この生の裂け目に気づく文化・ネアンデルタール人論232

70年前の敗戦後日本の復興のエネルギーになったのは、スポーツや芸能等の「娯楽」産業の盛り上がりにあった。そのころの日本人は、衣食住そっちのけで「娯楽」を欲しがった。まあ日本列島の歴史風土にはそういう「お祭り好き」の伝統があるし、人間なんて普遍的にそういう生きものなのだともいえる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、生き延びるためではなく、生き延びることそっちのけの「娯楽」だった。その不安定で危険な姿勢を常態化することは、生き延びる能力を喪失して猿よりも弱い猿になってしまうことだったのだが、それによって人と人のときめき合う関係が豊かになっていった。そういう「娯楽=祭り」としてはじまったのだ。
そうして地球の隅々まで拡散していったことにしても、その新天地はつねにより住みにくい土地だったが、同時に、人と人のときめき合う関係としての「娯楽」がより豊かに生成している場所でもあった。その新しい土地で見知らぬものどうしが豊かにときめき合っていったからこそ、どんなに住みにくくても住み着いてゆくことができた。
人類は、衣食住のことそっちのけで地球の隅々まで拡散していったのだ。生き延びるためだったのではない。
戦後日本の復興だって、そのような人類史の伝統に添った出来事でもあった。
戦後の日本人が衣食住のことにこだわりだしたのは、高度経済成長がはじまって衣食住があるていど満たされるようになってきてからのことだ。
それは60年代以降のことで、そのころから地域の盆踊り等の「祭り」の行事が衰退してゆくことになる。
もちろん人の世であるかぎり娯楽産業はいつだって盛んであるが、このころを境にして「衣食住」のことや「生き延びる」ということに対する関心というか欲望がどんどん膨らんでいった。
「生活者の思想」ということがさかんにいわれるようになってきたのも、平和で豊かな時代になったこのころからのことだ。身近な生活の場面の大切さを再認識する、などといっても、それはつまり衣食住に対するあくなき欲望追求の時代のはじまりだった。
そのころの「生活者の思想」の第一人者はなんといっても「大衆の原像」という概念を掲げた吉本隆明だったわけだが、そこから現在の内田樹の「街場の」なんたらというはやし言葉にいたるまで、その潮流はいまだに続いているらしい。
貧しい時代には「生活を大切にしよう」という思考は生まれてこない。人々は、「もう死んでもいい」という勢いでひとときの「ときめき=娯楽」を生きようとする。
平和で豊かな時代だからこそ「生活=衣食住」に対する欲望が肥大化する。そうやって「自我の充足」にまどろみながら、ときめく心が停滞衰弱してゆき、認知症になったりインポテンツになったりしている。
確かにまだまだ「生活者の思想」がもてはやされる時代ではあるのだろうが、そのことの矛盾だってあらわれてきている。
バブル景気が終わっていまやゼロ成長の時代だといっても、「生活が大事だ」といっているかぎり、それはいまだにバブルの夢を追いかけているのと同じなのだ。
ほんとに高度経済成長の時代が終わったと自覚するなら、「生活」などそっちのけで「遊び=娯楽」に熱中してゆけという話だ。
小林秀雄は「思想は、実生活から生まれて、実生活と決別することによって思想になる」といった。人間なんて、もともとそういう生きものなのだ。
「生活者の思想」なんて、自意識過剰のものたちによるただの倒錯にすぎない。
貧しいものたちは、「生活」に耽溺なんかしていない。生活と決別することを余儀なくされているのであり、それが人類史の伝統でもある。人類は、遊び呆けて歴史を歩んできたのであり、それによって「言葉」をはじめとする文化のイノベーションを生み出してきたのだ。

というわけで、現在のこの国の情況が今なお「生活の充実」が求められているとしても、ともあれバブル景気が消えてしまったのであれば、生活と決別して「非日常」の世界の「ときめき」を生きようとするムーブメントも起きてきているはずだ。
人としての「ときめき」が希薄になってしまっている、という時代の情況がある。自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)とか統合失調症とか、さまざまな発達障害の精神病理が語られているが、それらの問題は「自分を知る」とか「自己意識の安定」というようなことで解決されるはずもなく、「ときめき」がなければ心はゆがんでしまうに決まっている。ときめいていなければ、人は生きられない。であれば、それらの社会病理に対する反省・反動の兆候も起きてきているに違いない。社会的に成功すれば、それらの病理は病理として自覚されないが、誰もが成功するわけでもない。まあ、それらの病理を抱え込んだまま成功しているものたちが自己正当化の論理を吹聴しまくり、世の中がそれに煽られてしまっている、という情況がある。吉本隆明内田樹は、そうやって「生活者の思想」を引っ提げてこの社会の表舞台に登場してきた。彼らは、現代人の自意識過剰の傾向を色濃く体現した存在であり、その自意識過剰を正当化しながら民衆の心を引き寄せていったというか、民衆の心に寄生していったというか、彼らと民衆は「共犯者」なのだ。
まあ、そういう自意識過剰の空騒ぎはいまだに続いている気配だが、たとえば現在のこの国から世界に向けて発信されている「ジャパン・クール」と呼ばれる知性や感性は、この国の伝統としての「自意識の薄さ」の上に成り立っているのであって、そうした空騒ぎから生まれているのではない。
世界中が自意識過剰になってしまっている現在の情況においては、「自意識の薄さ」は「クール」そのものだろう。
「自意識の薄さ」は、「自分=この生=この生活=日常」を忘れて「非日常」の世界に超出してゆく体験をもたらす。
自意識過剰の現在には、自意識過剰であるからこそ、「自意識と決別する」というもうひとつの情況も生まれてきている。
「ジャパン・クール」の知性や感性は、自意識から生まれてきて自意識と決別することによって「非日常」の世界に飛躍・超出してゆく。それは「この生」に対する視線ではなく、「この生の裂け目」に対する視線なのだ。その裂け目の向こうの「非日常」の世界に気づいてゆくことによって「かわいい」とときめいている。
このところの相次ぐ大震災は、「生活=日常」との決別を余儀なくされる体験だった。そこで、震災に遭わなかった自分の「生活=日常」の大切さを改めて思った人もいれば、その「非日常」の事態にこそ人としての真実があると気づいた人もいる。そこでこそ人と人がより深く豊かにときめき合い助け合っていった、ということもある。
それは、「生活=日常」の裂け目と遭遇する事態だった。
人と人は、「生活=日常」と決別する「かなしみ」を共有しながらときめき合ってゆく。あの大震災で、そういうことを体験した人もいる。
人が人を想うことは、生き延びることの充足の上に成り立っているのではない。人と人は、生き延びることの不可能性の「かなしみ」を共有しながらときめき合ってゆく。
人と人の関係がうまくゆかなければ、集団は成り立たない。国家であれ、会社や学校であれ、家族であれ、基本はそういうことだろう。
そして人の心の自然は、「喪失感=かなしみ」の上に成り立っている。心は、そこから華やぎときめいてゆく。どんなに平和で豊かな社会になろうと、「喪失感=かなしみ」を共有しつつときめき合ってゆくことは、人の集団の普遍的な自然なのだ。まあそういうことを、われわれは、あの阪神淡路大震災東日本大震災等々の体験で教えられた。平和で豊かな「生活」の大切さをあらためて思い知ったのではない。今どきの大人たちが平和で豊かな「生活」に執着しながら人としての「ときめき」を失っていることは、じつは誰もがすでに気づいている。心の底で気づいている。何もいわなくても、何をいっても、そういうことはすでに顔つきにあらわれている。
人は「生活」を大切にするだけではすまない存在であることを、じつは誰もが心の底で気づいている。ときめき合う関係がなければ、人は生きられないし、集団も成り立たない。誰もが、ときめき感動する体験を欲しがっている。そういう時代の情況だってすでにあらわれてきている。
感動は、「この生=この生活」の裂け目の向こう側にあり、その「非日常」の世界に超出してゆく体験として起きている。そこにこそ、人の世界における「文化」という現象の本質があるのではないだろうか。
人類は、生き延びるための方法として「文化」という現象を生み出したのではない。「もう死んでもいい」という心地とともに起きてくるときめきや感動から生まれてきたのだ。
無意識のところですでに「もう死んでもいい」という勢いを持っている人は魅力的だし、誰だってそういう勢いでときめき感動している。じつは誰だってそういう勢いで生きていたいわけで、どんなに「生き延びること」や「生活」が大事だと合唱されている世の中であっても、一方では、「もう死んでもいい」という勢いでときめき感動してゆこうとする情況もすでに生まれてきている。

四方を荒海に囲まれた孤島で異民族の侵略を体験することなく歴史を歩んできた日本人は、伝統的にこの生を守ろうとする意識が薄いところがある。そうして、「もう死んでもいい」という勢いでときめき感動してゆく文化を育ててきた。それは、「この生の裂け目」に気づいてゆく文化であり、そこから「もののあはれ」や「はかなし」や「無常」や「わび・さび」の美意識が生まれてきた。
人は普遍的に「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を持っている存在であるが、日本列島では、たとえばキリスト教の天国や仏教の極楽浄土というような「非日常」の世界をいきなりイメージするのではなく、そこに向かう「この生の裂け目」そのものにときめいてゆく文化を育ててきた。そこを表現してみせるのが「ジャパン・クール」の感性であり、そうやって若者たちは「かわいい」とときめいている。「かわいい」ものは、「この生の裂け目」に存在している。ハリウッドのパニック映画のように、いきなり「非日常」の世界に連れてゆくのではない。
おそらく、もともと日本列島には、「神」や「霊魂」や「生まれ変わり」や「天国」や「極楽浄土」といった概念は存在しなかった。それらはすべて大陸から輸入したもので、縄文人弥生人は、ひたすら「この生の裂け目」に対する視線を育ててきた。
外国人は「死と生」の二項対立で思考しているが、日本人はこの生そのものに「裂け目=非日常性」を見ている。すなわち、この生に対する執着の薄さがこの生の充実になる、という逆説を生きてきたのであり、それが、「ジャパン・クール」の感性にほかならない。
日本列島には、この生を称揚してゆくような歴史風土はない。この生を称揚しないところにこの生の充実がある。この生の充実は、「もう死んでもいい」という勢いにある。
日本列島の女は貞操観念が薄くて、かんたんに男にやらせてあげてしまう。それはもう、縄文時代以来の伝統で、「もう死んでもいい」という勢いでやらせてあげる。女は、すでに「この生の裂け目」を見てしまっている存在であり、だから「女三界に家なし」という。それはもともと「生」「死」「生まれ変わり」という「三界輪廻」のしがらみから解脱した仏の境地をあらわす仏教用語だったわけで、女を差別しているのでもなんでもなく、「女にはかなわないなあ」という詠嘆がこめられているのであり、後世になってから女の不安定な社会的地位を意味するようになったにすぎない。男こそ、家とかこの社会とかこの生とかいう「三界」に縛られているみじめな救われない存在なのだ。
思考や感慨がこの生の外の「非日常」の世界に向かって飛躍・展開・超出してゆくことこそ人の心の動きの自然であり、日本人はすでに、その契機となる「この生の裂け目」を見てしまっている。
もののあはれ」とは、「この生の裂け目」のこと。「もの」は、われわれにまとわりついている「この生」のことで、「あはれ」とはそれが「消えてゆく方向」のこと。その方向に向かってわれわれの心は動いてゆくというか、移ろってゆく。

この国に「生活者の思想」が定着する伝統はない。「思想は実生活から生まれて、実生活と決別することによって思想になる(小林秀雄)」ということ。人はこの生や生活に執着してゆく存在ではなく、この生や生活と決別することによって人間的な知性や感性をはばたかせてゆく。なにより、そうしないと、人と人が豊かにときめき合う関係は生まれてこない。それがなければ、社会集団のいとなみは停滞・衰弱してゆく。
世の中は、「生活者の思想」だけではすまない。そんな思想を振りかざして正義ぶっても、そんな思想をありがたがっていても、あなたたちの知性や感性はすでに停滞・衰弱しはじめているし、すでに新しい潮流が胎動してきている。
この国においてそれは「この生の裂け目」に気づいてゆくことであり、そのとき人は、この生やこの生活と決別するというその「喪失感」とともに「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいている。
この国おいては、「未来の社会はかくあらねばならない」などという正義の思想は、つねに置き去りにされてゆく。すべては、移ろい動いてゆく。「自己の正当性」も「社会の理想」も、「命の尊厳」も、どうでもいいのだ。
たとえば、渋谷駅前の交差点でハロウインのお祭り騒ぎに浮かれている大勢の若者たちの多くはこの世の落ちこぼれかもしれないが、正義の思想を説く大人たちをすでに置き去りにしてしまっている。そんな大人たちにリードされてなんかいない。大人たちなんか、眼中にない。彼らの視線の先に横たわっているのは、「この生の裂け目」なのだ。
すべての人類の視線の先には「この生の裂け目」が横たわっている。それに気づくか気づかないかの違いはあるにせよ。
そして、ネトウヨヘイトスピーチも、安保法制反対の市民運動も、けっきょくは「この生=生活」に執着しているだけで、ハロウインのお祭り騒ぎのような大きな集団は組織できない。目的を持って結束している集団よりも、無目的なお祭り騒ぎのほうが大きな集団になる。
そのバカ騒ぎは、中世の「踊念仏」とか、江戸末期の「ええじゃないか」の騒動や「おかげ参り」の伝統だともいえる。社会が停滞すると、無目的なお祭り騒ぎが自然発生してくる。この国の民衆には、「未来のよりよい社会を構想する」というような伝統はない。「この生の裂け目」の向こうの「非日常」の世界に超出してゆこうとするお祭り騒ぎの衝動が起きてくるだけだ。
バブルのころまでは誰もが「衣食住」の充実を目指していたが、今やそんな「生活」などどうでもよくなってきている。現在の若者たちの多くは、車も高級ブランドの服もリッチな食事も欲しがらなくなってきている。ユニクロやコンビニ弁当や居酒屋でけっこう、という。彼らは「生活」と決別しようとしているし、それはおそらく人として自然なことだ。
日本人は「この生の裂け目」に対する視線を持っている。「生命賛歌」も「生活者の思想」も「人生の意味や価値」も「国家の理想」も、どうでもいい。
無目的なお祭り騒ぎが好きだということは、死に対する親密な感慨とともに「喪失感」を抱きすくめて生きてゆこうとしているということであり、獲得すべきものなど何もない。「人生の目的」や「未来の社会」など説かれても、ピンとこない。
大切なことというか、われわれの心の中心にあるのは、何かを獲得することではなく、「もう死んでもいい」という勢いで「喪失感」を抱きすくめてゆくことにある。心は、そこから華やぎときめいてゆく。
この国の若者たちのあいだで大きな感動のムーブメントをもたらすのは、神とか正義というようなあからさまで大げさな非日常の世界というより、そこへの入り口としての「この生の裂け目」の物語なのだろうし、それがこの国の伝統的なお家芸なのだ。
たとえば「ピコ太郎」の「ペンパイナップルアップルペン」、あの不思議な表現は、みごとに「この生の裂け目」を切り開いている。みごとに「生活」と決別している。