花は美しいか・ネアンデルタール人論94

「人間とは何か」ということを考えるなら、人生の目的とか意味とか価値などという無駄なことを語る前に、「生きはじめる場所」についてもっと考えてみようではないか。
 息をするとか飯を食うということは「生きはじめる」行為であって、そこが「最終的な場所」とはいえない。現代人だってそこから生きはじめて、幸せになりたいとか自分を確立したいとか悟りを得たいとか、いろいろ「最終的な場所」を思い描くわけだが、生きはじめることができればもう生きているのだし、その「生きはじめる」というまっさらな心で「ときめく=感動する」という体験をするのであれば、その場所を素通りして生きることの目的や意味や価値という「最終的な場所」をめざすことなどどうでもいい。
 人は、生きることの目的や意味や価値を自覚しながら生き延びようとしている存在ではなく、ただもうこの世界や他者に「ときめく」というかたちで「生きはじめる場所」に立ってしまうのだ。自分が生きることの目的や意味や価値など忘れてときめいてゆくのが人の心だ。
 自分が生きてあることの目的や意味や価値に執着している人間ほどときめく心が貧相だ。まあ、貧相だから、それらがわかっているつもりになり執着している。彼らは。そうした「最終的な場所」に執着しつつ、「ときめく」という「生きはじめる場所」を喪失している。そうして「目的達成(夢がかなう)」という「最終的な場所」に立ったとたん、バーン・アウトしてしまう。もともとときめく心が希薄だから、そこに立った途端、心が動かなくなってしまう。
 達成感のよろこび……それが人を生かしている、と説く人は多い。「夢はかなう」とか、目的に向かって邁進することが人の生き方のあるべき姿だ、という。
 今どきの若者はそういう根性がないからダメだとも大人たちはいうし、若者自身もそういう生き方をしないといけないかのような強迫観念を持っていたりする。
 夢の実現に向かって頑張る姿は尊く美しい、と世間では合意されているらしい。
 しかし、そんな生き方が人間の本性で自然だというのなら、どうしてみんなそうしないのだろう。どうしてそういう生き方に怠惰なダメ人間が生まれてきてしまうのだろう。
 怠惰であったらだめなのか?
 頑張らないといけないのか?
 頑張ろうとしても、なぜ頑張りきれなくなってしまうのか?
 学問でも芸術でもスポーツでも恋でも遊びでも、まあなんでもいいのだけれど、好きで好きでしょうがないのならどこまでも頑張ることができるが、それで金儲けをするとか有名になるとか自己実現を達成するとか、そんな「目的」のためだけだったら、たいていの人が挫折してしまう。その「目的」が実現しそうもないから頑張りきれないのではなく、頑張りきれるほど好きではないからだ。
 好きであるなら、「目的」なんかなくてものめりこむことができる。「達成感」なんか必要ない。達成感がなければやる甲斐がない、などということはない。「目的」がないから続かない=のめりこむことができないのではなく、その「過程」そのものを生きることができないからだ。人の心は、それによって「生きはじめようとしている」だけであって、「たどり着こうとしている」のではない。そのとき人は、この生の移り変わってゆくさまと向き合っているのであって、たどり着く場所を見ているのではない。たどり着く場所が見えてしまったら、もう夢中になれない。そこにたどり着いたらもう、移ろい変わってゆくことができない。移ろい変わってゆくというそのことが、人の心を夢中にさせる。ゲームをして勝てばうれしかろうが、ゲームの最中のときめき興奮する心はもはやない。そのときめき興奮する「のめりこむ心」が、人類の知能を進化発展させた。それは、「達成感」ではなく、「生きはじめる心」なのだ。
 心を病むことは、生きはじめることができなくなっている状態であり、達成感が得られない状態ではない。「バーン・アウト(燃え尽き症候群)」などといって、達成感を得ることによって心が病んでしまったりする。達成感によって心の動きが停滞してゆく。
 達成感が人を生かしているのではない。達成感など体験しなくても人は生きていられる。人間の本性は「最終的な場所にたどり着く達成感」を得ようとすることにあるのではない。


 この生なんて、生まれてきてしまったら、「もうおしまい」なのだ。われわれは、「もうおしまい」というところから生きはじめる、あるいは「もうおしまい」として生きはじめる。未来なんかない。根源的には、未来の達成感を目指して生きているのではない。達成感なんかに浸っていたら、心は死んでしまうのだ。
 この生は、「生きはじめる」ということがすべてなのだ。そこでもうこの生は終わっているし、終わっていることが生きはじめることでもある。「生きはじめること」は「生まれ変わること」であり、生まれ変わってときめいてゆくのだ。
 人はなぜ、猿よりも豊かにときめく心を持っているのだろう。それは、猿よりも「今ここ」に対する集中力が豊かだからだ。人は、猿よりも未来や過去のことをあれこれ思うことができる。しかし心が豊かにときめき夢中になっているとき、未来や過去のことなど忘れて「今ここ」に向かって集中している。未来も過去も失って「今ここ」に「死んでゆくこと=集中してゆくこと」が、「生きる」ということでもある。「ときめく」とは、意識の焦点が「今ここ」に結ばれてゆくこと。それは、未来も過去も見失って「今ここ」に死んでゆくことであり、「今ここ」において「生まれ変わる」ことであり、「今ここ」において「生きはじめる」ことでもある。
心が「ときめく」とは、ようするに「新しい世界と出会って新しい自分として生きはじめる」という体験なのだ。
 人はなぜ「新しいもの」にときめくのだろう。それは、生まれてきてしまったことがいたたまれなく取り返しがつかないことであり、この生にけりをつけてしまいたいという気持ちがどこかではたらいているからではないだろうか。べつに生まれ変わりたいわけでもないが、けりをつけてしまったら、生まれ変わった心地になる。
「けりをつけてしまう」とは、自分=身体というか自分という存在を忘れてしまうこと、消してしまうこと。世界の輝きにときめいていれば、自分という存在を忘れている。自分という存在が消えている。快楽とは、ようするに「消えてゆく」体験のことだ。
 現代社会は未来のスケジュールに追い立てられて動いており、そういう情況から目的達成の自己実現が生きることの意味だとか価値だというようなことが叫ばれているのだろうが、目的がないと生きられないということ自体がすでに病んでいるともいえる。「今ここ」におけるときめく心を持っていないから、目的を持たないといけない。あるいは、目的に向かって生きているあいだにだんだんときめく心を失ってゆく。
「今ここ」で心が華やぎときめく体験ができるのなら、目的や夢なんか持たなくてもいいではないか。そういう体験ができる知性や感性があれば、むやみにそんなものは持たない。そうやってとびぬけて優秀になったり、逆に愚かでダメな存在にもなっていったりもする。それはまあ人それぞれの人生のなりゆきなのだから仕方のないことだとしても、根源的には同じ人間性がはたらいている。だから、そういうダメ人間が、何か特別な目を見張る人間的な魅力を持っていたり、あるとき何かに目覚めて特別な集中力を発揮したりする。基本的にそうしたタイプは世界の輝きにときめく心を持っているのだから、そうかんたんには認知症鬱病やインポテンツなどの「自家中毒」は起こさない。
 それに対して目的達成(夢の実現)に向かうことは、基本的にはそうやって自尊心を満足させようとがんばっているだけのことで、すでに他者=世界に対するときめきを喪失している。そういうときめきが希薄な人格だから目的達成に向けて邁進できるし、邁進することによってますますときめきが希薄になってゆく。「今ここ」の世界の輝きにときめいている人間は、そうそう目的達成のためにあくせくしてばかりいることはできない。あくせくしないでもとびきり優秀になれる一部の人間もいることはいるが、あくせくしないからダメになってしまう場合の方が多い。
 そうしてあくせくしている人間は、つねに目的達成後の心の停滞を繰り返しながら生きており、そのたびに新しい目的をつくらないといけない。しかし、歳を取れば達成できる目的はどんどん少なくなくなってゆき、それとともに心は停滞して認知症鬱病などの自家中毒を起こすようになり、やがてはいっさいの目的を持てない状態としての「死」を迎えねばならない。
 天国や極楽浄土に行くという目的を持てば、その問題は解決するのか。しかしその前に認知症やインポテンツになっていたら、そんな目的などなんの意味もない。
 目的達成のためにあくせくしながらそれを達成した経験のある人間のほとんどは、目的達成後の心の停滞もよく知っているから、いつも目的を掲げていないと生きられなくなっているわけだが、因果なことにそういう人間は人生の成功者だから、目的を掲げて生きるのが人間の本性だとまわりを扇動しにかかる。彼らはもう、人類全体をそういう強迫観念的な自家中毒の生き方に巻き込もうとしている。
 まあ「よい社会をつくろう」というスローガンなんか、まさに目的達成にあくせくしていないと生きられない人間たちによってリードされながら出来上がっているのだ。
 誰だってよい社会が来ることを願わないわけではないが、それをつくろうとあくせく頑張ることとはまた別の話だ。つくろうとがんばれば、誰にとってもよい社会などあるはずがないのだから、邪魔なものはどんどん排除してゆかなければならない。それは、願っても、つくろうとしてはならない。それはもう「なりゆき」にまかせるしかないことであり、誰もが「なりゆき」にまかせるしかないと思い定めることがこの国の伝統的な文化風土になってきたのだが、じつはそれこそが原始時代いらいの人類普遍の心模様でもある。
 新しい時代は、自分以外の他者の総体によってつくられるのだ。人を生かしているのは世界=他者の輝きであり、世界は他者の総体によって成り立っている。自分が世界をつくろうなどと思うべきではない。たとえ自分がこの国の一億分の一の存在だろうと地球上の数十億分の一の存在だろうと、そのぶんだけは自分にも世界をつくる資格と能力があると思うべきではない。この世界は、自分以外のすべての他者のものなのだ。なにはともあれ人は、そうやって世界=他者の輝きに生かされている。自分の輝きとか尊厳などというものは、一億分の一も数十億分の一もないのだ。そんなものは、他者のもとにしかないのだ。誰だって自分なんか「もう死んでもいい」存在であり、そう思うところで世界=他者は輝いて立ちあらわれるのだ。
 世界=他者が輝いていなければ人は生きられない。世界=他者の輝きにもっとも豊かに気づきときめくことができる人のもとにもっとも豊かな知性や感性や生命力が宿っている。すなわちそれは、「もう死んでもいい」という場所に立っている人のもとにもっとも豊かに宿っている。
 人は「もう死んでもいい」という場所に立って生きはじめる。それが「ときめく=感動する=夢中になる」ということだ。
 目的達成(夢の実現)に向かってあくせくがんばっている心よりも、「もう死んでもいい」という場所に立って生きはじめる心の方が、はるかに深く豊かに「ときめく=感動する=夢中になる」という体験をしている。はるかにその生命が充実している。
 人は「生きはじめる場所」に立とうとしている存在であって、目的や夢という「最終的な場所」を目指して生きている存在ではない。
猿にはない人の本性というか特性としての心が華やぎときめく体験は、目的を持たない状態、すなわち「もう死んでもいい」という心地から生まれてくる。


 死んでゆくことは、生まれてこなかった状態に戻ることだ。ただもうそれだけのことで、人生の目的とか意味とか価値などを思ってもせんないことだ。
過去の時間は記憶として残るが、過去を生きなおすことなんか誰にもできない。過去はもう、なかったも同じなのだ。自分が存在するとか生きてあるという事実は「今ここ」において確かめることができるだけで、未来にも過去にも存在しない。
そして死んでしまえば、もはや「今ここ」を体験することができない。自分なんか消えてなくなくなってしまう。また「今ここ」に自分が存在するということは過去の自分が消えてなくなっている状態なのだから、われわれはもう一瞬一瞬死んでゆきながら生きているというか、一瞬一瞬死んでゆきながら生まれ変わり続けている。
そうして死ねば、すべての「今ここ」は消えてなくなってしまう。死んでしまえば生まれてこなかったのと同じであり、それはもう、そうなのだ。あなたの人生がどんなに立派だろうとみじめだろうと、死ねば生まれてこなかったのと同じなのだ。
生きるなんて、無駄なことさ。それでも人はどうして生きているのか。生きることの目的とか意味とか価値という以前に、「この生とは何か」という問いに答えられるものなどひとりもいない。わかわかっているつもりの人間は多いが、わかっているつもりになることくらい簡単なことで、しかしそれは本当にわかっているということとはまた別の問題だ。ろくに考えてもいない人間にかぎってわかったようなことをいいたがる。彼らは、わかっているつもりにならないと生きられないから、無理やりそう思い込んでいるだけのこと。しかし人はほんらい、わからなくても生きられるのだ。なぜなら「この生とは何か?」と問う「生きはじめる場所」に立てれば、それで生きている。
だから、生きてあることの意味も価値もどうでもいい。ただ人は、他者にときめき、他者が生きてあることの意味や価値をどうしようもなく思ってしまう。自分が生きてあることには何の意味も価値もないのに、この世界や他者の輝きが、われわれをこの生にとどまらせてしまう。
「生きはじめる場所」に立てるかどうかということ、いいかえれば、そこが「最終的な場所」としての「死んでゆく場所」でもある。すなわち、いったん死んで生まれ変わるということ、そのバイブレーションがこの生のいとなみなのだ。そこにこそ人間的な生のダイナミズムがある。


人は、何かにせかされるようにして夢中になってしまうときがある。その「何か」とは、おそらく生きてあることのいたたまれなさのようなものだ。誰だってそういうものを抱えて生きている。この世に生まれ出てきてしまったことはもう、取り返しがつかない。死んでゆくことはけっきょく生まれてこなかったのと一緒のことにすぎないのに、どうして生きていないといけないのか。どうして世界は輝いているのか。どうして心は動いてしまうのか。べつに望んでいるわけではないのに、知らず知らず心は、怖がってしまう、うろたえてしまう、悲しんでしまう、悔やんでしまう、傷ついてしまう、途方に暮れてしまう。そんな心の動きを抱えて生きているのはいたたまれないことだ。それでも、さっさと死んでゆこうという気になれない。
どうしてだ?
世界が輝いているからだ。
われわれは、世界の輝きにときめくというかたちでこの生に幽閉されてしまっている。
 何もしないで、何も思わないで、ぼおーっとしたまま生きていることなんかできない。人は、誰もが何かにせかされてしまっている。そうやって泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりしながら人類の歴史は進化発展してきた。われわれは、自分の意志でそうした喜怒哀楽をつくっているのではない。笑おうと思って笑っているのではない。泣こうとする「目的」を達成しようとして泣いているのではない。何かにせかされて泣いたり笑ったりしてしまうのだ。そんな喜怒哀楽が避けがたく生まれてきてしまうようないたたまれなさを、この生の通奏低音として持たされてしまっている。われわれは自分の意志で何かの「目的」に向かって生きているのではない。ただ生かされてしまっているだけのこと。べつに「神」に生かされているとか、そういうことではなく、誰も自分の思うように生きてあることなんかできないというだけのこと。心は世界に反応して動くのであって、自分が動かしているのではない。そういうこの生の「受動性」やいたたまれなさという「受苦性」は、「神」の力とか意志というようなものとは何の関係もない。
人の心ほど移ろい変わってゆく心もない。生きられなさを生きるほかないことの、そのいたたまれなさにせかされて移ろい変わってゆく。自分の意志で決めたとおりに生きてあることなんかできないし、そのできないということ、すなわち移ろい変わってゆくことにこそこの生の自然やダイナミズムがあるのだ。そうやって人の心は、つねに新しく生まれ変わってゆく。
しかし現代人の心=観念は、自分の意志で決めたとおりに心を動かそうとしながら心を病んでゆく。そうやって「達成感という停滞・衰弱」を繰り返しながら認知症鬱病やインポテンツになってゆき、なりゆきのままに移ろい変わってゆくことすなわち新しく生まれ変わってゆくことのときめきを知らない。
 人の心を豊かに動かしているのは、「最終的な場所」にたどり着く達成感=満足ではなく、「ここから生きはじめる」という心地をもたらすときめき=感動なのだ。


 人の身体は、生きものとしてはけっして有能ではなく、生きることに四苦八苦するほかないレベルのはたらきしか持っていない。まあ基本的には「生きられない身体」なのだ。この身体の「物性」は鬱陶しい。この身体を物質存在としてではなく、たんなる「空間の輪郭」として扱えたら、どんなにさっぱりすることか。身体を動かすことは身体を「空間の輪郭」として扱うことであり、つまり身体は「空間の輪郭」として扱っているときによりスムーズでダイナミックな動きになり、物質存在として意識することによって動きがぎくしゃくしてしまう。
 われわれは、熱いとか寒いとか痛いとか苦しいとか疲れたとかと感じているときに身体を物質存在として意識しているのであり、人はもう根源的に身体の物性を忘れようとする衝動を持っている。忘れて「空間の輪郭」として扱いたい。
 人は、みずからの身体を「空間の輪郭」として扱う心の位相を持っている。いや、生きものが体を動かしているときには、みな、みずからの身体を「空間の輪郭」として扱っている。
 生きものは、みずからの身体を「物質存在」として意識する位相と、物質ではない「空間の輪郭」として意識する位相との、二つの身体感覚を持っている。
 誰だって身体を軽やかに動かしたいと願っているし、身体を「空間の輪郭」として扱えなければ軽やかには動けない。二本の足で立つという「受苦性」の強い身体を抱えている人間存在にとって、それはもう猿以上に切実で根源的な願いであるともいえる。
 だから人類は、「衣装」というものを着るようになった。「衣装」は「空間の輪郭」としての「もうひとつの身体」にほかならない。つまり人は、衣装を着ることによって身体をより鮮やかに「空間の輪郭」として意識することができるのだ。それほどに人は「身体の物性」を忘れたがっている存在であり、それほどに人にとっての身体は「生きられない」存在なのだ。その「生きられない身体」を抱えながらわれわれは、衣装を着ることによって「生きはじめる」ことができる。
 人間にとって衣装は、新しく生まれ変わって「生きはじめる身体」として機能している。
 吉本隆明は「人類の衣装は防傷防寒の道具としてはじまった」といっていたが、猿としての体毛を持っていた原始人にはそんな目的など持つ必要・必然性はなかった。それでも二本の足で立っていることの居心地の悪さをなだめるためには、何かを身体にまとう必要があった。身体に何かをまとう存在になって、体毛が抜け落ちていったのだ。まとうことによって、防傷防寒の道具としての体毛は必要がなくなってゆき、なくなってゆくことによって、さらに鮮やかに身体が「非存在の空間の輪郭」として意識されるようになっていった。
 人類にとっての「衣装」の起源は、吉本が考えるほど単純ではない。まあここで「衣装」の問題に深入りするつもりはないが、手っ取り早く言えば、それは、身体の「実存」の問題として生まれてきたのだ。
 人類の身体能力は猿よりも劣っている。われわれはそういう機能不全の身体を抱えて生きている。この身体の物性は鬱陶しい。原初の人類が二本の足で立ち上がることはそういう身体になることだったのであり、しかしそれによって物性を持たない「空間の輪郭としての身体」のイメージをより鮮やかに獲得していった。
 この身体が物質ではないというレベルにおいては、生きてもいないし死んでゆくこともない。人はそういう「空間の輪郭」としての「非存在」の身体意識を持っているから、「霊魂」というイメージを生み出した。
「霊魂」なんて人間が生み出したたんなる「イメージ=概念」にすぎないが、それが生まれてくる必然的な根拠を身体意識として持っている。
人類史において、身体の物性に対する鬱陶しさがきわまってというかその鬱陶しさに耐えられなくなって「霊魂」という概念が生まれてきたのだ。そしてその契機はおそらく、文明社会が生まれて戦争をするようになり、人を殺したり殺されたり死ぬのが怖くなったり生き延びようとあくせくしたり、そんな心模様の情況になってきたからだろう。それは人類史の必然的ななりゆきではあったが、霊魂の存在が事実だというわけではない。人類はそれを事実だと思い込む根拠を身体意識として持っているが、それが科学の真実だと証明できたものなどひとりもいない。それが科学の真実かと問う前に、人はどうしてそんなものの存在を真実であるかのように思い込んでしまうのだろうという問いがあるのだ。それをはしょってその存在を前提にして思考したり語ったりするなんて、どうしようもなく粗雑で横着で無知な態度だというほかない。
霊魂の存在が事実であるからそう思い込むのではなく、人はそう思い込んでしまうような身体意識を持っているのだ。
 この生はいわば、この身体をそういう「非存在の空間の輪郭」として扱うことの上に成り立っている。人は、そういう身体意識で生きはじめるのだ。そうやって「衣装」を生み出し「霊魂」という概念を生み出しもした。
 われわれには「生きはじめる場所」が必要なのであり、どこに向かって生きてゆくかという「最終的な場所」どころではないし、そんな場所にたどり着いても心が停滞してしまうだけなのだ。そして、「生きはじめる場所」が「死んでゆく」場所でもあるのだ。「生きはじめる場所」の向こうというかその先なんかない。生きはじめる「今ここ」を生きて「今ここ」で死んでゆく。
「生きはじめる場所」は「生まれ変わる場所」でもある。
 人は、新しく自分が生まれ変わる「ときめき」がないと生きられない。ときめくとは自分を忘れてしまっている状態であり、自分が消えてなくなくなっている状態であり、すなわちそうやって自分が死んで生まれ変わっている状態なのだ。
 そうやってこの身体が「非存在の空間の輪郭」になっている状態を「ときめく」といい、人はそこから生きはじめる。


 この身体の物性は、ほんとにうっとうしい。人は根源においてどうしようもなく切実な「空間」に対する親密さを持っている。「空間」に対する親密さこそ人間的な知性や感性の源泉であるともいえる。
「美しい」とは「空間に対するときめき」であるのかもしれない。
 まあこのさい高度な芸術というか美的感覚のことは差し置くとして、「花」は人類が最初に見出した「美しいもの」のひとつに違いない。
 ネアンデルタール人は死者に花を添えて埋葬していたといわれている。集団的置換説の研究者たちはこのことをどうしても認めたくないらしいのだが、ともあれ「花」は人類が最初に見出した「美しいもの」のひとつであることは、想像に難(かた)いことでもあるまい。
 人はどうしてこんなにも花が好きなのだろう。そして「美しい」と思うのだろう。そしてどうして花に心を癒されるのだろう。世界中の人類の誰もが花のことを好きだとも美しいとも癒されるとも思っている。
 やまとことばではどうして「はな」というのだろう。誰いうとなく、いつの間にか「はな」というようになっていった。それは、人の心の無意識から思わず発っせられた音声であり、べつに誰かが「今日からこれを<はな>と呼ぶことにしよう」と決めたわけではなく、歴史の水にあらわれながら、誰においてもそう呼ぶことがもっともしっくりするようになってきただけだ。
「はな」というやまとことばには、人類の普遍的な花に対する心模様(感慨)が宿っている。
「はな」の「は」は、「はかない」の「は」、「はーっ」とため息を吐くときの「は」、すなわち物質としての確かさを持たない「空間」というニュアンス。
「な」は、「慣れる」「馴れる」「成れる」「熟(な)れる」「生(な)れる」の「な」、「なあ」と親しみを込めて発せられる音声。
 古代人は、花が持っている「空間性」に対する親しみを込めて「はな」といった。
 つぼみが開いて花になる。それは新しく可憐な「空間」の出現であり、さまざまなかたちを持って、さらには鮮やかに彩色されている。
 まあ「空」という空間は青く彩色されているし、それを「彩色された空間」として感じることはそう難しいことでもなく、自然な心模様なのだ。
 人は、花が持っている「空間性」に親しみを覚えている。花とは、ひとつの「彩色された空間」なのだ。
 つぼみという物性からの解放として「はな」という「彩色された空間」が出現する。花は何か「解き放たれたもの」という気配というかニュアンスを持っている。
 小林秀雄は「花の美しさというようなものはない、美しい花がある」といった。花は、存在そのものが美しい……それはまあそうなのだが、やっぱり「花の美しさというようなもの」もあるにはあるのだ。その彩色された可憐な「空間性」に、どうしようもなく癒されてしまう。それほどに人は、この身体やこの生の「物性」にいたたまれない思いをさせられて生きている。その「空間性」こそ、人類の根源的な願いでありあこがれなのだ。
 人は、この生やこの身体の物性からの解放として「非存在の空間の輪郭としての身体」を持ったところから生きはじめる。その身体意識とともに心は華やぎときめき、その身体意識とともに死んでゆく。そうやって「消えてゆく」ことがこの生のいとなみであり、死んでゆくことでもある。「消えてゆく」とは「非存在の空間の輪郭としての身体」になることであり、「非存在の空間の輪郭としての身体」として「生まれ変わる」ことでもある。
 まあその「非存在の空間の輪郭としての身体」のことを「霊魂」といいたければいえばいいが、それが「存在」ではないことは事実であり、あの世で生きてゆくとかといってもせんないことだ。「消えてゆく」ことのカタルシスを知らなければ生きはじめることはできないのであり、そのときめきを知らないから鈍くさい体の動きになったりインポテンツになったり認知症鬱病になったりしなければならなくなる。
 ときめくとは、自分が消えてゆくことだ。だから生きるなんて無駄なことであり、無駄なこととして「消えてゆく」ことによって人は生きはじめることができる。


 内田樹のように「自尊感情」とやらにしがみついて自分を膨らませながら生きている人間には、この「消えてゆく」ことのカタルシスはわからないし、花の美しさすなわちこの世界の輝きにもみずからの身体の空間性にも気づくことができない認知症のインポおやじになってしまうのがオチなのだ。
 ほんとは内田樹のことなんかどうでもいいのだけれど、今どきは内田樹を持ち上げるインポや認知症予備軍の人間がたくさん群れているという現実がたしかにあるわけで、それは現代社会の病であって、そうやって自分を膨らませて生きてゆくところに人間性の真実があるのではない。どいつもこいつも、「自尊感情」を膨らませながら自分が人間のスタンダードだと思っていやがる。そんな感情は、ただの自閉症の一種なのだ。
 人が世界の輝きにときめいてゆくとき、自分は消えているのであり、人は、その「消えてゆく場所」から生きはじめる。
 彼らがどんなに「自尊感情」を膨らませながら自分が人間のスタンダードだと思い込もうと、自分を忘れて(消して)世界の輝きにときめいている人ほどには、その人格が魅力的であるわけでもその生命が充実しているわけでもない。
 彼らに比べたら、自分なんか持たない白痴の人間の方がずっと美しく魅力的だ。生きることが上手な人間たちが自分を見せびらかし合いながらちやほやしたりされたりしている仲よしこよしの幸せなネットワークよりも、生きることができないものが途方に暮れながらたった一人で立ち尽くしているその悲劇性の方がずっと魅力的で美しい。人はそこから生きはじめ、世界の輝きにときめいてゆく。人間なら誰だってそういう悲劇性をどこかしらに持っている。人類の集団は、ほんらいそのようにして組織されてゆくのであり、自尊感情にしがみついている人間たちがどれほど豊かでダイナミックな集団性を生み出せるというのか。
 人と人の豊かにときめき合う関係があの連中の予定調和のネットワークの中にあると思うなんて、ただの幻想にすぎない。ときめくことを失っているからこそ、そうした予定調和のネットワークが必要になるのだ。そんなネットワークなど、人と人の関係が不調になっている現代社会の情況に対する根源的な解決にはならない。
 まずは、人はどのように世界の輝きにときめいてゆくのかと問うしかない。
「自分を愛するように他者を愛する」のではない、自分など忘れて(消して)ときめいてゆくのだ。自分もこの生も、どうでもいいのだ。生きるなんて無駄なことさ。しかしその「生きるなんて無駄なことさ、はかないことさ」というその「空間性」こそがこの国のそして人類の歴史の伝統であり、人はそこから生きはじめ世界の輝きにときめいてゆく。


 身体の物性からの解放、人はそこから生きはじめる。生きることが上手な人たちにとっては「生きはじめる場所」を探すことなど必要ないのかもしれないが、生きることが下手なわれわれは、何はさておいてもその場所に立てなければ生きることがはじまらない。この生もこの自分もどうでもいいものだから、世界の輝きにときめくという体験がなければ生きられない。自分で生きることなんかできない。世界の輝きに反応してようやく生きはじめることができるし、たどり着くべき「最終的な場所」など知らない。われわれにとっては「生きはじめる場所」が「死んでゆく場所」でもある。われわれは死んでゆく行為として生きはじめるのであり、生きはじめることは、いったん死んで「生まれ変わる」ことでもある。生まれ変わって世界の輝きにときめいてゆく。つまり「物性」を持った自分=身体が消えて「非存在の空間の輪郭」としての自分=身体を持つことによって生きはじめる。難しい話じゃない、なにはともあれ人が身体に「衣装」をまとうというのはそういうことであり、そうやって「花」が持っている「空間性」にときめき癒されているのだ。
 生きてあることなんか無駄なことで、どうしようもなくいたたまれないことなのに、それでもわれわれは生きている。その「無駄なことだ」という「空間性」こそがわれわれを生かしている。
 この生ははかなく、夢か幻かという、そのことの「空間性」に人の心はときめいてゆく。
 身体の物性から解き放たれてある心は、「もう死んでもいい」という感慨を抱く。心はそこから華やぎときめいてゆく。まあ、原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、そういう体験だったのだ。
「もう死んでもいい」という感慨は、この身体を「非存在の空間の輪郭」として扱うことの上に成り立っている。人は、そこから生きはじめる。そして「もう死んでもいい」のだから、たどり着くべき「最終的な場所」など持たない。たえず死んでゆき、たえず生まれ変わってゆく。
 たえず生まれ変わって、この世界の輝きにときめいてゆく。
 生きられなさを生きることこそ、人の生のダイナミズムなのだ。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは「生きられない」存在になることだったのであり、「生きることなんか無駄なことさ」と思ったからそういう存在になることができた。そしてそれでも種として生き残ってくることができたのはそこから心が華やぎ世界の輝きにときめいていったからで、そうやって誰もが他者を生かそうと献身していったからだ。彼らは、「もう死んでもいい」という勢いで献身していった。人がかんたんに死んでゆく社会だったのに、それでもけんめいに他者を生かそうとし、さらには一年中ときめき発情している猿になりながら死んでゆくものの数以上に繁殖していった。
 旺盛な繁殖力と他者に対する献身性、二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になった人類は、そういう猿にはない生態を持ったによって生き残ってきた。そしてその生態においては数万年前のアフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタール人を比べたらたしかに後者の方が圧倒的に発達していたのであり、したがってそのときアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住していって先住民であるネアンデルタール人を吸収し駆逐していったという今どき大合唱されている人類学の仮説などありえない話なのだ。
 人類が生き残ってきたのは、彼らのいうような「生き延びようとする欲望」とか「知能の高さ」とか、そういう次元の話ではない。「もう死んでもいい」という勢いで生き残ってきたのだ。
 人は、「生きはじめる場所」に立とうとする存在であって、生き延びて「最終的な場所」に立とうとしているのではない。生き延びたって無駄なことさ。そうやってバーン・アウトしてインポおやじになって何がうれしいのか。何を自慢することがあろうか。
 人は、自分が生き延びることよりも、他者にときめき他者を生かそうとする。「もう死んでもいい」という勢いで他者を生かそうとする。
 他者に対する献身性、すなわち「サービスの文化」。次回は、人類史におけるこのことについて考えてみたい。