「PPAP」はおもしろいか・ネアンデルタール人論233

承前
「ピコ太郎」が世界中にネット配信しているお笑いパフォーマンス芸は、「この生の裂け目」を表現している。
なんだか知れないけど面白い……彼は、そうやって「この生の裂け目」を切り開いてみせてくれた。そうしてその向こうにこの生の外の「非日常」の世界が広がっている。人の心は、この生の外に超出したがっているのであって、この生に執着してまどろんでいるだけでは、人としての知性も感性も官能性も停滞・衰弱していってしまう。
驚異的に大ヒットした『ペンパイナップルアップルペン』のことを書こうと思ったのだが、すでに『ネオサングラス』という次の動画が出回っていて、こちらも、前回ほどではないにせよ、それなりに世界中で注目されているらしい。閲覧者の反応としては、「こちらの方が面白い」という人もいれば、「前回ほどのくせになる中毒性はない」という人もいるのだが、いずれにせよ、この「ピコ太郎」こと「古坂大魔王」というお笑い芸人の、「この生の裂け目を表現する」というオリジナルな才能は世界中で認知されつつあるのかもしれない。
そしてこれはもう、現在の世界史的な問題を含んでいるのかもしれない。
資本主義とと共産主義の対立という冷戦構造が終結した以後の世界は、平和で豊かな時代になるとともに、「生活者の思想」に覆われていった。そうやって「経済の繁栄を目指す」というかたちのグローバル資本主義が天下の世の中になっていったわけだが、今やそのかたちが批判されたり敵視されたりする動きも現れてきた。ISをはじめとするさまざまな民族紛争とか、イギリスのEU離脱とか、アメリカのトランプ大統領の選出とか、民族や国家のエゴイズムがむき出しになってきてもいる。
しかし、グローバル資本主義だろうと、民族主義国家主義だろうと、根は同じなのだ。この生やこの生活が大事だという「生活者の思想」に覆われた時代だからそうなる。どちらも「生活者の思想」として、生き延びるための「経済」の繁栄や安定を目指している。
人は、ほんとうに生き延びたがっているのか?学問や芸術であれ、ただのお笑い芸であれ、人類の文化は、生き延びようとあくせくすることの精神的な停滞からの解放として機能している。
生きてあることには、「ときめき」が必要だ。生き延びることにあくせくしていたくない。
「ピコ太郎」の表現の真骨頂は、そのようなこの生やこの生活に執着しきった世界の情況に「裂け目」を入れることにある。今や人々は、この生やこの生活に執着しきっていると同時に、その停滞・衰弱した状況から解放されたがってもいる。
「生活者の思想」なんかどうでもいい……ピコ太郎の動画が世界中で爆発的に受けたということは、世界中でそういう気分が露出してきていることを意味するのかもしれない。
リンゴやパイナップルにペンを突き刺すことは、この生もこの生活もどうでもいい、ということの象徴だともいえる。この生やこの生活を笑い飛ばすということ、そういうことが注目されはじめている時代であるのかもしれない。
彼は、この生やこの生活の「いたたまれなさ」をよく知っている。それは、彼が苦労をしたとかしなかったとかということよりも、持って生まれた資質・才能の問題であるのかもしれない。
苦労をして生きてこようと、贅沢をして生きてこようと、現代人の多くは、この生やこの生活に縛られてしまっている。そうして、「この生の裂け目」に対する視線を失いかけている。その視線を欠いては、この生からの解放もときめき感動する心もない。
まあ、イギリスのEU離脱やトランプ大統領の選出の問題を、富裕層と貧困層、グローバル主義と国家(あるいは民族)主義というような二項対立の図式では語れない。
格差社会などといっても、誰もが「生活者の思想」すなわちこの生やこの生活に縛られてしまっている。生きることも生活することもどうでもいいことなのに、それこそが大事だという。そうやって、生きることも生活することも貧相になってしまっている。
欧米の富裕層のラグジュアリーな暮らしには豊かな「ときめき」があるのか?もしかしたら貧乏人が生きることにあくせくしていることとたいして変わりはないのではないのか。この生やこの生活に執着してしまったら、どちらに転んでも、人間的な知性や感性の停滞・衰弱を招くほかない。
ボードレールは、「人生なんか召使の女にくれてやれ」といった。
生きることとも生活することとも決別することによって、生きることも生活することも豊かになる。世界は今、そういう逆説に気づきつつある。
われわれは、すでに生きて生活してしまっている。われわれにとってそれは、未来の目標ではなく、決別するべき過去であり、そこから解き放たれて「今ここ」に心が自由にはばたいてゆくことこそ、人が生きることの差し迫った課題なのだろう。ピコ太郎は、『ペンパイナップルアップルペン』で、そのための「この生の裂け目」を鮮やかに切り開いてみせた。
そのパフォーマンス表現は、とりわけ面白いわけでもはっきりとした意味があるわけでもないが、西洋人にとって「アップル」にペンを突き刺すことは、言葉の「意味」の呪縛から解き放たれることにもなっているのかもしれない。西洋人は、われわれ日本人よりももっと言葉の「意味」に縛られて生きている。彼らの社会では、言葉の「意味」が正確に機能していることの便利さもあるが、それに縛られて人と人の関係や社会のいとなみが不自由になっているということもある。
それに比べて日本語の「意味」はあいまいで、人と人の関係にきっちり決着をつけることが上手くできない代わりに、あまりきつく縛られないというメリットもある。親子の関係も、男と女の関係も、わりとあいまいで風通しよくしておくことができる。まあ、中国や韓国ほどには、それらの関係の「規範」に縛られていない。それは、「言葉」の「意味作用」そのものがあいまいなお国柄だからだろう。
日本人は、そういう「あいまいさ」と戯れることができる。これはもう、日本列島の伝統的な歴史風土であり、お家芸なのだ。「ピコ太郎」こと古坂大魔王というお笑い芸人は、この20年間をマイナーであることに耐えながら、つねにそういうところにある「笑いのツボ」を追求してきたのであり、実力も、この表現を生み出した必然性もあるのだ。陳腐な言い方だが、時代がようやく彼に追いついてきた、ということかもしれない。彼は、これからもきっと、そうしたあいまいで不思議な「笑い」のパフォーマンスをコンスタントに発表し続けてゆくに違いない。世界を相手にしてどこまで受けるかは未知数にせよ、とりあえず『ペンパイナップルアップルペン』は、この生やこの生活に執着してやれグローバル主義だ国家(民族)主義だと右往左往している世界に、それなりに鮮やかな風穴を開けてみせたのではないだろうか。