無意味なばかばかしさこそが希望になる・ネアンデルタール人論234

承前
ピコ太郎は、世界中の子供や若者たちの圧倒的な支持を受けた。子供や若者は、今どきの平和で豊かな社会の大人たちが抱え込んでいるこの生やこの生活の「意味」や「価値」に執着した「ゆるーい幸せ」なんかに興味はない。
ピコ太郎は、「非生活者」である。彼の表現は、その衣装にせよダンスにせよ楽曲にせよ歌詞にせよ、「生活」の匂いがまるでない。ピコ太郎にはピコ太郎の心意気がある。この生やこの生活の「意味」をはぎ取り笑い飛ばしてやるんだという心意気、とでもいえばいいのだろうか。それによって彼は、「生活者の思想」すなわち今どきの大人たちがはまり込んでいるその「ゆるーい幸せ」の停滞・衰弱を軽々と超えてみせた。
笑うことにせよ泣くことにせよ、豊かな心の動きとしての「ときめき=感動」は、「この生の裂け目」の向こうがわにある。そうやって人の心は、「非日常」の世界に超出してゆく。
ピコ太郎のナンセンス芸というか、その「無意味」なばかばかしさは、「この生の裂け目」を表現している。
ピコ太郎こと古坂大魔王というお笑い芸人は、その20年の芸人人生を、無意味なばかばかしさに徹して「笑いのツボ」を追求してきた。それは、つねに「この生の裂け目」を見てきた、ということだ。
この生は、無意味でばかばかしい。
無意味なばかばかしさは、くせになる。無意味でばかばかしいから熱中できるのだ。人は、この生が無意味でばかばかしいものであることの「いたたまれなさ」にせかされてときめき熱中してゆく。
現代人がそのいじましい保身術に熱中するのも、自意識にしがみついて自己正当化に躍起になるのも、この生の意味や価値をけんめいに探そうとするのも、この生が無意味でばかばかしいものであることの「いたたまれなさ」にせかされているのだ。そうしてそのがんばりの果てに命や心のはたらきを停滞・衰弱させ、認知症やインポテンツになってゆく。それはまあ、一種の「燃え尽き症候群(バーン・アウト)」のようなものだろうか。そうやってこの生の「無意味なばかばかしさ=いたたまれなさ」から仕返しされている。
この生の命や心のはたらきは、この生の無意味なばかばかしさに憑依してゆくことによって、より活性化する。それが、この国の伝統である「あはれ」や「はかなし」や「わび・さび」や「無常」の美意識や死生観であり、
われわれの心はその「むなしさ」に憑依しながらときめき熱中してゆく。
たとえば、コマーシャルソングとかの無意味でばかばかしいフレーズほど「耳にこびりついて離れない」ということが起きる。
現代人の日常的な生のいとなみというか社会生活は、「意味」の上に成り立っている。それは、「意味」につながれてしまっているということであり、それがこの生の「閉塞感」にもなっている。人の心は、「意味」に憑依しつつ、「意味」から解き放たれたがってもいる。
この生は、いたたまれない。それが、人間の基本的な存在の仕方なのだ。われわれの心はもう、知らず知らず「意味」の外の世界に引き込まれていってしまう。それが「耳にこびりついて離れない」ということで、「意味」の外の「非日常」の世界に連れてゆかれることによって、この生の「いたたまれなさ」から解き放たれる。
「この生の裂け目」は、無意味なばかばかしさとして存在している。
生きているなんて、無意味でばかばかしいことだ。
人の心は、無意味でばかばかしいことに引き寄せられていってしまう。いたたまれないこの生からの解放は、そうやって体験される。そうやって心は、この世界の輝きにときめき感動している。
ときめき感動することは、この生の意味や価値から解き放たれることであって、この生の意味や価値によってもたらされる体験ではない。

宇宙の神秘を解き明かすなんて、無意味でばかばかしいことだ。しかし、だからこそ科学者はそのことに熱中してゆく。科学者が科学という学問に熱中してゆくことは、「この生の裂け目」に入りこでゆくことだ。彼らは、敗北するに決まっている戦いに挑み続けている。
それに対して、「神」とか「霊魂」という意味や価値の概念で宇宙の神秘を解き明かしたつもりになっているスピリチュアリストたちは、彼らこそこの生に閉じ込められてしまっている。彼らは、「意味や価値の外に超出してゆく」という「ときめき」を知らない。彼らにとってこの世界はすべて、神の定めた意味や価値の中に収まっている。
「ときめき」とは、意味や価値の外に超出してゆくことであって、意味や価値が「ときめき」をもたらすのではない。
ときめく心を失って生きてきたものが、スピリチュアルにのめり込むのだろう。伊勢白山道も江原なんとかも、みんなそうじゃないか。「生かされてあるこに感謝しよう」だなんて、笑わせてくれる。勝手に感謝していろ、という話だ。ときめく心の薄い人間にかぎって、この生に意味や価値を置きたがる。この世界の輝きを見ていないから、神の輝きを見てありがたがっている。ときめきを知らないものたちは、そうやって何もかも意味や価値に収めてしまおうとする目的意識というか自意識が旺盛で、そうしないと生きていられないらしい。まあ、この生もこの世界も神がつくったものであるのなら、そりゃあ意味も価値もあるのだろう。「神」といってしまえば、たいていのことは解決する。そうして伊勢白山道も江原なんとかも、厚かましく他人に人生指南をしまくっている。まあ、指南してもらいたがっている「迷える子羊」がたくさんいる世の中で、どっちもどっちなのだが、不感症の人間ほど、この生の意味や価値を欲しがる。
彼らは、この生の意味や価値に充足しまどろんでいるだけで、少しもときめいていない。この生の「いたたまれなさ」にせかされて熱中してゆく、というその「過程」のときめきを知らない。
この生の意味や価値を知って「感動する」などということはない。満足することができるだけのこと。意味や価値に感動するのではなく、感動したから意味や価値が付与されるだけのこと。そうしてその意味や価値を置き去りにする体験として新しい感動が生まれ、さらに新しい意味や価値が付与されてゆく。人類の歴史は、その永遠の繰り返しであるのかもしれない。
感動することは、「不意の出来事」として体験される。すなわち、あらかじめ持っている意味や価値を喪失する体験であり、「いったいこれはなんなのだ?」と驚きときめくことだ。それは、意味や価値の外にある、ともいえる。
べつに名画や名曲を鑑賞するというようなことだけでなく、ふと誰かの笑顔にときめくということだってひとつの感動であり、それは、いわば「生まれてはじめてのこと」として体験されるのだ。人の心の「ときめき」は、そのようにしてやってくる。
ピコ太郎の動画と出会って目が離せなくなることだって、日常生活の意味や価値から逸脱した「不意の出来事」として体験されている。つまり、意味がないからおもしろいのだ。それは、「日常生活=この生」の意味や価値をはぎとって、「この生の裂け目」を見せてくれているのであり、子供や若者たちはこの生の「いたたまれなさ」を抱えている存在だから、そういうことに敏感に反応する。大人のように、この生の意味や価値に充足しまどろんでいるのではない。彼らの「いたたまれなさ」は、けんめいにこの生の意味や価値の外に超出してゆこうとしている。
まあ人間なら誰の心の中にもこの生の「いたたまれなさ」は疼いている。「いたたまれなさ」にせかされて原初の人類は二本の足で立ち上がったのであり、人間的な文化というのは、つまるところそこから生まれ育ってきたのだ。
「ときめき」は、「非日常」の世界への超出として体験される。人の心は、この生の「いたたまれなさ」にせかされながら、「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いている。だから、ピコ太郎の動画に世界中の人が引き寄せられた。人類は、この生の「いたたまれなさ」を共有しながら、直立二足歩行の起源以来の700万年の歴史を歩んできた。文明社会の制度的な観念においては「この生=日常」の意味や価値に憑依しているとしても、心の「ときめき」は、そこから「非日常」の世界に超出してゆく体験として起きている。その「ときめき」の上に人間的な文化や人と人の関係が成り立っている。そうやって人は、学問や芸術や恋やセックスをしている。それは、この生の意味や価値からの超出というか、その解体として体験されている。
この生は、無意味でばかばかしい。意味や価値を解体した無意味なばかばかしさこそ、われわれの救いであり希望になる。