どうでもいい・ネアンデルタール人論235

承前
人類の歴史は、生き延びるため、すなわちこの生に意味や価値を見出しこの生に執着してゆくことによってつくられてきたのではない。人間性の本質は、そういう生き延びるためのシステムとしての政治・経済の問題にあるのではない。
現代社会においては、人類の歴史は生き延びるための政治・経済の問題によって決定されているという認識(=下部構造決定論)に覆われてしまっているのだが、それは違う。そうやって生きることに意味や価値を捏造してしまうその観念のはたらきこそ文明社会の病理の元凶であり、人の心は、そうやって停滞・衰弱してゆく。そうやって心がこの生に閉じ込められているから、ときめき感動する心が希薄になってしまうのだ。
人の心の動きのダイナミズムは、この生と決別して非日常の世界に超出してゆくことにある。そういう「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」とともに人類史にイノベーションが起きて進化発展してきたわけで、それこそが根源において人の思考や行動をうながしているものにほかならない。
生き延びようとする本能などというものはない。
この生は、無意味でばかばかしい。この生の意味や価値を解体した無意味なばかばかしさこそ、われわれの救いであり希望になる。人の心の「ときめき」や「ひらめき」は、この生に閉じ込めてあることの「いたたまれなさ」を跳躍台として生まれてくる。そういうことを、ピコ太郎現象が教えてくれている。
この生の意味や価値に充足しまどろんでいるものよりも、この生の意味や価値を必死になって追いかけているものよりも、この生が無意味でばかばかしいものであることの「いたたまれなさ」を抱えているもののほうが、ずっと豊かな「ときめき」や「ひらめき」を持っている。
人は、生きてあることがいたたまれなくてじっとしていられないのだ。われわれはそこから生きはじめる。人と人はもともと、その心を共有しながらときめき合い、この社会をいとなんでいるのではないだろうか。
なんのかのといっても、「ピコ太郎」の「PPAP」は、たとえ一瞬でも、世界中の人の心をつないでみせてくれたのだ。この生の意味や価値に執着・耽溺しながら、やれグローバル主義だやれ国家民族主義だと右往左往している現在の世界を、たとえ一瞬なりとも切り裂いてみせたのだ。
グローバル主義だろうと国家民族主義だろうと、われわれの「この生」の問題は、そうした政治や経済の動きによって解決されるのか?
そうじゃない。
そんなのどうでもいい。
「解決」を欲しがるということそれ自体が、心の停滞・衰弱なのだ。
この生の「いたたまれなさ」は、永遠に解決されない。解決されないことによって、この生は活性化する。「いたたまれなさ」を生きるものこそ、もっとも豊かにときめいている。
人間なら誰だって「いたたまれなくてじっとしていられない」というものを抱えている。心は、そこから「この生の裂け目」の向こうの「非日常」の世界に向かって超出してゆく。それがときめき感動するという体験であり、この生の意味や価値に充足しまどろんでゆくこと、すなわちその停滞・衰弱している状態が、人の自然であるのでもわれわれの願いであるのでもない。
右翼だろうと左翼だろうと経済至上主義者だろうと、彼らの差し出す「解決策」なんか、われわれはなんの興味もない。
この生は、意味や価値を付与して解決する必要なんか何もないのだ。この生は、無意味でばかばかしいものであることによって活性化する。人の心は、この生が無意味でばかばかしいものであることの「いたたまれなさ」を抱いてこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。

古坂大魔王は、「自分」をかなぐり捨てて「ピコ太郎」になりきってゆく。なにはともあれそれは、「世界の輝き」にときめいている態度なのだ。「なりきる」ということ、それは、心がどこまでイってしまえるか(=憑依できるか)ということであり、歌やダンスも含めたその「非日常性」こそが彼の表現なのだ。そして今どきは、素人の物まね番組などでも、プロ顔負けに「なりきってしまえる」若者がたくさんあらわれてきている。そういう時代なのだろう。「自分=この生」をかなぐり捨てて「自分=この生」の外の存在に「なりきってしまう」ということ、その「憑依」する力は、「ときめく」力でもある。
小説家は言葉に憑依してゆく能力を持っているし、「自分=この生」の「いたたまれなさ」を抱いている存在である人の心は基本的に、この世に世界や他者が存在するということそれ自体に憑依してときめいてゆくことができる。
まあ小説家でなくとも、根源的には人は言葉そのものに憑依して言葉を成り立たせているのであって、言葉の「意味」に憑依しているのではない。意味だけにとらわれるのは言葉のはたらきの停滞・衰弱であり、意味を越えてゆことによって、言葉はより豊かに生成するのだ。
「意味」を超えてゆくことによって「ときめく」ということが起きる。
生のはたらきとは、「世界の輝き」にときめいてゆくはたらきなのだ。「反応」してゆくはたらき、と言い換えてもよい。
「憑依」するとは、「反応」するということ。深く気づいてゆくことによって、「憑依」するという現象が起きる。それは、極限的な「気づく」ことであり、「反応」するということ。
「自分=この生」の外の存在に気づいてゆくこと。そのはたらきなしに生きものの生のいとなみは成り立たない。なにがしたいわけでもないけど、命のはたらきも心のはたらきも、この世界に「反応」せずにいられない。まあ、そうやってわれわれは生きているのではないだろうか。