世界は輝いているか・ネアンデルタール人論206

生涯学習として学問をしようと思い立ち、まずパソコンの使い方を覚えるところからはじめようとする中高年の人たちがいる。パソコンの使い方に習熟すれば学問ができると思っているらしい。
そんなものじゃない。
そのためには基礎的な教養はもちろんのことだが、何よりもまずとときめく心が必要だ。ときめいて「何、なぜ?」と問うてゆく心がなければ学問なんか成り立たない。
知ったかぶりしてあれこれ語りたがる人は学問に向いていそうだが、じつはそうではない。何もかも自分で勝手に決めつけてわかった気になってしまえるのなら、今さら何も探求してゆく必要なんかないし、そういう人はもともと探究心が希薄なのだ。内田樹などその典型だが、居酒屋の庶民にだってそんな人種がいくらでもいる。そんな人種が「生涯学習として何かの学問をしたい」といっても、無理な話なのだ。ただなんとなくで思い立っても、計画倒れになってしまうか、はじめてもすぐ挫折してしまうか、そんなところがオチだろう。
才能のことはひとまず保留しておくとしても、学問や芸術をすればときめく心が得られるとか、そんな甘いものではない。そんなのはただの幻想であり、ときめく心が学問や芸術に夢中になってゆくのだ。
「何、なぜ?」とひたすら問い続ける探求心は、世界の輝きにときめく心に宿っている。
ときめく心を持っていない人間に学問なんかできない。
もちろん内田樹だってひとまず学者なのだろうが、それなりの基礎的な知識と学歴とひといちばいのえげつない上昇志向を持っていれば、そりゃあ三流の学者にはなれる。三流でしかないから、俗受けするアジテーターとして頑張らねばならない。この道ひとすじの一流の研究者に対する嫉妬と羨望に狂いそうになりながら。
したがってそんな知識も学歴も上昇志向も足りない平凡な庶民がいきなり「学問をしよう」と思い立っても、うまく事が運ぶはずもない。

まあ学問といってもいろんな方法やレベルがあるのだから、それぞれ自分の能力と柄に合わせてやればいいのだし、人類学の世界なんか、たとえ世界的に一流といわれている研究者でも、「なんだ、そのていどか」と思わせられることも少なくない。彼らだって、安直にわかった気になってしまっている。つまり、自分で勝手に結論を捏造してしまっているだけではないかと思える例がじつに多い。文科系の学問は、そういう罠にはまりやすい。
ネアンデルタール人は滅びたとか人類とは別の種であるとか、アフリカを出発したホモ・サピエンスが世界中を旅して先住民と入れ替わっていったという集団的置換説とか、どれもみな勝手な思い込みの「トンデモ説」にすぎないことがようやく明らかになりつつあるのだが、この国の研究者のあいだではそういうことが真実であるかのように合意されてきて、西洋のような侃々諤々の議論などほとんどしてこなかった。彼らの思考は、自分の足で立っていない。知らず知らず世の中の制度性の仕組みに踊らされて思考しているだけであり、自分勝手な思い込みで決めつけるものほど自分の足で立っていない。世の中の仕組みにもたれかかり、それを物差しにして人間や物事を勝手に吟味し裁いているばかりで、「ときめく」ということをしていない。「ときめく」とは「問題に気づく」ということ、皆さんお勉強の偏差値は高いらしいが、「問題設定」という学問のもっとも基礎的なところでつまずいてしまっている。
ましてや、それほど偏差値が高くない庶民が学問をしようとするなら、金とか出世という見返りがないのだから、「ときめく=問題設定」ということができなければ、進歩も長続きも夢中になることもない。いいかえれば、最初の段階で「出会いのときめき」としていきなりまるごと「問題」をつかまえてしまうことができる資質があるのなら、そのほかのことは追い追いなんとかなるにちがいない。
社会の制度性に踊らされ居座るところでものを考えている人間は、自我の安定・充足に執着しながらただもう「結論」に飛びつくことばかりで、「出会いのときめき=問題設定」ができない。そうやってこの国では「集団的置換説」や内田樹のような俗物がのさばっている。
べつに学問でなくても、遊びでも恋でも日々の暮らしでも人と人の関係でも、人間的ないとなみはつまるところ「ときめく」ということの上に成り立っているのではないかと思える。
「生きられなさを生きる」ことによって「飛躍」という「ときめき」が生まれる。そこにこそ人間性の自然があり、それとともに人類拡散が起こり、それによって人間的な知性や感性が進化発展してきた。

『都市の起源(講談社選書メチエ)』という本には「<快適な暮らし>を求めて人が都市に集まってくる」と書かれているのだが、何をていどの低いことをいっているのだろうと思う。どいつもこいつも「生きものの本能は生き延びようとすることにある」という制度的な俗説にもたれかかっているから、そういう愚にもつかない「問題設定」しかできないのだ。都市に人が集まってくる無意識というか根源的な衝動は、「出会いのときめき」に引き寄せられているのであり、生きられなさを生きようとする人間性の自然がはたらいているのだ。
だから人は、「生きられなさを生きる」ものとしての障害者や病人や老人や赤ん坊の介護をしようとする。もしも人間としての尊厳というようなものがあるとするなら、それは「生きられないこの世のもっとも愚かで弱いもの」のもとにある。
今どきのマスコミ知識人のように知ったかぶりして世の中や他人を吟味したり裁いたりしてばかりいることのどこが偉いというのか。そしてそんな愚劣な知ったかぶりは、下々の庶民の世界にも蔓延している。
彼らは、知ったかぶりして世の中や他人を吟味して裁くことが人間としての誠実さのつもりでいやがる。
まあそれでも人は、根源的なところにおいては誰もが「生きられないこの世のもっとも愚かで弱いもの」として生きているわけで、その孤立して途方に暮れた場所に立ってこそ、人間的な「飛躍=ときめき」が起きているのだ。
ひとまず都市には、生き延びることができる金とか名声とか便利な暮らしとかいろいろ用意されているのだろうが、それでも根源的無意識的には「生きられなさを生きようとする試み」として都市に人が集まってくるのであり、その試みにこそ人間性の自然がある。田舎では生きられないから都市に出てくるのではない。生きられることに倦んで旅立ってきたのだ。
「生きられなさを生きる」場所にに立ってこそ、人は「感動」という体験をする。その「感動=ときめき」を基礎にして介護をはじめとする人間的な「連携」が生まれてくる。そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、なにより原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がっていったのだ。
「快適な暮らし=生き延びること」を求めて都市に人が集まってくるとか人類拡散が起きたとか、そんな凡庸で通俗的な問題設定で「人間」や「歴史」の何がわかるというのか。研究者を気取ってみせても、それじゃあ「学問」のレベルになっていないよ。世間一般の価値観に埋没し、思考停止しているだけじゃないか。頭が悪いのか、それとも自我の安定・充足に執着しきっているのか。まあ、どっちでもいいや。勝手にやってくれ、というしかない。われわれは、そのていどの安っぽいへりくつに付き従ったりはしない。少なくとも古人類学に関しては、研究者は「データ」だけ教えてくれればそれでいい。その先のことは、自分で考えるから。

僕は哲学という学問にはそれなりの敬意を抱いていて、たとえば中島義道氏のいうことは信用できる部分も多いのだが、「人としてのほんとうの誠実さは、死ぬまでたえず自己を疑い自己を検証してゆくことにある」というような言い方というか思考の手続きに関しては、どうかな、という疑問はないわけではない。
『差別感情の哲学(講談社学術文庫)』という著書からそのまま引用すると、こうなる。

私の究極の問いは、「私は自分の信念に対する誠実性を保ちながら、他人の幸福を求めることができるのだろうか?」というものである。


もちろんここでは、人の「差別感情」を微に入り細に入り、とても深いところまで考察しておられる。
一流のカント哲学研究者である彼は、とても誠実な人なのだ。そのへんの善良ぶった市民や三流のレヴィナス学者である内田樹よりもずっと誠実だ。
そのことを承知であえていうのだけれど。
しかしねえ……
人間なんて、自分を忘れてしまう生きものだ。そんな「誠実さ」など要求されても困る。「自分の信念」などというものも持ち合わせていない。「他人の幸福を求める」といっても、幸福な他人が美しいとも思わないし、人が幸福であらねばならないとも思わない。少なくとも人は根源において、「自我の充足・安定」を根拠にした「幸福」を願っている生きものだとは思っていない。
「自分の信念」などどうでもいい。人は、障害者や病人や老人や赤ん坊やその他もろもろの被差別者に対して、「自分」を忘れて他愛なくときめいてゆくことができるか、と試されている。カントのいう「最高善」などというものは、われわれの知ったことではない。だからまあ、研究者はデータだけ教えてくれればいい、その先のことは自分で考える、ということになる。
われわれが「信念」など持てないのと同じように、この人たちに「自分を忘れて」ということを要求しても無理なのかもしれない。
「自分を忘れてときめく」ということは、「生きられないこの世のもっとも愚かで弱いもの」たちが、もっとも純粋に豊かに体験している。そしてネアンデルタール人は、そういう人間性の自然を究極において生きた人々だったのだ。
われわれに「自分」をどうこうしようという「誠実さ」など求められても無理な話だ。
ただもう他愛なくときめいてゆくということ、そういう体験にしか、無意味なこの生からの解放はない。