「快適な暮らし」など望まない・ネアンデルタール人論205

万物の霊長などといっても、人はもともと心も体も脆弱な存在であり、直立二足歩行の起源以来、どれほど知能や文化を進化発展させてきたにせよ、その本質は今なお変わっていない。原始人だろうと現代人だろうと、人間なんてつまりはそういう「生きられない」存在であり、その「生きられなさを生きる」ことによって、人間的な飛躍としての「発見=ときめく」という体験が生まれ、それを契機にして人類史の「イノベーション」が起きてきた。
知性や感性とは、「発見=ときめく」心の動きのこと。その進化発展の契機として、「生きられなさ」を克服しようとする衝動があるのではない。「生きられなさ」それ自体を生きようとするのだ。「生きられなさ」を克服したら、燃え尽きてしまうだけであり、そこに「発見=ときめき」というはたらきは起きてこない。人の心は、根源的には「いきられなさ」を克服しようとなんかしていない。そんな、あらかじめ用意されてある答えにたどり着くだけの予定調和の体験に、人間的な「快楽」というか生きてあることの「カタルシス」はない。
「生きられなさを生きる」ことそれ自体に「快楽=カタルシス」があり、そのくるおしさのさなかで「発見」という「飛躍」を体験する。
生きることの意味や価値を獲得するのではなく、生きることの無意味それ自体、すなわちその「絶望」から心が華やいで「飛躍」してゆくところにこそ「ときめき=快楽」がある。


生きることの「快適さ」は、自我の安定・充足をもたらし、生き延びることを約束してくれるが、それによってすでに知的感性的な探求心は燃え尽きてしまっている。
まあ、自我の安定・充足を欲しがってばかりいたら、一流の研究者や芸術家にはなれない。一流のスポーツ選手にもなれない。恋するものにもなれない。人の心は、自我そのものから解き放たれるようにして「発見=ときめき」という体験をする。心は、「もう死んでもいい」という勢いで自我にけりをつけてしまおうとする。それが、人間的ないとなみのダイナミズム、すなわち「飛躍=発見=ときめき」という体験になる。そうやってちんちんが勃起する。それは「飛躍=発見=ときめき」の体験であり、大人たちはその心模様を失いながらインポテンツになってゆく。自我の安定・充足に執着している大人から順番にインポテンツになってゆく。
自我の安定・充足は、命や心のはたらきの停滞をもたらす。人類は、そのことに倦んで地球の隅々まで拡散していったのだ。
人は、自我の安定・充足に執着しつつ、人を憎んだり裁いたりするようになってゆく。
人が人にときめくことは、自我のはたらきから解放される体験であり、それは「人を赦す」ということにほかならない。ときめいているものしか、赦すことはできない。


ネアンデルタール人がフリーセックスの社会をつくっていたということは、誰も他者を縛ろうとしなかったということであり、誰もが他者を赦していたということであり、誰もが他者のときめいていたということだ。だからその社会では、集団の離合集散がたえず起きていた。彼らは、他愛なく他者にときめいていったと同時に、つねに「別れ」を受け入れ「別れのかなしみ」を深く知っていた。彼らによって生み出された人類最初の「死者を埋葬する」という行為は、深く純粋な「別れのかなしみ」の表現だったのであって、「霊魂」や「生まれ変わり」がどうのというような通俗的な話ではない。現在の葬送儀礼だって、本質的には「別れのかなしみ」の上に成り立っているのであり、それ以上でも以下でもないのだ。「あの世」とか「霊魂」とか「生まれ変わり」などというのは、たんなる形式というかたてまえにすぎないのであって、そんな概念が葬送儀礼をせずにいらられない人の心のよりどころになっているのではない。まあそんな概念が「死者との別れ」を受け入れられない「自我」をなだめているだけであり、そうやって「死という不条理」につじつま合わせをしているだけのこと。そうやって「かなしみ」をあいまいなものにしてしまい、そうやっていつまでたっても死が受け入れられずに悪あがきして苦悶し続けなければならなかったりする。
ネアンデルタール人は、ひたすら深くかなしんで心を洗い流す体験として「埋葬」という行為をはじめたのであって、彼らは「神」も「霊魂」も「生まれ変わり」も知らなかった。
「深くかなしむ」ということ以上の葬送儀礼の契機などあるものか。
「深くかなしむ」ことはひとつの「ときめき」であり、泣いて泣いて泣ききることが原始人や古代人の葬送儀礼だった。


「かなしむ」ことと「苦悩する」ことは違う。「苦悩する」なんて、肥大化した自我によるただの自己撞着にすぎない。それは、心が傷つき弱り果てることと怒りや憎しみを募らせて荒れ狂うことくらいに違う。
平和で豊かな現代社会が「快適な暮らし」を実現しているとしても、それが人間の強さの証明になっているのではない。脆弱な存在だからこそ、「快適な暮らし」の中でしか生きられないのだ。その脆弱さが「快適な暮らし」を生み出した。人は「生きられない」存在であり、「生きられなさを生きる」ことによって心の「飛躍=ときめき」が起き、「快適な暮らし」を生み出すようになった。
強い存在なら、「快適な暮らし」などなくても生きられる。早く走れるなら自動車などいらない、空が飛べるなら飛行機などいらない、海の中でも生きられるなら船などいらない……まあそのようなことだ。
かんたんに傷ついて、「もう生きられない」と思ってしまう。源氏物語の女たちは、心が弱り果ててそのまま死んでいったりした。その時代にはきっと、そういうことが実際にあったのだろう。
人は、生きてあることの「嘆き」とともに存在している。人と人の関係は、その「嘆き」を共有することの上に成り立っている。「嘆き」を共有しながら、他愛なくときめき合い、赦し合う。そうして、そこから避けがたく「別れる」という関係も生まれてくる。生きてあることの「嘆き」とともに「別れ」を受け入れてゆく。
まあ、自我の安定充足に執着・耽溺するばかりで「嘆き」を基礎に持っていない人は、ときめき合うことも別れることもできない。ときめかれるセックスアピール(人間的魅力)を持たないまま、他者との関係をつねに接近したものにしておこうとする。接近した関係に執着しつつ、支配したり裁いたりすがりついたり憎んだりしている。
人はもともと「快適な暮らし」すなわち自我の安定・充足を求めて存在しているのではない。今どきはその欲望を携えて社会的に成功してゆく人もいれば、その欲望に執着しながらブサイクな人間になっていったり心を病んでしまったりしている人も多い。
「快適な暮らし=自我の安定・充足」こそがいちばんだ、と信じられている世の中で、そういう意味では、ここでいっていることなど「頭の配線が一本足りないんじゃないか」と思われるだけかもしれない。
そうだ、その通りだ。われわれは、頭の配線が一本足りない。生きられないこの世の愚かで弱いものたちはみな、頭の配線が一本足りない。
しかし人間なんて、もともと頭の配線が一本足りない存在ではないだろうか。だから「飛躍=ときめく」ということが起きる。
そして正しく聡明なつもりのあなたたちの知性や感性や人間的魅力などたかが知れている、とも思う。
人間なんて、みなちょっとずつ変なのだ。まともな人間がこの世のどこにいるというのか。まともな人間のつもりでいるその自意識の、なんとブサイクで下品なことか。
太宰治じゃないが、誰だって「人間失格」なのだ。
ネアンデルタール人は誰もが集団からはぐれてしまっていて、その心を持ち寄り他愛なくときめき合っていた。彼らの集団が離合集散を繰り返していたということは、そういうことを意味する。「快適な暮らし」など望むべくもないあんな苛酷な環境で暮らしていたのだもの、誰もまともな人間でいることなんかできなかった。
僕だって、「快適な暮らし」などぜんぶ投げ捨てて「真実」に殉じてみたいと思わないでもないですよ。思っているだけかもしれないけど。