喪失感を抱きすくめる・ネアンデルタール人論231

人という生きものは、感動して泣く。
嬉しかろうとかなしかろうと、とにかく感極まって泣く。
男よりも女のほうがよく泣く。ときめくとか感動するという心の動きは、女のほうが豊かにそなえている。心が「非日常」の世界に超出してゆく能力、と言い換えてもよい。「泣く」ということは、おそらくそういう体験なのだ。
ときめくとか感動することを、やまとことばでは「な」という音韻であらわしている。「たのしいなあ」「すごいなあ」「かなしいなあ」「つらいなあ」「こわいなあ」と感嘆するときの「な」、そういう感嘆を深く豊かにそなえている存在だから「おんな=おみな」という。「おん」とか「おみ」というのは、「……が詰まっている」というようなニュアンス。「御礼」というときの「おん」は「心を込めて」というようなニュアンス。
「泣(な)く」の「な」は、「感極まる」ということ。
おそらく猿には、それほどの心の動きはない。
そして人類は、古代や原始時代のほうがよく泣いた。古事記では、あの乱暴者の豪傑であるスサノオヤマトタケルだって、オイオイ泣いている。人は、時代が進めば進むほど泣かなくなってきたし、時代が進んだ現代でも、やっぱり感極まれば人は泣く。
人は、ときめいたり感動したりする体験がなければ生きられない。
まあ、女のほうが情感が豊かだし、それは心のはたらきだけでなく命のはたらきの問題でもあり、だから女のほうが長生きするのかもしれない。もっとも女だっていろいろで、今どきはどうしようもなく鈍感でブサイクなおばさんもたくさんいるけどね。現在には、そういうおばさんたちを生み出す社会の構造がある。鈍感でブサイクなおじさんだってたくさんいる。
いいかえれば、女の命のはたらきは、男以上に豊かに感動したり泣いたりすることができるような仕組みになっているのかもしれない。いずれにせよ、男だってその体験がなければ生きられない。
心は、感極まって、この生の外の世界に超出してゆく。そうやって、人は泣く。われわれは、「生活者の思想」などといってこの生に執着耽溺しているだけではすまない存在であり、そんな思想をありがたがっているなんて、心が停滞衰弱している証拠なのだ。
少なくとも若者や子供たちは、「この生=生活」に居直るようなことはしていない。している若者や子供たちも少なからずいるのだろうが、若者や子供であることの本質・自然はそんなところにはない。
女とはこの生の外に超出してゆくことができる存在であり、そのことに感嘆しつつ、いつの間にか人々のあいだで「おみな」と呼びならわすようになってきたのだ。
なんのかのといっても、現代社会においても、感動体験によって人びとの行動はダイナミックになってゆくのであり、それがなければ市民運動も消費行動も盛り上がらない。「よりよい未来を目指す」などというスローガンだけで人の心を動かせるわけではない。
感動するとは、未来のことなんかどうでもいい、と思ってしまう体験であり、「今ここ」に「消えてゆく」心地の体験なのだ。そうやって心は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。
感動するとは、未来を喪失すること。その喪失感を体ごと抱きすくめて女は泣いている。それは、死に対する親密な感慨でもある。
男というあいまいな生きものは、喪失感をうまく実感できない。それはたぶん、生き延びることがスローガンの社会に飼いならされた存在だからだ。つまり、そんな国家という共同体が生まれる以前の原始人は、男も女もみな「喪失感」を抱きすくめることができたということだ。
人間性の自然は、「喪失感」を抱きすくめてゆくことにある。人は、その「消えてゆく」心地とともに「ときめく」という体験をしている。
感動するとは喪失感であり、「もう死んでもいい」という心地でときめいてゆく。
感動して泣く。「泣く」の「な」は親密感をあらわし、それは人としての普遍的な死に対する感慨なのだ。
人が感動したがっている存在だということは、死に対する親密な感慨に浸りたがっている、ということを意味する。そのような心地のときに世界は輝いて立ちあらわれるのであり、べつに「死にたがっている」ということではない。そのときすでに、「死と生」という二項対立の思考から解き放たれている。
この生を喪失することはこの生(のいたたまれなさ)から解放されることであり、人の心はそうやって感動し、そうやって泣きながらこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。
「喪失感」こそ、人の心のはたらきを豊かにしている。そこでかなしみ、そこからときめき感動してゆく。
感動するとは、「喪失感」を抱きすくめてゆくことなのだ。その体験は、この生の中にあるのではなく、この生の「裂け目」の向こうにある。