体ごと反応するということ・ネアンデルタール人論236

大人になると「体ごと反応する」ということができなくなってくる。
「最近の歌は歌詞がよく聞き取れない」などと大人たちはいう。それは、歌詞の「意味」をとらえようとする意識ばかりが先行して、「音」そのものを聞こうとする態度があいまいになってしまっているからだ。
「音」はまず、耳の聴覚でとらえられる。歌詞の「意味」を解釈するのは脳のはたらきであり、大人たちは、その「音」の抑揚やリズムやメロディラインのニュアンスをとらえることができずに、漫然と聞き流してしまっている。
しかし若者たちは、その「音」のニュアンスをしっかり耳で聴きとっている。だから、少々早口で乱暴な歌い方をしても、ちゃんと歌詞をとらえることができる。まあ、それができなければ、ラップ・ミュージックなんか成り立たない。
「意味」以前の「音そのもの」のニュアンスを「耳のはたらきで聴き取る」ということ、すなわち「体ごと反応する」ということ、大人たちは、そういう態度がいいかげんなのだ。そうやって、べつに聴覚が衰えたわけでもないのに「歌詞がうまく聞き取れない」ということが起こる。
それだけ大人たちの心(意識)は、「意味」や」価値」に汚染されてしまっている。
人間は「意味」や「価値」を生きる存在か?そこに人間性の自然=本質がある、とおおかたの大人たちは信じ込んでいるらしいが、そんなものではない。「意味」や「価値」の外の「非日常」の世界に超出してゆくところにこそ、人間的な「ときめく」という体験がある。
歌を聴くときのわれわれの聴覚は、意味以前の「音」そのもののニュアンスをとらえ、そのあとに脳で「意味」を解釈したり、「音」そのもののニュアンスにときめいたりしている。つまり、「音」そのもののニュアンスをとらえることは、もっとも原初的な体験であると同時に、「意味」の外の「非日常」の世界に超出してゆくという究極の体験でもある。そしてこのことは、人類の歴史でも同じことがいえる。言葉はまず、「意味」以前のたんなる「音声」のニュアンスとして生まれ、やがてそこに「意味」を付与してゆくようになったが、それだけでは飽き足らず、たんなる日常的な「意味」を超えた詩や小説などの芸術表現が生まれてきた。
ピコ太郎が「アップル」とか「ペン」といっても、その「意味」が面白いわけではない。ただもう、「ペンパイナッポーアッポーペン」という「音声」そのもののリズムとか響きのニュアンスが、その「意味」を超えて面白く、耳にこびりついて離れなくなってしまうだけだ。
そういう面白さは、「聞く」という直接的な身体反応を豊かに持っている若者や子供だからわかるのであって、「意味」にとらわれてしまっている大人にはわからない。
大人になると、「体ごと反応する」という豊かな感動体験ができなくなってくる。そんな大人たちが「人生の意味」なんか説いても、「なんのこっちゃ」と思うばかりだ。彼らは、みずからの感動体験の薄さを、「意味」に執着しながら正当化しようとする。「自分」を捨ててときめいてゆくということができない。
「意味」や「価値」に閉じ込められてしまったら、おしまいなのだ。人の心は、「意味」や「価値」の向こうの「非日常」の世界に超出してゆく。そうやって、ときめき感動している。
人生は。原初においては「意味」などなかったのだし、究極においても「ない」のだ。