いい暮らしがしたいか・ネアンデルタール人論244

人は、正義に淫して心を病んでゆく。
戦後の核家族においては、親が、マスコミから発信されてくる「ホームドラマ=家族賛歌」という正義に淫して、子供の心に覆い被さっていった。「家族賛歌」が「家族崩壊」の元凶にもなっている。家族なんか「仮の宿り」と思っているくらいでちょうどよい。そりゃあ誰にだって、大切にしたい「父との思い出」「母との思い出」「兄弟姉妹との思い出」はあるだろうが、家族が「仮の宿り」だからこそ、そういう一対一の関係の思い出が切実なものとして胸に残ってゆくのだ。
家族としての「結束」なんか、緩やかな方がいい。
他者やこの世界に対して警戒し緊張しなければならないほど「自分」や「家族」が大切なものになってしまっていいはずがない。
自分には正義はない、すべての正義すなわち存在することの正当性は自分の外にある、と思い定めて生きることはとてもしんどい。しかし世界の輝きは、その生きてあることのいたたまれなさでこそ立ちあらわれてくる。われわれは、そういう無防備な裸のひりひりした心を携えて生きることができるだろうか。ネアンデルタール人のように。生まれたばかりの赤ん坊のように。
あなたたちの薄っぺらな人生論なんぞに興味はない。愚かなダメ人間で、何が悪い。人は、人間性の自然を失いながら人格者になってゆく。誠実ぶった人格者なんて、下品だ。誠実ぶった人間たちが寄り集まって程度の低い人間論や人生論で結束してゆく……今どきの世の中はそのようにできているらしいが、若者や子供たちはその光景を眺めながらうんざりしている。というか、その光景から追い詰められてもいるし、その結束から逃れて他愛なくときめき合ってゆく関係を模索してもいる。なにはともあれ、「この生=日常」の裂け目の向こう側に「非日常」の世界を見てゆくのがこの国の歴史風土であり、大人たちより彼らのほうがずっと日本列島の伝統に添って生きている。彼らは自意識が薄い。薄ければ、自然に伝統に包まれてゆく。
それに対して大人たちは、「人はこうあらねばならない」とか、「よい世の中をつくるにはこうしなければならない」とか、自意識を膨らませてそんな作為的なことばかり考えながら、伝統からも人間性の自然からも離れてしまっている。彼らは、伝統が大切だと叫びながら、伝統というものを何もわかっていない。伝統を叫びながら、伝統を失っている。

伝統は、作為を持たない無防備な心に下りてくる。そうやって受動的に身に付いてゆくものであって、作為的な心でこねくり上げるものではない。それはまあ、われわれの心のどこかしらで息づいている「歴史の無意識」が勝手にしてくれているいわば光合成のような作用であり、何も知らない子供の心にも宿っている。
まあね、今どきの右翼の人たちがえらそぶって合唱している「伝統」なんて、ただの俗物根性の別名じゃないかと思うわけですよ。彼らが本気で伝統と向き合っているとは思えない。彼らは伝統と向き合い伝統を救い出そうとしているのではなく、「伝統」というスローガンに寄生しながら自分に執着し自分を救い出したいだけであり、そうやって自分の存在の正当性をまさぐっているだけでしょう。
べつに国家主義民族主義を標榜しなくても、それぞれの国で言葉が違うように、「伝統」などというものは子供の心にも宿っているわけで、知らず知らずそれぞれの国それぞれの民族の心に沁み込んでいる。
伝統など意識しないときのほうが、伝統が健全に機能しているのだ。
今どきの右翼は、伝統を共有しているのではなく、伝統というスローガンに対する執着を共有しているだけだ。
何が「美しい国」か。じゃあ、よその国は美しくないのか?彼らは、そういうつもりでいる。そうやって、つねによその国を警戒し緊張しながら生きている。それはもう、日々の暮らしのまわりの他人に対してもそうなのだ。そうやって彼らの心は病んでいる。彼らは、自分や自分の国の正当性(=美しさ)に執着しながら、この国の伝統である「この生の裂け目の向こうに非日常の世界を見る」という視線を失っている。人間の本性としての、非日常の世界に対する「遠い憧れ」を持っていない。その「遠い憧れ」こそこの国の伝統なわけで、彼らは、伝統というスローガンに執着しながら、すでに伝統そのものを見失っている。
まあそういうこの国の伝統としての「遠い憧れ」は、彼らよりももっと無防備で他愛ないというか自意識の薄い若者や子供の心にこそ豊かに宿っているわけで、そうやって「かわいい」とときめいている。「かわいい」とときめくことは、この生の「裂け目」に気づく体験なのだ。
伝統というのは、それぞれの地域の歴史風土とともに形成されてきた体質というか遺伝子のようなもので、避けがたくあらわれてくる「振舞い」であって、わざわざスローガンとして標榜するべきものでもない。それは、われわれの可能性であると同時に限界でもある。「国民」として生きるのではなく、「ひとりの人間」として生きることの、そのときめきやかなしみやいたたまれなさや心細さの中にこそ伝統が宿っている。他者や他の国に対して警戒し緊張しながら生きるためのものではなく、それぞれの地域において人と人が無防備に他愛なくときめき合ってゆくことができる「振舞い」として育ってきたのだ。まあ、そうやって言葉が生まれ育ってきたわけで、伝統とは、その地域の人々が無防備にときめき合う関係になるために育ててきた歴史文化のことだ。
たがいに「日本人」ということを意識しないでも関係を結ぶことができるのが「伝統」であり、われわれは、異民族との関係において、はじめて日本人であることを意識する。そうやって異民族に対しても同じ日本人どうしの他者に対しても、とにかく人に対してつねに警戒し緊張しているから、むやみに「日本人」ということを意識するのだ。つまり自意識過剰ということ。ある人は、今どきの右翼の人たちのそうした心の動きのことを「非合理的で偏頗な排他的自己愛」といっていたが、まさにそうだと思う。彼らは、なんとしても自己の存在の正当性が欲しいらしい。彼らの、日本人は素晴らしいという思い込みは、自分が素晴らしいという思い込みでもある。そしてその思い込みは、他者の存在を否定することによってしか得られない。何が「美しい日本」か。そうやって人は、「正義」に淫してゆく。そうやって心を病んでゆく。
彼らは、他者の存在の輝きに気づいてゆく感受性、すなわちこの国の伝統としての、この生の裂け目に気づいてときめいてゆく「遠い憧れ」がおそろしく欠落している。

いや、その「遠い憧れ」は人類史の普遍的な伝統でもあるわけで、その基礎はおそらくネアンデルタール人によってつくられた。
氷河期の極寒の地、そのしんどくていたたまれない生のさなかに置かれていたら、避けがたくこの生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いてしまう。自分のこともこの生のことも忘れて何かにときめいてゆくという体験がないと生きられない。ネアンデルタール人の場合、現代人がよくいうような「未来にいいことが待っているから」などという慰めが成り立たない条件のもとで生きていた。その、極寒の氷河期の寒さに四苦八苦して生きることは、死ぬまで逃れられない宿命だった。しかし、だからこそ彼らの暮らしには、我を忘れて「今ここ」にときめいてゆくという体験のダイナミズムが豊かに生成していた。
まあ現代人のいう「未来のいいこと」というのは、おおむね「豊かで文化的な暮らしができるようになる」ということだが、彼らの国家主義民族主義だって、けっきょくのところそういう「経済的繁栄」を目指しているにすぎない。
アメリカのトランプ大統領は根っからの経済人だし、この国の総理大臣だって「経済の繁栄」を売り物にしながら例のカジノ法案をごり押しして成立させようとしている。
トランプに投票した人たちは、「もっといい暮らしがしたい」という望みを託したのであって、アメリカ国民としてのアイデンティティに不安を持っているからではない。そのアイデンティティに凝り固まりながら、「もっといい暮らしがしたい」と望んだのだ。
この国の多くの右翼の人たちだって、アイデンティティの不安など持っていない。凝り固まっている。そうして「もっといい暮らしがしたい」という経済の望みばかり膨らませている。つまり彼らは、グローバル資本主義に反発しているように見えて、じつは煽られているだけなのだ。
他者やこの世界の輝きに対するときめきを失った人間は、「もっといい暮らしがしたい」という望みで生きてゆくしかない。他者や世界に対する警戒や緊張は、「もっといい暮らし」をすることによってしか解決されない。そうしてそれによって得られるのは、自己の生の正当性であって、他者や世界の輝きに対するときめきではない。
自己の生の正当性は、他者の生の生を否定し他者よりも優位に立つことによって得られる。他人よりもプラスアルファを持っているという自覚、他人よりも人間として優秀だという自覚は、他人よりもお金をたくさん持っているという自覚によって得られる。右翼の人たちは、そうやって移民や他民族が自分たちと同じレベルかそれ以上の暮らしをしていることが許せないし、まあ経済とはそうやって「余剰」とか「利潤」を追求する行為なのだから、まさに彼らの求めるものでもある。彼らは「余剰」とか「利潤」ということにとても敏感で、とても執着している。とにかく、自分の生の正当性が欲しいのだ。そのために「知能」や民族としての「純血」を誇示しようと、経済の優位を誇示しようと、ようするに「余剰」や「利潤」の追求なのだ。右翼とは、自己の生の正当性の追求であり、「余剰」や「利潤」の追求であり、そうやって文明社会が生まれてきた。そうやって文明社会は、他民族を排斥し他民族と戦争するようになっていった。
まあ右翼であろうと左翼であろうと「自己の生の正当性」が欲しいわけで、それはけっきょく「よりよい暮らしの追求」ということになる。

文明社会は「自己の生の正当性の追求」の上に動いている。と同時に、人間であるかぎり、自分を忘れて世界や他者の輝きにときめき感動してゆくという体験がないと生きられないし、そういう体験している人には、知性においても感性においても人間的な魅力においてもけっきょくのところかなわないわけで、どんなに「自己の正当性の追求」に邁進する社会になっても、最後の最後のところでそれだけではすまなくなる。それはもう歴史が証明するところで、「自己の生の正当性の追求」は必ず挫折する。そんなことばかりやっていると心はどんどん停滞・衰弱してくるし、「自己の生の正当性」にしがみついていたら死ねなくなってしまう。まあ、そうやって「霊魂」とか「死後の世界」を信じようとするわけだが、ほとんどの人は信じ切れないで精神を停滞・衰弱させてしまうし、信じ切って満足しながらときめき感動する体験を失ってゆく。
信じようとするとか、信じ切るとか、やっかいなことだ。そうやって心は病んでゆく。そうやって「問う」という「ときめき」を失ってゆく。
「自己の生の正当性」とか「民族の優秀性」とか「神」とか「霊魂」とか「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか、人は根源においてそれらのものを信じようとしているのでも信じ切っているのでもない。たとえ「それは何か?」と問うことはあっても、信じようとしているのでも信じ切っているのでもない。そんなものは「わからない」のだ。われわれは、その「わからない」ことのなやましさやくるおしさやいたたまれなさを生きている。そうして何もかも忘れ、心を真っ白にして、「今ここ」の目の前にあらわれたものにときめき感動してゆく。そういう生まれたばかりの赤ん坊のような「イノセント」にこそ、人間的なもっとも高度で豊かな知性や感性が宿っている。
右翼であろうとあるまいと、インテリであろうとあるまいと、自己の生の正当性に執着している人間の知性や感性などたかが知れている。この生の意味や価値を追求するだなんて、やめてくれよと思う。この生に意味も価値もないし、そんなことはどうでもいい。それでもわれわれにとっての「今ここ」の目の前にあらわれている世界や他者はきらきら輝いている、それだけのことさ。この世界の輝きが人を生かしているのであって、この生の意味や価値を信じることによってではない。そんなありもしないものというかあるのかどうかわからないものを信じて、なんの足しになるというのか。
日本列島における神道の「神=かみ」は、「隠れていて姿をあらわさないもの」として認識されてきた。それは、「かみ」を信じると同時に信じない態度でもある。「かみ」を問いつつ「わからない」と認識する態度である。そうやってこの生この世界の「裂け目」の向こうの「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を紡ぎ続ける態度である。
日本列島の「かみ」は、存在するのでも存在しないのでもない。「見えない」のであり「わからない」のだ。そうして、ただもう「今ここ」の目の前にあらわれた現象にときめき感動しつつ、その現象の向こうに何かが隠されてあることに気づいてゆく。冬の透明な日差しの向こうに春が隠されてあることに気づいていゆく。そうやってわれわれは「正月」のめでたさを祝ってきた。そのとき「かみ」は、「隠されてある春」として認識されている。この国の神道の伝統は、そういう「自然との率直な交歓」として受け継がれてきたのであって、本質的には「自己の生の正当性」が欲しいとか「いい暮らし」がしたいというようなスケベ根性を満たすためのものだったのではない。
人類は、「自己の生の正当性」や「いい暮らし」を望んで歴史を歩んできたのではない。そんなものを得るための「正義」なんかどうでもいい。ただもうこの世界の輝きにときめき感動しながら生きてきただけであり、それによって人間的な知性や感性を進化発展させてきたのだ。