途方に暮れる心の健全というのがある

死んでゆくことは、未来を喪失することであり、「今ここ」に「消えてゆく」ことだ。人が死を意識して死に対する親密な感慨を持っている存在であるということは、そのような「喪失感」を抱きすくめながら「消えてゆく」心地を汲み上げてゆくことに快楽を覚える存在である、ということを意味する。
「消えてゆく」心地の体験が、人を生かしている。
この身体が、一点に収束して消えてゆく……快楽とは、そのような心地のことではないだろうか。
この生はいたたまれない。「消えてゆく」体験がなければ生きていられない。そうやって人類は死に対する親密な感慨を抱くようになっていった。
快楽は、いたたまれなさを生きているものが知っている。
心は、自分が「消えてゆく」ことと引き換えに、自分の外の世界の輝きに気づき、ときめいてゆく。
「幸せな自分の人生」とか「正しく美しい自分」というようなものに執着・耽溺していたら、「消えてゆく」ことなんかできない。
人間にとってこの生は、根源においていたたまれないものなのだ。原初の人類は、そのいたたまれなさにせかされて二本の足で立ち上がり、やがて「自分=この生」が「消えてゆく」というかたちのときめき感動する心を獲得していった。まあ、そういう体験がなければ、二本の足で立ってなどいられない。べつに、それによって生きるのが上手になったのではない。それは、猿よりも弱い猿になる体験だったのであり、そうやって生きるのが下手になって生きることのいたたまれなさを抱え込んでしまったからこそ、そこからの超出としてときめき感動する心を獲得していった。
二本の足で立っていることは、居心地が悪くいたたまれないことなのだ。具体的にいえば、だから年をとれば腰痛や膝痛などのさまざまな弊害が起きてくる。そして精神的にも、大人になればなるほど歪んでくる。いたたまれなさそれ自体を生きることができなくなって、「自我の安定」という「ゆるーい幸せ」ばかり欲しがるようになってゆく。
人が学問や芸術やスポーツや恋やセックスや遊びに熱中してゆくのは、そこに自分が「消えてゆく」という官能体験があるからだ。生きることが上手になるとか、自我を安定・充足させるとか、そんなことのために熱中するのではない。つまり、原初の人類は生きることが上手になるために二本の足で立ち上がったのではないということ、そこからはじまっているのだ。
人類の文化の起源は、生きるのが上手になる(=生き延びる)ための方法として起こってきたのではない。なのに、今どきの人類学者は、よってたかってそういう問題設定ばかりしている。生きるのが上手になる方法として石器を生み出したとか言葉が生まれてきたとか火の使用をはじめたとか、そんな安直で通俗的なことばかりいっている。それは、自分=この生を「忘れてゆく=消えてゆく」官能体験だったのだ。そうやって心が「非日常」の世界に超出してゆく体験として石器や言葉や火の使用が生まれてきたのであり、原始時代であれ現代であれ、文化とはひとつの「官能体験」であって、生き延びるための方法ではない。人類は、生き延びることなど忘れて文化を進化発展させてきたのだ。
生き延びることができる幸せなんかどうでもいい。昔の人も「一期は夢よ、ただ狂え」といっている。

しかし現代人は、いたたまれなさを否定しつつ、その代替として、「自我の安定」という「ゆるーい幸せ」に充足・耽溺してゆく。その生命賛歌は、人間性の自然から逸脱した病理なのだ。そうやって知性や感性が停滞・衰弱してゆく。そうやってときめき感動するという人間的な快楽を見失ってゆく。
自分を忘れてときめき感動してゆくという「消えてゆく」体験よりも、自分に執着し充足してゆく「ゆるーい幸せ」のほうが大事らしい。
彼らの生には、「今ここ」で「消えてゆく」という体験がない。そうして、「この生は永遠の未来までつながっていなければならない」というような強迫観念がどこかしらで疼いている。彼らは、未来の幸せによって現在の幸せを確認している。未来が幸せでなければ現在も幸せでないというか、彼らの意識は未来に漂ったまま、「今ここ」に対する反応が希薄になっている。そうやって今どきの大人や老人たちは、鬱病になり認知症になりインポテンツになったりしている。
現代人は、なぜそこまで「未来」に憑依・執着したがるのか?それは、人としても生きものとしても、すでに心や命のはたらきが壊れてしまっていることではないのか。まあ、壊れている、というのは言い過ぎで、停滞・衰弱している、ということだろうか。
現代人はというか、今どきの大人たちの多くは、自意識にとらわれて、「消えてゆく」というタッチの官能を見失っている。「人間とは自意識である」といってうなずき合っている世の中なのだもの。
自我の安定・充足という「安心=幸せ」が欲しいんだってさ。そして平和で豊かなこの社会では、多くの人がそれを手にしているらしい。そうやって彼らは、「消えてゆく」というタッチを失ってゆく。また彼らは、自分に執着・耽溺しているから、そのことに死ぬまで気づかない。そうやって病理がますます進行してゆく。
死んでゆくことができない、という病理。現代人は、人としての自然が持っている「世界の輝きに気づき感動する」という知性や感性を失ったまま、永遠にまどろみ充足していようとしているのかもしれない。そうやって「自我の安定・充足」のために、自分語りをしたり、社会や他者を裁いたり、そんなことばかりしている。知識豊富なインテリだろうと無知な庶民だろうと、「自我の安定・充足」が大事の彼らは、すでに「解答」を持っている。 
猿は、最終的な「解答」持って生きている。だから、猿の社会の構造というかシステムはみな同じで、いつまでたっても進化も退化もしない。
それに対して人間の社会の構造は地域ごとにさまざまだし、時代とともにどんどん変化してきた。
人間は、最終的な解答を持てずに途方に暮れている。だから、「人さまざま」で、心はどんどん移ろってゆく。途方に暮れながら、いつまでも問い続けて生きている。
猿は、途方に暮れて「それは何か?」と問うことをしない。それは、ときめいていないのと同義なのだ。
現代社会の大人たちも、つねに自分の外の世界を警戒し緊張し続けているから、自我が消えた無防備な心の空白状態というものがない。そうやって心も顔つきも荒(すさ)んでゆく。
人のもっとも魅力的な表情は、「自我が消えた心の空白状態」を感じさせるところにあると思うんだけどね。赤ん坊の無邪気な愛らしい表情は、そういう状態の上に成り立っているわけで、「それは何か?」と問い続けている彼らほど世界の輝きにときめいている存在もない。
最終的な「解答」にたどり着けない「愚かさ」こそ、じつは人間の知性や感性に豊かさや深さをもたらしているのだ。この世に決定できることなど何もない。したがって、理想の人間とか理想の社会などというものもない。
「よりよい人生を生きるため」とか、「よりよい社会を目指すため」とか、そうした目的・目標を掲げるなんて、愚劣なことだ。心が停滞し硬直化してしまっているから、そういう目的・目標が必要になる。目的・目標とは、この生の「解答」のこと。「解答」を持っているとは、「問い」がないこと、すなわち「ときめき」がないということ。
自我の安定・充足のためには「解答」が必要だし、「解答」を持ってしまったら、その先や別の可能性はもうない。そうやって心は停滞・衰弱してゆく。
ただ自然で自由な心とともに「移ろって」ゆければいいだけだろう。それが、健全というものだろう。人の心は、途方に暮れて「それは何か?」と問いながら移ろってゆく。「今ここ」で消えてゆき、次の瞬間に生まれ変わる。生まれ変わるとは、「非日常」の世界に超出してゆくこと。「ひらめく」こと。「発見」すること。そうやって人類の文化は進化発展してきたのであって、生き延びるための未来に対する計画性とか欲望というようなスケベ根性によるのではない。
まったく、「未来に対する計画性」なんて、ただの俗っぽいスケベ根性じゃないか。
「よりよい未来の社会を構想する」などといわれても、俗物どもが何をくだらないことをほざいてやがる、と思うばかりだ。そんなことばかり合唱しながら、現代人の心は病んでゆく。