死と背中合わせ・ネアンデルタール人論246

どんな世の中だろうと、生きてあることはなんだか居心地が悪い。
人の一生というのは、いったいなんなのだ、と思う。
戦時下に咲く恋や友情もあれば、平和な世の中の停滞した関係や憎しみ合いもある。幸せで長生きする人生が、苦しくはかない人生よりも充実しているともいえない。。
人が次々に死んでいったネアンデルタール人の社会と、生き延びることが約束された平和で豊かなこの国の現代社会と、どちらの生が充実していたかというようなことはいえない。
誰だって自分以外の人生など生きられないし、生きるに値するのは自分以外のものたちであって自分ではない、という思いがどこかしらで疼いている。
人は、生きるに値しない生を生きようとする。それでもこの世界や他者は輝いているわけで、そうやって自分を犠牲にしてでも人を生きさせようともする。その「もう死んでもいい」という勢いというか無意識の衝動こそがこの生を活性化させる。
女にとって自分が産んだ赤ん坊は、自分の命をすり減らすだけの対象でしかない。そんなことはたぶん、産む前から知っている。それでも産む。そして育ててゆく。自分の人生がどんどんむなしくなってゆくことの恍惚というのがあるらしい。
自分なんかむなしい。生きていてもしょうがない存在だ。
人を生きることに執着させるなんて、ひとつの拷問だと思う。人は、この生やこの自分に執着しながら心を病んでゆく。社会的に成功した人たちはそうやって幸せに浸ってゆくこともできるのだろうが、それ自体心の停滞・衰弱の兆候でもあり、そして成功しなかったものたちは、そのためにますます生きることがしんどくなってしまったりする。
社会運動というのだろうか、この世の中をよくするためのネットワークはあちこちでいろいろつくられている。しかし、ほんとに世の中がよくなれば万々歳なのだろうか。
みんなが幸せに生きられる社会をつくろうといったって、どんな社会になっても社会からはぐれていってしまう人間はいるし、社会からはぐれていってしまう心の動きは誰の中にもある。人の心は、社会やこの生からはぐれながら活性化してゆくという側面を持っている。
因果なことに人は、悲劇を生きようとする存在でもある。「悲劇の主人公になったつもりで……」などといったりするではないか。女が妊娠出産することは、ひとつの悲劇を生きる体験に違いない。それは、この生からはぐれてゆく体験なのだ。われわれがうまく生きられない愚かで弱くこの世の無用の存在であるほかないのも、それはそれで、人間性の自然として「悲劇」に引き寄せられていることでもある。

生きてあることは、いたたまれない。生きてゆくことは、「けがれ」がたまってゆくことだ。汚れてゆくことだ。そういう自覚のないものたちが妙な「生命賛歌」を合唱し出すわけで、そうやってますます心がこの生に閉じ込められ、「非日常」の世界に飛翔してゆく「ときめき=感動」を失ってゆく。そうやって、どんどん自意識過剰になってゆく。「感動する=ときめく」ことができないということは、それだけ「自分=この生」に強く執着しているということで、平和で豊かな時代になった近ごろでは、そういう年の取り方をする大人たちがとても多い。そうやって彼らは、、認知症やインポテンツになってゆく。
「感動する」という体験は、「けがれ」をそそぐというか、命の洗濯になる。命の洗濯をしてゆかないと人は生きられないし、その体験とともに命も心も活性化してゆく。人は、この生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いている。
命の洗濯をしないで命に執着・耽溺してゆく生き方ばかりしてきたから、認知症やインポテンツになってしまう。そうなりたくなかったら、せいぜいセックスに励めよ、ということはあるかもしれない。なにはともあれセックスは、「非日常」の世界に飛翔してゆく体験になる。しかし、感動=ときめきがないのなら、セックスもできないし、学問や芸術もできないし、魅力的な人間にもなれない。この世界や他者の輝きが人を生かしているのであって、「自分」や「この生」の意味や価値をまさぐってばかりいたら、命も心も停滞・衰弱してゆく。
そしてこの世界や他者の輝きは、その意味や価値にあるのではなく、「存在そのもの」にある。
人がなぜ「悲劇」に感動し涙するかといえば、「悲劇」とは意味や価値を失って純粋な「存在そのもの」になってしまう状態だからだろう。「命の洗濯をする=けがれをそそぐ」とは、意味や価値を捨てて純粋な「存在そのもの」になろうとするいとなみなのだ。
誰だって「無垢(イノセント)」な存在になりたがっているし、感動し涙する体験は、人を生まれたばかりの赤ん坊のような「無垢(イノセント)」な存在にしてくれる。
現代人は生き延びようとする意欲が旺盛だが、それが生きものとしての自然=本能だとはいえない。それが本能であるのなら、「食物連鎖」など成り立たない。すべての生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。だから「食物連鎖」という現象が起きる。命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで起きるのだ。
「感動する」という心の動きは、「もう死んでもいい」という勢いで起きるわけで、だから泣けてくる。悲しくないのに、泣けてくる。たとえば映画を見て、この世にこんな人がいるなんてなんと素敵なことだろうとときめきながら泣けてくる。感動すれば、そのことばかり想って、自分に対する意識はからっぽになっている。それは、「自分」という存在が消えてゆく心地であり、そういう「悲劇」の体験なのだ。
人は「自分が消えてゆく」体験を欲しがっている。それが「けがれをそそぐ=みそぎ」という体験であり、そのためにたとえばわざわざ冬のさなかに滝に打たれるというようなことをする。それは、「もう死んでもいい」という勢いで自分=身体を消してゆかないと耐えられる行為ではない。

原始人は、「もう死んでもいい」という勢いで、どんなに住みにくいところでも住み着きながら、とうとう地球の隅々まで拡散していった。
「もう死んでもいい」という勢いが、人類の歴史に進化発展をもたらした。
「進化論」や「起源論」は、「生き延びるため」という問題設定で考えると間違う。人類は、生き延びるための「利益」を求めて二本の足で立ち上がったのでも、言葉を生み出したのでもない。それはもともと、「もう死んでもいい」という勢いで「非日常」の世界に超出してゆく、ときめき感動する体験だった。
ときめき感動する体験が、人を生かしている。
ネアンデルタール人クロマニヨン人は、洞窟壁画として狩りの対象のウマやシカやウシなどの草食獣ばかり描いていたが、それらを殺して食べていたからといって、それらが憎かったのでもなんでもない。それらを壁画として描いたということは、ときめき感動する愛着してやまない対象だったということを意味する。彼らは、それらの対象と、「もう死んでもいい」という勢いで無邪気に命のやりとりをしていた。その愛着や感動が、彼らをして狩りに駆り立てた。「生き延びるための利益」ということは二次的なことで、なにはともあれときめき感動する心の動きなしにその行為に熱中してゆくダイナミズムは生まれてこなかった。この国の、熊の鉄砲打ちの「マタギ」だって、そういう感慨というか心意気を抱いて雪深い山の中に入ってゆくのだろう。海の漁師にだって、魚に対するそうした感慨はあるに違いない。人間にとって海は、死と背中合わせの場所だ。それでも彼らは漕ぎ出す。それだから漕ぎ出す。そこに感動=ときめきがあるから。
人類の歴史のいとなみを、ただの「生き延びるための利益を求めて」というアプローチだけで説明されても困る。その奥に「もう死んでもいい」という勢いで「非日常」の世界に超出してゆこうとする無意識のはたらきがあり、心も命も、そこでこそ活性化する。人類史のイノベーション、すなわち直立二足歩行の起源も、人類拡散も、言葉や国家(共同体)や貨幣の起源も、そういう問題が潜んでいるのだ。そしてわれわれの社会がこれからどこに向かおうとしているのかということだって、そういう人間性の自然・本質の問題を抜きにして考えることはできないのではないだろうか。
ときめき感動する体験がないと、人は生きられない。それがないと、心も命のはたらきも、停滞・衰弱してゆく。なんのかのといってもその体験が人を生かしているのであり、それはつまり社会や時代だって人の思う通りに動かせるわけではないということで、その体験こそがわれわれの希望であると同時に、その「もう死んでもいい」という無意識の衝動によって思わぬ方向に動いていったりするのだ。