人間嫌いと遠い憧れ・ネアンデルタール人論248

ほんとに、「人間嫌い」になってしまいそうな世の中ではないか。
だから、そうなってしまうのがつらくて『この世界の片隅に』というような映画が流行るのだろう。
いやな世の中だけど、それでも魅力的な人がこの世のどこかに生きていてくれることは、われわれの慰めになり、励みになる。かつて、この世のどこかに生きていた、ということだっていい。われわれは歴史に身をあずけて生きるしかない。
誰も、歴史の外には出られない。いやな世の中だといって、歴史の外の自分勝手な観念世界を紡いでいるだけでは、心が病み衰えてゆく。「神」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」とか、人は、目の前にありもしないそんな観念世界を信じてゆくことはたしかに可能だし、それによって救われているという思い込みもあるのだろうが、それによって心が病み衰えている人もたくさんいる。
「信じ込む」とか「思い込む」ということは、ひとつの思考停止であり、知性や感性の停滞・衰弱にほかならない。現代社会には魅力的誘惑的な言説や物にあふれており、われわれの心は、知らず知らず「信じ込む」とか「思い込む」という罠にはまってしまう。べつにそれらのオカルト的なイメージだけでなく、お金の意味や価値を信じ込むことや、命の尊厳の意味や価値を信じ込むことや、民主主義や国家・民族主義の意味や価値を信じ込むことだって、現代社会に仕掛けられたひとつの「罠」だといえなくもない。
なぜ「信じ込む」とか「思い込む」ということに浸ってゆくかといえば、それによって「自我」が安定するからだ。自我の安定に執着耽溺しているものほど、他者やこの世界を意味や価値で吟味したり裁いたりしたがる。目の前の他者や世界の、その存在そのものに他愛なくときめいてゆくということができない。生まれたばかりの赤ん坊のような、そういうタッチを失っている。彼らはなんだか賢げだが、その知性や感性には限界がある。たとえば一流の学者や芸術家とか、そういうものたちは、じつは障害者をはじめとする「この世の生きられない弱いもの」と同じ、生まれたばかりの赤ん坊のような他愛ないときめきを持っている。つまり、どんなに目的意識で頑張って賢げなふりを装っても、他愛なくときめき夢中になってゆく探求心やひらめきのダイナミズムにはかなわないのだ。

今どきはマスコミ知識人による「反知性主義」に対する批判がよくなされているが、彼らの知性がどれほどのものかはよくわからない。ただ、「自分は知性的である」という「思い込み」をしっかり持っているからそういう批判が堂々とできるのだろう。
お金の意味や価値に対する信仰の上に成り立っている世の中は、人々の「思い込み」のメンタリティを増殖させるし、「思い込み」の強い人間が社会で成功する。自分は知的な人間であるという「思い込み」は、偏差値や学歴やたくさんの本を読んだということなどに担保されている。それは、お金の意味や価値を信じることと同じなのだ。世の中そのものが、「思い込み」を増殖させるような構造になっている。
自分は知的な人間であるという「思い込み」がなければ、「反知性主義」の批判なんかできない。
しかし彼らの知性なんか、どれほどのものか。
彼らよりももっと高度な知性や感性は、「自分は生きられない愚かな弱い人間である」という自覚(あるいは状態)とともに育ってゆく。この世のもっとも本格的な学者や芸術家は、そういう自覚とともに、つねに「なにだろう?」「なぜだろう?」と問いながら身もだえして生きている。
「わからない」から「なに・なぜ?」と問う。それに対して彼らは「わかっている」という「思い込み」が強いから、それ以上考えようとしない。彼らにとってそれは本で調べればわかることで、考える必要なんかない。彼らはこの世界を「すでにわかっている」ことの範疇で解釈する。未知の荒野に分け入ってゆくということはしない。
お金は、「すでにわかっている(=決定されている)」ものとして成り立っている。現代人は、お金に対するそういう信仰を共有している。
自分は知的な人間であるという思い込みは、お金の意味や価値を信じることと同じで、神や霊魂や生まれ変わりを信じる心理にも通じている。現代社会は、そういう構造が出来上がってしまっている。
自分の知性や感性に対してであれ、お金に対してであれ、それを信じる「思い込みを」を強くしなければ社会的な成功はおぼつかないし、それによって心を病んでゆきもする。つまり、そうやって自我が安定し、停滞してしまいもする。安定と停滞は、同義なのだ。どちらも自我の世界に閉じ込められてしまっている。
自我の世界の安定は、他者世界を「裁く」ことによって成り立っている。彼らは、他者や世界に対する警戒や緊張を生きているのであり、他者や世界の存在そのものに対する無防備なときめきはない。彼らは、みずからの観念世界の「意味」や「価値」によって他者や世界を裁き続けている。
そうしてこの世界の意味や価値を確立できない愚かなわれわれは、つねに彼らから裁かれながら生きていなければならない。

他者を裁きたがる彼らは人間が好きで、裁かれるわれわれは人間嫌いになってゆく。ほめられるにせよけなされるにせよ、われわれは、彼らのいい餌食なのだ。
たいして知的でもないくせに、知的なつもりになってわれわれを裁いてくる。自意識の虎の穴に潜って、他者を裁くことばかりしている。それがうんざりなのだ。そうやってわれわれは、ますます人間嫌いになってゆく。
平気で他者を吟味し裁いてゆく、そのなれなれしさは、ほんとにうっとうしい。
無神経でなれなれしいから、人間が好きになれる。ヒューマニズムなんて、ひと皮むけばそんなものだ。自意識の虎の穴に潜り込んで、世界や他者を裁いてばかりいる。世界や他者なんか、自分の自意識を満足させるための道具だというくらいにしか思っていない。なんの義理があって、われわれがあなたの好きな人間になるための努力をしなければならないのか。あなたを好きにならねばならないのか。人と人がときめき合える社会をつくろうなんて、ときめき合っていない証拠だ。「社会をつくろう」という、その作為がうっとうしい。自分のことを好きになるよう、他者に強制している。好かれたくて、うずうずしている。
ネアンデルタール人の社会で誰もが他愛なくときめき合っていたといっても、そういう社会をつくろうとしたのではなく、ときめき合っている「結果」としてそういう社会になっていたというだけのこと。彼らは、「自意識の虎の穴に潜って他者を裁く」ということなどしていなかった。「社会をつくろう」となんかしていなかった。現代人のそういう合唱がわれわれはうっとうしいのだし、「社会をつくろう」とすることがそもそも病んでいる証拠であり、そうやって他人に強制しているのだ。
ネアンデルタール人は、もっとひとりひとりが孤立していた。そのさびしさとかなしみを持ち寄りながらときめき合っていた。彼らは、人に好かれたがってなどいなかった。好きにならずにいられなかっただけだ。
人と人の関係の基本は、そういう一方的な想いを共有してゆくことにあるのであって、現代社会のコミュニケーション論のように、おたがいに相手を「操作」し合うことではない。その、相手を操作しようとするスケベ根性をぶつけてこられると、ほんとにうっとうしい。いったいそのなれなれしさはなんなのか、と思ってしまう。

原始人には、他者を「操作」しようとする欲望は希薄だった。猿は、操作し操作される関係を確立・確認するために、さかんにグルーミングという行為をする。しかし原初の人類は、そういう関係から解き放たれてたがいに孤立してゆくことによって猿から分かたれた。そしてそれは、たがいに、他者に対して「遠い憧れ」とともにときめき合ってゆく関係になることだった。
現代人が称揚している「コミュニケーション」なんて、ようするに猿のグルーミングのようなものだろう。まあそれで世の中が動いているのならそれに従うしかないのだが、そんなところに人間性の自然・本質があるわけではないし、そんなことばかり強制されると、ますます人間嫌いになってしまう。
現代社会に生きていれば、誰の中にも人間嫌いの感慨は疼いている。それはもう、文明社会の避けがたい宿命かもしれない。誰もが人間嫌いの感慨を飼い慣らして生きている。しかしだからこそ、この世のどこかに魅力的な人が存在しているとか、かつて魅力的な人が存在していたという「遠い憧れ」も心の底のどこかしらに息づいている。
誰の生も、「魅力的な人の存在」から照射されている。だから「魅力的な人」になろうとするものや、「魅力的な人」であるつもりの「思い込み」を強くしているものがたくさんいるわけだが、われわれのように「この世の生きられない愚かで弱いもの」たちは、すでにその欲望や目的を剥奪されている。ただもう「この世のどこかに魅力的な人が存在している」とか「かつて魅力的な人が存在していた」という「遠い憧れ」それだけを紡いで生きているしかない。
「人間嫌い」とは、「遠い憧れ」を紡ぎ続けることだ。
まあ、人間性の自然として、人が死者を弔い懐かしむのも、そういう「遠い憧れ」が作用していることかもしれない。
いつだって死者は、美しく完全なかたちをしている。そのことを想えば、魅力的な人になろうとするとか自分は魅力的な人だ思い込むことがいかに醜悪ではた迷惑なことかと気づかされてしまう。