある、と思うのは宗教ではないでしょう。
人は「嘘で遊ぶ」ことができる生きものであり、「嘘で遊ぶ」ことの「ときめき」は「かなしみ」でもあり「救済」でもある。
感動して泣けてくるのは自分を喪失している状態だからであり、この宇宙の隅でみすぼらしく存在しているだけの自分と向き合わないですむことはひとつの解放にちがいない。世界や他者の輝きに感動することは、自分を見失って自分なんか生きていてもしょうがないと思うことであり、そうやって人は「献身」してゆくのであり、生きはじめるのだ。人は感動する生きものであり、先験的に他者に「献身」してゆくような存在の仕方をしている。
言い換えれば、他者に「献身」することは自分に対する満足がそぎ落とされることであり、自分の満足のために「献身」する人は、他者をかわいそうと思ってもときめいてはいない。
われわれは「この生は存在である」という認識に閉じ込められていて、死んだらいったいどこに行ってしまうのかという不安で胸がいっぱいになる。で、宗教者は「死んだら天国に行く」と信じ、初音ミクのファンたちは「嘘=非存在」で遊ぶことをその不安からの「解放=救済」にしている。というわけでこのことを初音ミクは、『千本桜』で「鋼「はがね」の檻、光線銃を打ちまくれ」と歌っている。
初音ミクのファンたちの世界観や生命観は、宗教者とはまったく正反対なのです。そしてそれは日本列島の伝統の世界観や生命観でもあり、「死んだら何もない『黄泉の国』に行く」というのは、そういうことなのです。

人の心は「嘘=非存在の世界で遊ぶ」ことができる。というわけで人の心は一歩間違えば宗教に転んでしまうようなはたらきを持っているのだが、それでも「嘘=非存在の世界で遊ぶ」ことは宗教ではないのであり、宗教に転ぶことはひとつの病理です。
人の心は。宗教と非宗教の危ういはざまに立ってはたらいている。
ニーチェは「神は死んだ」といい、多くのマルクス主義者が「宗教はいずれなくなる」といっているが、ほんとにそうなるのでしょうか。もしかしたら人類は、永遠に宗教を引きずっていかないといけないのかもしれない。そしてそれでも宗教は、ひとつの病理以外の何ものでもない。
日本列島に住んでいればあまり宗教に煩わされることもないが、この世界は宗教者のほうがたくさんいるのだし、文明社会の住人であるかぎり、日本人だって部分的には無意識のうちに宗教に汚染された思考をしてしまっている。
文明人の心は、「法律」という「神の定め」や、「金銭」という「神」に支配されている。これは文明社会の避けがたい必要悪であるが、だからこそそこからの解放としての「嘘=非存在の世界に遊ぶ」という体験も必要になる。
世の凡庸な歴史家は、「神」や「霊魂」という概念を生み出すのは人間性の必然的な自然で、原始人はみな原始宗教(アニミズム)で社会をいとなんでいた、という。そんな証拠など何もないのに、彼らは原始時代の考古学資料を、宗教(アニミズム)が存在したという問題設定で解こうとする。
宗教は戦争が起こる最大の原因で、戦争の問題は宗教の問題だともいえるのだが、人類は原始時代から戦争ばかりしてきたといっている歴史家は多く、だったら人間性の本質・自然は宗教を持つことにある、ということになってしまう。
現代人は、多かれ少なかれその思考を宗教に侵蝕されてしまっている。世界のどこよりも宗教心が薄いはずの日本人でさえも、です。
人類の歴史は宗教(=迷信)を克服してきたのではない。どんどん宗教的になり、迷信深くなってきたのです。宗教的な思考は、今なおどんどん広がってきている。現在の最先端のマネーゲームによる経済の動きなんて、マネーに対する迷信深さによって大きく左右されている。
ビット・コインなんて、迷信深さなしには成り立たないものでしょう。
原始時代に、宗教なんかなかった。日本列島の縄文・弥生時代に宗教なんかなかった。だから現在の日本人は、比較的宗教心の薄い民族になっている。もともと宗教心なんか持っていなかったから、いったん宗教を受け入れながらも、つねにそれを換骨奪胎してあいまいにしてしまう歴史を歩んできた。
ともあれ現在の日本人の宗教心が薄いということは、宗教心が普遍的な人間性ではないことの証明になっている。普遍性、というなら、そんな例外はあってはならない。そしてこのことは、原始時代に宗教などなかったと推測することができる根拠になりえている。

人類にとって宗教は、とてもやっかいな問題のはずです。
僕が「宗教心」の問題を考えてみようと思ったのは、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本を読んだことがきっかけでした。それはたしかにとても説得力のある刺激的な著作であったのだが、今ひとつ腑に落ちないところも残りました。何より、その安直な「生命賛歌」がおおいに気に入らなかった。「生命賛歌」それ自体が、現在のもっともやっかいな「宗教」なのではないか、と。
ドーキンスは、宗教による「神が人間(あるいは生命)をつくった」という「創造説=ID(インテリジェント・デザイン)」を科学の「進化論」で攻撃しているわけだが、「進化論」は「生命賛歌」では説明がつかない。なぜなら「生命のはたらき」とは「生命を消去しようとするはたらき」にほかならないのだから。
だから僕は、ここまでさんざん「人は『世界の終わり』の『喪失感』から生きはじめる」といってきたわけです。ドーキンスの「科学的思考」は信用するが、ドーキンスの「哲学」は信用できない。彼には哲学がない、といってもよい。
まあドーキンスの「進化論」では「地球の資源は有限だから、それぞれの生物がそれを奪い合うようなかたちで進化してきた」というような競争原理で語られているわけだが、おそらくそこが西洋人の発想の限界で、そういう説明の仕方では、貧乏人どうしが助け合うかたちで歴史を歩んできた日本人にはピンとこない。
進化のいちばんはじめの段階では、奪い合うような相手などいないし、資源は有り余っている。それでも生命は、みずから生命を消去するように「身もだえ」しながらみずからの身体を進化・変化させてきた。それは、みずからの生命を消去するのにもっとも有効なかたちであると同時に、それこそがみずからの生命を活性化するかたちでもあったのです。そこのところを説明してくれないことには、話にならない。それはまあ「哲学」の問題でもあるわけで、ドーキンスには哲学がない。それは、科学的な「確率論」とか「統計学」というような数学だけで説明できる問題ではないし、それらの数学にもその問題が組み込まれなければならない。

シマウマはライオンに食われてもかまわないからライオンのそばで暮らしているのだし、ライオンのそばで暮らしているから走るのが早くなってきた。その走りは、ライオンから逃げきろうとしているのではなく、ライオンと「追いかけっこ」をしているだけなのです。そのことはちゃんと科学的数学的に証明されていることであり、そのときシマウマは「食われてもかまわい」というレべルを超えないかたちで走っているのです。ライオンに速く走れるようにさせてやっているのです。あきらめないでがんばるように励ましているのです。「競争」しているのではないのです。このことをどう説明するのか。そこから先はもう「哲学」の問題かもしれない。少なくともドーキンスの「生命賛歌」や「競争原理」では説明がつかない。
生命のはたらきとは、生命を消去しようとするはたらきのことだ。だから、宗教の「救済」なんかろくでもないのです。生命のはたらきは、そういう宗教的「生命賛歌」では説明がつかないし、ドーキンスだって宗教の罠にはまってしまっている。
ともあれ宗教はほんとうに困ったものだが、ただ科学的真実でその教義を否定すればそれですむというものでもない。その迷妄に対する攻撃は、ブーメランとなってわれわれのところに還ってくる。
「そんなの嘘だ」といっても、人は「嘘」を生きる生きものなのだもの。心は、「嘘」という「非存在=異次元」の世界に超出してゆく。
客観的・科学的な数値が人の心を癒すのでも救うのでもない。
日本人は、「月にはウサギが住んでいる」という嘘を、いったいどれくらいの年月を語り継いできたことだろう。それは宗教ではないが、「神は存在する」とか「マリアは処女懐胎した」とかという「嘘」とどれほどの違いがあるのだろうか。とにかくそうやって人の心は、癒され救われている。
そしてそれでも宗教は文明社会が病んでいることの元凶のひとつになっているし、「月にウサギが住んでいる」という嘘に何の罪もない。

「宗教は魂の救済だ」という。
この場合の「魂(たましい)」という言葉は、「霊魂」という意味ではなく、「人の心の綜合的なかたち」というようなニュアンスでしょうか。
でも、じっさいの終末医療の現場では、「天国や極楽浄土を信じている宗教者ほどじたばたして死を受け入れるのが遅くなってしまう」という統計的なデータがあるそうなのです。
宗教は「魂の救済」になっていないのです。
「死んだら『黄泉の国』に行く」と思っている方がかえって安らかな終末を迎えることができるらしい。だから浄土真宗でも、「極楽浄土のことなんか想うな、そんなことはすべて阿弥陀如来におまかせせよ」と説いている。
人の心は、というか命のはたらきは「世界の終わり」を抱きすくめてゆく、ということ。このカタルシスは宗教によっては体験できないのであり、宗教は「魂の救済」になっていないのです。宗教はみずからの生の正当性を与えてくれるが、だからこそ死ぬときにじたばたしないといけない。だからこそ、「殉教」とかなんとか「えいやっ!」という感じで死んでゆくことがあれこれ称揚されてゆく。宗教者は、普通に死んでゆくことができない。
彼らは「消えてゆく」ことのカタルシスを知らない。宗教によってもたらされるのはみずからの生の正当性を確認する「満足」だけで、彼らはそれを「魂の救済」といっているが、その体験には、心が澄んでゆくような「癒し」とか、ほんらいの意味での「救われる」というような「カタルシス」はない。
宗教が生活に浸透している環境で暮らしている外国人だって、なぜ「かわいい」の文化に「癒された」とか「救われた」というのでしょうか。宗教にはそういう体験がないからでしょう。彼らはそれが、なんだか生まれてはじめて体験することであるかのような新鮮な驚きを覚えている。
もしかしたら彼らは、「かわいいの文化」によってはじめて「魂の救済」というものを知るのかもしれない。

やまとことばの「たましい」は、「霊魂」のことではない。
「霊魂」などというものを信じているから、心が癒されるとか救われるという体験ができない。
「霊魂」は心の動きを支配しているものだから、「霊魂」それ自体が受動的に癒されるとか救われるという体験をすることはない。
まあ「霊魂」は心の「エンジン」のようなもので、心の動きの濃淡や強弱に作用することはあっても、心模様のさまは「霊魂」とは無縁の現象にほかならない。
心がときめくのは「世界の輝き」によるのであって、「霊魂」のおかげでもなんでもない。
心よりも霊魂のほうに価値があるなんて、変な話だ。
「霊魂」の存在に執着していたら、「心のあや」に対して鈍感になってしまう。やまとことば(日本語)は「心のあや」の表出を優先した言葉であり、「霊魂」の存在を前提にしていない。
縄文・弥生時代の人々は「霊魂」というものを知らなかった。つまり、もともと日本列島に宗教など存在していなかった、ということです。
「ことだま」とは「言葉の魂」、すなわち言葉にはそれを発した人のありったけの思いが込められているのであり、その思いが相手の心も動かさずにおかない、という思考のことをいっているのであって、よくいわれる「呪文」というようなニュアンスの「言葉の霊魂」という解釈は正確ではないと思えます。
やまとことば(日本語)は、「言葉にありったけの思いを込める」というかたちで洗練発達してきたのです。だから、一音一音をはっきり発声するという外国語からしたらもどかしいような作法になっていったのであり、そこから和歌や俳句などのこの国独自の「短詩」の文化が洗練発達してきたのです。

やまとことばの「魂」は、ほんらいなら「たましい」とひらがなで表記するべきです。
「たま」の「た」は、「足る」の「た」、「充足」「充実」のこと。「ま」は「まったり」の「ま」、これもまた「充足」「充実」のニュアンスだが、やまとことばの歴史は、その二つを重ねることによって「ありったけの思い」を表出する言葉に仕立て上げていったわけです。古代人はみんな、そのように合意していたのであり、現代の学者ばかりが「霊魂」などと解釈しているだけなのです。というか、仏教が広く定着してきた平安時代のころから「霊魂」という意味に変質してきた。
そして「たましい」の「しい」は「しいんとする」の「しい」で、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。「たましい」とは「自分だけのありったけの思い」、すなわち「心の綜合」あるいは「自分が自分であることの根拠」。その語源においてはそういうことをあらわす言葉として「たましい」といわれてきたのだし、今でもみんなそのようなニュアンスで使っているじゃないですか。
「魂を込めて仕事をする」というとき、みずからの存在を懸けた「ありったけの思い」がこもっていない仕事なんかろくなもんじゃないし、仕事をするのにそれ以上の何が必要なのですか。日本列島の伝統においては、「命を成り立たせている霊魂」よりも、「もうい死んでもいい」という勢いの「心=たましい」のほうが大事なのであり、それが日本列島の伝統です。
もともと日本列島に「霊魂」などという概念は存在しなかったのです。「霊魂」は人間であれば自然に身に付いてくる概念(あるいはイメージ)であるとか、そういう問題ではない。
命が大事なら、肉体も大事でしょう。そしたら初音ミクの立体画像なんか、なんの値打ちでもない。初音ミクは「命」も「肉」も持っていないのです。命が「消えてゆく」ことのカタルシスの象徴として初音ミクがイメージされていったのであり、初音ミクのコンサートの観客たちは、命が消えてゆくときにこそ命も心ももっと活性化するという「この生の逆説」を体験しているのです。
そういう「この生の逆説」は、ライオンに追いかけられているシマウマだって知っている。
日本列島の職人は、「命が消えてゆくことのカタルシス」とともに「魂」を込めて仕事をしている。この生は「もう死んでもいい」という勢いで活性化してゆく。そのように「世界の終わり」に立って人と人が他愛なくときめき合ってゆく集団性の文化を洗練させてきたのが日本列島の伝統だったから、日本列島から初音ミクという非存在の女神が生まれてきた。ともあれ初音ミク賛歌が盛り上がってゆくムーブメントにそれなりの「集団性」がはたらいていなければ、ここまで完成されたイベントへと育ってくることはなかったでしょう。
初音ミク賛歌のムーブメントには日本列島の集団性の本質がかかわっているのであり、それはきわめて非宗教的なムーブメントなのです。
「霊魂」なんか知らないから「非存在」を称揚できるのです。なぜなら「霊魂」は「肉体」を支配する存在であり、「霊魂」が離れてゆくことによって「肉体」は滅びる。
でも日本列島では「肉体」が滅びても「幽霊」という「非存在」の「身体」は姿をあらわすのであり、その生命観の延長として「初音ミク」が生まれてきたわけだが、とにかくそれは非宗教であり、そこが問題です。
初音ミクは「宗教」によっては生み出すことのできない生命観のイメージであり、そこのところを外国人は「クール」といっているのだし、彼らだってそのことに癒されたり救われたりしている。
「存在するもの」ではなく「あらわれて消えてゆく非存在の現象」を祀り上げてゆく文化。
日本人は、歴史的に「命の存在」なんか大事にしてこなかった。大事にしないことが「命の活性化」になり、うまく死んでゆくことでもある、という文化を育ててきた。
「神(ゴッド)」や「霊魂」を知らないことは、知性的にも感性的にも、けっこう高度なのですよ。