時代は変わる・ネアンデルタール人論247

最近『この世界の片隅に』というアニメ映画が評判になっているらしい。
戦時中に広島から呉に嫁に来た女性の日々の暮らしの話。
僕も観てきたが、泣けるというよりは、いろいろ考えさせられる映画だった。さりげないというか、つねに抑制された語り口で、「戦争反対」とか「戦争の悲惨さ」とか、そんな主張は画面の向こうに隠されたまま、淡々と話は進んでゆく。こんなさりげない物語の映画がヒットするということが、何か不思議な感じがしないでもない。時代は少しずつ変わりつつある、ということだろうか。
「泣かせる」ということなら、『君の名は。』のほうが圧倒的に巧緻でたくさんの仕掛けを用意してくれている。計算され尽くしているというか、まあ、上手に泣かせてくれるものだなあ、と感心させられる。スピルバーグの映画みたいだというか、しかし、男女の体が入れ替わるというようなことがあるはずないし、タイムスリップとか隕石の話なんかも非現実的でありふれた設定だし、それで話を盛り上げようなんてやることがあざと過ぎる、という感想を持つ人も多いかもしれない。
それに対して『この世界の片隅に』は、戦時中の庶民の暮らしのささやかな現実をひたすら忠実・精密に再現しようとしているだけの、妙につつしみぶかい映画だった。そういう意味では、「君の名は。」と対照的なつくりになっているのかもしれない。だから、「日常の大切さがしみじみと伝わってくる」というような評価があるのだが、しかし戦時中の日常が貴重で素晴らしいものであるはずがない。貴重なのは、そんな苛酷な日常でもというか苛酷な日常だからこそ、人の心はそこから飛び立って「非日常」的なときめきを紡いでゆくというところにこそ、この映画の真骨頂があるのだろう。
まあ『君の名は。』は非日常の世界に迷い込んだ二人が日常に回帰するという物語で、それに対して『この世界の片隅に』は、戦時下というやりきれない日常に置かれながらもつねに非日常的な「ときめき」を紡ぎ続けている話で、日常から飛翔してゆく物語だともいえる。そしてそのためには、主人公の女性のように浮世離れして無防備でのほほんとしていたほうがいいらしい。「非日常」的なキャラクターなのだ。だから、苛酷な日常でも、辛がってはいない。心は、日常の裂け目の向こうに飛び立ちときめいてゆく。
日常が大切なのではない。王様であれ乞食であれ、誰にとっても生きてある現実は、「日常」以外の何ものでもない。どんな日常であれ、心がそこから飛び立ってゆくことによって、ときめくという体験が生まれる。戦争というもっともひどい日常だからこそ、ときめくという「非日常性」が大切になる。日常が大切なのではなく、日常の裂け目を見出すことが大切なのだ。「戦争は日常を破壊する」というが、戦争をしていれば戦争が日常になる。そして、それでも世界や他者は輝いているということに気づいてゆく。輝きは「日常の裂け目」であり、心は、その向こうの「非日常」の世界に向かって飛び立ちときめいてゆく。それが「日常を工夫する」ということだ。そうやって主人公の女性は戦時中を生きていた。まあ、庶民はたいていそうやって生きていたのであり、「戦争という日常」にのめり込んでいたのではない。
人の心は、「日常=この生」の裂け目を見出し、その向こうの「非日常」の世界に向かって飛び立ちときめいてゆく。戦時中であれ、平和で豊かな現在であれ、そういう体験がないと人は生きられない。そういう体験がないと、心は病んでゆく。この映画は、平和で豊かな「日常」を生きるわれわれが、あのひどい時代のひどい日常を生きた人々ほどときめき合い心を通い合わせているかという問題が提起されている。まあ、イマジネーション豊かに生きているか、と言い換えてもよい。
瀬戸内の風の強い日には、海にたくさんの白波が立っている。少女時代の主人公は、それを見て、たくさんの白いうさぎが飛び跳ねているみたいだという。そのイマジネーションの「飛躍」は「日常の裂け目」を見る視線であり、人間的な知性や感性はそこから育ってくる。
つらい日常だからこそ、つねに「日常=この生」の裂け目の向こうに想いを馳せて暮らしていた。つらい日常の中で日常にとらわれてばかりいたら、心はどんどんすさんでゆく。戦時下の庶民の暮らしにおいて、「日常の大切さ」なんか成り立たない。
戦争が終わったときに、人は夢から覚める。そうして、現実=日常と向き合わされる。この映画の場合なら、広島に原爆が落ちて実家の肉親を失ってしまうなど、敗戦の現実と向き合わねばならなくなった。これからはもう自分で人生をを切り拓いてゆかねばならない、戦時中のように流されるままではいられない、という想いが胸に込み上げてくる。つまり、いやでも「自我」というものを持たされてしまう。もう夢見る少女ではいられない、私は私を失ってしまった、と気づく。そのことのいたたまれなさに気が狂いそうになる。私も、何も知らないまま死んでしまいたかった……そのようにして主人公の「戦後」がはじまった。
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映画はここで終わっているわけだが、戦後の日本人は夢と希望を抱いて歩みはじめたのではない。なにはともあれ、まず深い喪失感に浸された。それはきっとそうに違いない。戦争のさなかのひどい日常においても宝石のような体験やときめきはあったわけで、そういうこともすべて否定して、さあこれからが本当の人生で、ほんとうの社会だ、などとすっぱり割り切って生きてゆくことなんか誰もできなかった。
大げさにいえば、この映画の主人公のように、人々は絶望の淵に立って生きはじめた、といってもよい。
だからこそ、何はさておいても他愛なくときめいてゆくことができる「娯楽」を欲しがった。衣食住のことはさておいても、映画や歌やスポーツなどの「娯楽」に夢中になっていった。原節子美空ひばり力道山若乃花栃錦や……。
なのになんだか知らないけど、いつの間にか「戦後左翼」といわれる知識人の群れが雨後のタケノコのようにどんどん登場してきて、戦前戦中という時代が完全否定され、「戦後民主主義」が無条件で肯定されていった。それはまあ、民衆の「喪失感」に寄生してゆくような現象だったのかもしれない。民衆にとっても、自分たちが生きてきた時代に対する「喪失感」と向き合っているよりは、完全否定された方がかえって気が楽だったのかもしれない。そりゃあ、家族や友人がどんどん死んでゆく苛酷な運命を受け入れながらひどい日常にも耐えてきたわれわれのあの暮らしはいったい何だったのだ、という恨みはどうしてもある。そんなことより、今現在の満たされた日常生活に執着・耽溺していった方がずっと気が楽だ。そうやって戦後の日本人は、あの戦前戦中という時代との「別れ=総括」を果たす機会をしだいに失っていった。つまり、あの時代を完全否定して今の平和と民主主義こそ人間社会のあるべきかたちだということにされたら、あの時代の生も死もすべて「存在した」という根拠を失ってしまう。そうやって情け容赦なくあの時代を屠り去ってしまうなんて、あまりにも傲慢で無神経ではないか。
「二度と戦争の悲劇や愚かさを繰り返してはならない」といえば、なんだか疑うことのできない正義のように聞こえるが、それでもあの時代のさなかにも、宝石なような生のかたちはあったのだ。
現在の左翼的な民主主義や市民主義であれ右翼の国家・民族主義であれ、その清く正しく豊かで幸せな生のかたちよりも、清くも正しくも豊かでも幸せでもないどうしようもなくひどい生のかたちの中にこそ宿る宝石のような輝きというのもやっぱりあるわけで。
あのひどい時代に死んでいった人たちをきちんと弔い、あのひどい時代を潜り抜けてい生き残った人たちをきちんとねぎらうというのが、人としての最低限のたしなみというものだろう。どんなにひどい生活だろうと、二度と戻ってこないのだ。現在の平和で豊かな生活をしているものたちが、平和で豊かではないという理由のもとに、それをかんたんに否定してしまっていいのか。
この世界の片隅に』という映画は、そういうことを訴えているともいえる。
この平和で豊かな時代に呆けヅラして生きる「幸せ」とやらが、そんなに素晴らしいのか?その「幸せ」こそが大切だと振りかざす正義が、そんなに立派か?
敗戦による絶望の淵に立たされた主人公は「この国から正義が飛び去ってゆく。私たちは(国家権力という)暴力に屈しただけだったのか?私も何も知らないまま死んでしまいたかった」と自問する。
それはまあそうかもしれないのだが、人は運命を受け入れる存在であり、生きられなさを生きようとする存在でもあるという、その人間性の自然に引きずられてしまったともいえる。そして、そういう人間性の自然に引きずられてしまうのが、この国の伝統としての歴史風土なのだから仕方ない。
人の心は、生きられなさを生きるところでこそ華やぎときめいてゆく。そういう強さと弱さがこの国の伝統であり、普遍的な人間性の自然でもある。
人類の歴史は、生きられなさを生きながら進化発展してきたのだ。
この世界の片隅に』という映画は、戦時下におけるささやかな庶民の暮らしの「生きられなさを生きることの輝き」を徹底して描いている。「日常の大切さ」というのなら、「日常の中にあって日常から超出してゆくことの大切さ」なのだ。そういう「ときめき」がないと、人は生きられない。
まあ戦時中においては「戦争という日常」に執着・耽溺してゆく人間がたくさんいたし、平和で豊かな現在においても平和で豊かであることの日常の「幸せという自我の満足」に執着・耽溺しているブサイクな人間がたくさんいる。平和で豊かな時代だからこそ人間嫌いになってしまう情況もたくさんあるわけで、だからこの映画がヒットしたのかもしれない。
日常の大切さを見直すというよりは、人間を見直すということ、そういう情況がじわじわ広がりはじめているのかもしれない。人間とは何かという問題は、政治でも経済でも解決されない。人が生きることには、自我の満足とか衣食住の満足以前の問題が潜んでいる。人間の歴史を、そんなレベルだけで考えていると間違う。そんな「意味」や「価値」の観念レベルだけで他人や世界を吟味したり裁いたりしているだけでは、「ときめく」という体験はできない。人間的な知性や感性は育たない。今どきは、「ときめく」という体験のできない人間がうんざりするほどたくさんいる世の中で、それでも人は、誰もが「ときめくという体験がないと生きられない」というこの生の与件を背負って生きている。