この生の裂け目が見えるということ・ネアンデルタール人論243

ネアンデルタール人の社会は、フリーセックスの社会だった。
人間性の基礎はフリーセックスにある……といってしまっていいような気もする。人類の歴史は、そこからはじまった。
フリーセックスの文化は、新しいものに気づきときめいてゆく文化でもある。セックスのパートナーがつぎつぎに新しくなってゆ……そうやって人類の文化は、古いものをどんどん脱ぎ捨て進化発展してきた。
新しいものは、「今ここ」の向こうに隠されてある。答えが隠されてあることを感じるから、「問う」ということをする。
それは、「未来」を予感するとか予測するということではない。
新しく出会った人は、たくさんの答えを隠して「今ここ」に存在している。答えは、「今ここ」の向こう側の「今ここ」にあり、「今ここ」ではないところの「今ここ」にある。そのとき「あなた」は、「今ここ」の「日常」の向こう側の「非日常」の存在として「私」の前に立ちあらわれている。
人の「セックスアピール=人間的魅力」は、そういう「非日常性」にある。
セックスは「今ここ」の「日常」において「非日常」の世界に超出してゆく行為であり、一年中発情している存在である人類にとってのそれは、「日常」の行為であると同時に「非日常」の行為でもある。
「新しいもの」は「非日常」の存在であり、「今ここ=日常=この生」のいたたまれなさを抱えた存在でもある人は、「今ここ」の向こう側の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いている。そうやって人は「問う」ということをする。そうやってネアンデルタール人は、たとえば新しく出会った旅人に対しても他愛なく無防備にときめいていったし、みずからもまた旅立っていった。誰もが、旅の心を携えて生きていた。
西洋のフリーセックスの文化の伝統は、「問う」文化でもある。問いを投げかけられて、機知を利かせて切り返す。西洋人は、そういう会話の妙を知っている。スフィンクスのなぞなぞ。日本列島にも、なぞなぞの文化の伝統はある。それは、漂泊の文化なのだ。
「この生=日常」の裂け目の向こうの「非日常」の世界に気づきときめいてゆくこと、それが人間的な「問う」という態度であり、なぞなぞの問いはこの生の「裂け目」の上に成り立っている。「この生=日常=常識」にとらわれていたら、解くことができない。セックスの快楽は、この生の「裂け目」の向こう側に超出してゆくことにある。「超出してゆく」というか、「堕ちてゆく」というか、人間性の基礎としてのフリーセックスの文化は、けっして生命賛歌ではない。

人類拡散の東の果ての日本列島の歴史もまた、新しいものに気づき発見するすることのときめきがことのほか豊かに機能してきた。だから日本人は外来文化にかんたんに飛びついてゆくし、季節の「はつもの」を珍重する習俗文化にもなっている。冬の真っ盛りの正月に春の気配を感じる。それは、次に春が来るという未来を想うことではない。ほんとうに「今ここ」の寒さの中に春の気配が隠されていることを感じている。正月は、その気配できらきら輝いている。その「初春」という気配は、春爛漫のさなかよりももっとめでたい。「今ここ」において「春が隠れている」ということ、すなわち「秘すれば花なり」ということ。
問題の中に答えが隠されていることに気づき問うてゆくことを知性や感性という。西洋人が問題をこじ開けて答えを引っ張り出す探求心が旺盛だとすれば、日本人は「隠されてある」というそのことに対する親密なメンタリティを持っている。だから西洋人と日本人は、おたがいに足りないものを補い合う研究のパートナーになることができる。明治以来日本人は、西洋人の探求心の執拗さに驚き感心してきたし、西洋人もまた日本人の隠されているものに気づいてゆく直感力を評価してきた。
現在でも、科学の最先端では、西洋人と日本人が共同で研究するチームが数多くつくられている。この国では、中国や韓国よりも世界の最先端の研究の場に呼ばれる研究者の数が圧倒的に多く、だからノーベル賞をもらう研究者の数も必然的に多くなる。
ともあれ日本人は、隠されているものに気づいてゆく感性が豊かだからこそ、西洋人ほどの執拗な探求心が持てないという限界も抱えている。そしてそれは、ネアンデルタール人縄文人の対比として考えることができるし、それぞれの言葉の違いにもあらわれている。
極寒の環境のもとに置かれたネアンデルタール人は、つねに意識を自分の身体から引きはがしてひたすら世界や他者にときめき続けていないと生きられなかった。ときめき続けること、それが西洋人の探求心であり、彼らのまなざしの濃さにもなっている。彼らは、ときめきが停滞・衰弱してゆく「けがれ」という状態をよく知らない。そんな状態では生きられない歴史を歩んできたわけで、つねに過酷な環境世界によってもたらされるいたたまれなさからせきたてられてきた。
それに対して日本列島では、気候は温暖だし、海に囲まれた島国で異民族との交歓も軋轢もなかったから、刺激がないというか、そんな歴史の無意識として、すぐに心が停滞・衰弱してくる性向を抱えてしまっている。おまけに大陸と陸続きになっていた氷河期以前は人類拡散の東の行き止まりの地だったから、そのころからすでに狭い地域のわりには人口密度が高かった。そうして、人と一緒にいることやひとつのところにいるのがすぐに鬱陶しくなってしまう傾向があった。そういう「けがれ」の意識、しかしこれは原初の人類が二本の足で立ち上がったときの状況と同じであり、人は人間性の自然としてその鬱陶しさから解き放たれて「非日常」の世界に飛び立ってゆく心の動きを持っている。
日本人は、わが身の「けがれ」を強く意識する民族だからこそ、隠されているものに気づいてゆく感性が発達してきた。そうやって心は、「非日常」の世界に旅立ってゆく。
日本人は、縄文時代の1万年のあいだ、ついに大きな集団としての共同体をつくらなかった。人は、避けがたく大きな集団をつくってしまう存在であると同時に、集団を鬱陶しがる存在でもある。そうやってネアンデルタール人縄文人も、つねに集団の離合集散を繰り返していた。繰り返しながら西洋人は執拗な探求心の文化を育て、日本人は隠されているものに気づいてゆく文化を育ててきた。

「ここにはいられない」という気分、そこから執拗な探求心が生まれ、隠されたものに気づいてゆく感性が生まれてくる。その気分があるからこそ、新しいものとの出会いにときめき、この生(生活=日常)と決別してこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。
人間なら誰だって心の底に「ここにはいられない」という気分を抱えている。その気分を共有しながら、淡くゆるやかな関係になってゆく。人と人は、「いつ別れてもかまわない」というかたちで関係してゆく。別れすなわちこの生(生活=日常)との決別、人の世界では、つねに「出会い」と「別れ」が起きてくる。それが、原始人の「人類拡散」という現象だった。
「別れたくない」なんて、愛でもなんでもない。それが愛だというのなら、愛なんてただのエゴイズムであり、「別れてもしょうがない」という気分こそ人間性の自然なのだ。
人と人が出会って向き合っているというそのこと自体に、すでに「別れのかなしみ」が機能している。人は、「別れのかなしみ」を携えて人にときめいてゆくのだ。戦後の核家族は、一家団欒の密着した関係になりながら、そういう人間性の自然を失って崩壊していった。
そこには「ここにはいられない」という人間性の自然が封殺されていた。
秋葉原事件の加藤君の家だって、神戸の酒鬼薔薇事件の少年の家だって、みんなはじめに一家団欒のホームドラマがあったのだ。家族ユートピア幻想とでもいうのか、家族の一体感を正義とする空気に閉じ込められながら、彼らの心は壊れていった。
今どきの多くの大人たちの心だって、そうやって壊れている。彼ら犯罪青少年は、そんな大人たちの心をなぞりながら壊れていった。
健全な正義の持ち主のつもりで自信満々の大人たちの心だって、そうとう壊れてしまっている。
まあ人の心なんか、誰の心も少しずつ壊れてしまっているのだが、正義の持ち主のつもりでいるそのことが壊れてしまっていることの証拠なのだ。犯罪青少年だって、その瞬間は正義にせかされている。彼らの心を突き動かす正義があったのだ。正義を持たなければ、犯罪なんかできない。
西洋人は正義を探求して犯罪者になるし、日本人は正義がひらめいて犯罪者になる。人はそうやって人格者にもなれば犯罪者にもなる。人格者と犯罪者なんて、一枚のコインの裏表にすぎない。彼らの心は、ひといちばいこの世界を警戒し緊張している。必死に「自分」を守ろうとしながら、他者に対する無防備なときめきをすでに失っている。
アメリカは正義を探求する社会だから、戦争をしたがるし、犯罪も多い。ホームドラマという正義は、戦後になってアメリカら伝わってきたものだが、日本列島の伝統においては、民衆は正義などというものには興味がなかった。江戸時代のように、上から下りてくる正義にほんろうされる時期があったとしても、正義の恩恵に浴している富裕層があっただけで、正義に淫している民衆なんかほとんどいなかった。そしてそういう富裕層の家では、「狐憑き」などの強迫神経症的な病理が多く起きていた。まあ平和で豊かな社会になった現在では、そういう富裕層の病理が「市民」のレベルまで下りてきているということかもしれない。

この社会は、平和で豊かになることによって、人間的なフリーセックスの文化としての「出会い」と「別れ」が豊かに生成しているダイナミズムを失ってゆく。
たとえば、バブルの時代には「愛人バンク」というシステムが流行した。今でもあるのだろうが、それは、社会が人間的なフリーセックスの文化を失い、セックスの機会が一部の経済的に優位に立ったものに占有されてゆく現象だった。結婚だって、今や金や社会的地位を持っていないとできなくなっているらしい。それは、社会の動きも人の心も停滞してゆく現象だった。まあその反動として、現在ではごく普通の娘があんがいかんたんにフーゾク嬢やAV女優になったり、人妻が平気で不倫をしたりというようなフリーセックスの現象が起きているともいえる。彼女らは、「正義」なんかどうでもいいし、「生活=日常」と決別するようにしてその世界に飛び込んでゆく。
つまり、現在の平和で豊かな社会は「出会い」と「別れ」のフリーセックスの文化を喪失しているし、人の心はその停滞にまどろんでいるだけではすまないということでもある。そうやってフリーセックスの文化の伝統が失われていると同時に、フリーセックスの文化の伝統が露出してきている時代でもある。
ともあれそれは、セックスだけの問題ではない。人は、この生この世界の裂け目の向こうの「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を持っており、「文化」は、そこから生まれてくる。ここでは、そういう人間性の自然=普遍の問題として考えている。
なんのかのといっても、たとえ今どきの世のオピニオンリーダーだろうと、あの人たちが誠実ぶったり人格者ぶったりしながらどんなにカッコつけたことをいおうと、深くものごとを問うたり豊かにひらめいたりする思考を持っているとも思えない。なんだ、あなたたちの文化的資質なんてそのていどかよ……といいたくなってしまう。しかしそのていどだからこそ広く民衆の関心を引き寄せることができるともいえるわけで、民衆だってそのていどで、そうやって彼らは共犯者になっている。そうやって民衆も、自分の脳みそもまんざらでもないと悦に入ったりしている。
彼らの思考やイマジネーションに何が足りないかというと、なんだか薄っぺらで観念的で自己充足的で、「身体的」な切実さや深みがないということなのですよね。
どいつもこいつもアホばかりじゃないかと思う。
そりゃあ、「身体的」な切実さや深みは、フーゾクのおねえちゃんのほうがずっと豊かにそなえている。フーゾクのおねえちゃんにはかなわないということを知らないからアホなんですよね。
いや、インテリだって、その思考に「身体的」な切実さや深みは持てるはずなのだけれど、彼らにはこの生やこの世界の「裂け目」が見えていない。
もちろん僕だって見えていないのだけれど、見えている人にはかなわない、という自覚くらいは持っている。