都市の起源(その四十六)・ネアンデルタール人論197

その四十六・人生はなりゆきまかせだ、いっぱい後悔して泣けばいい

人と人の関係の基礎は、二本の足で立って向き合っていることにある。
くっついて支え合っているのではなく、離れたまま、ともにひとりで立っている。ひとりで立つ姿勢を安定させるために向き合っている。その姿勢は、前に倒れやすい。しかし向き合っていれば、相手の身体が心理的な壁になって、倒れにくくなる。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、たがいに向き合う関係になる生態をつくっていった。それによって正常位でセックスをするようになり、さらには言葉が生まれてきた。
離れて向き合っているから、思わず音声がこぼれ出る。「伝達」するためではない。そんな「目的」などなく、「思わず」こぼれ出るのだ。他者と向き合う関係になることによって二本の足で立つ姿勢が安定しときめく。その感慨とともに「思わず」音声がこぼれ出る。他者と向き合う関係になる生態を持ったことによって人類は、猿のレベルを超えたさまざまなニュアンスの感慨を抱く存在になっていた。他者と向き合って立っていると、さまざまなニュアンスの感慨が生まれ、さまざまなニュアンスの音声がこぼれ出る。話すものも聞くもののも、その「音声」を聞きながら、それが「言葉」であることに気づいていった。最初は出合った相手に対する「やあ」とか「おお」とかの音声だけだったが、やがてその音声は、まわりの世界に対するさまざまな感慨を共有してゆく手段になっていった。他者と向き合って立っていると、他者に対してもまわりの世界に対しても、さまざまな感慨が生まれてくる。そうやって人類は、猿のレベルを超えたさまざまなニュアンスの感慨を抱くようになり、さまざまなニュアンスの「音声」を発する存在になっていった。
言葉は、たがいの身体のあいだの「空間」で生成している。自分の頭の中で生成しているのではない。人類は、言葉を生み出そうとして生み出したのではない。言葉を知らない段階で言葉を知っていた、などということは論理的にありえない。気がついたらいつの間にか音声=言葉を交わし合う存在になっていたのだ。
人と人が言葉を交し合うとき、たがいに相手からさまざまな感慨を抱かせられ、さまざまな言葉を想起させられている。つまり、たがいに「支配される」関係になっている。

言葉は、人と人が向き合う関係になることによって育ってくる。これは、現在の幼児が言葉を覚えてゆくことだって同じで、自閉症的な傾向の子供は言葉を覚えるのが遅い。知能の発達の問題ではない。自閉症的な傾向とは親との「一体感=結束」にまどろんでいる状態であり、「離れて向き合う」という関係になっていない。つまり、親との関係に、言葉が生成するための「空間」が機能していない。
一体感による結束は、自意識(自我)の恍惚をもたらす。それに対して連携とは、自分捨てて相手にサービスし合うことだ。
「支配=被支配」のタイトな関係の一体感で「結束」してゆくのではなく、たがいに孤立して向き合いながら、その緩やかな関係の中で「連携」してゆく。
水のような淡い関係になりながらたがいにサービスし合い連携してゆくのが都市における人と人の関係の作法であり、なぜ淡い関係でいられるかといえば、ともに自分を忘れて相手のことばかり想っているからだ。その心模様は、淡い関係の中でこそ生成している。
他者との関係に一体感を持ってしまえば、意識は「自分」に向かって逆流してくる。そのとき相手を想うことは、「自分」を想うことでもある。他者を想っているようで、想っていない。
「人を想う」ことは、「自分を忘れる」ことだ。そうやって、たがいにときめき合い、サービスし合ってゆく。たがいに「生きられない弱いもの」として向き合い、「もう死んでもいい」という勢いでそういう関係になってゆく。それが都市的な「連携」の作法だ。
サービスすることは一方通行の関係で、相手にサービスし返してもらうことすなわちそういう「贈与と返礼」のの一体感の関係によって完結するのではなく、相手のよろこんだ顔を見たところで完結する。笑顔が「返礼」だ、ともいえるが、自分を無にしてサービスしてゆくのだから、「自分に返ってくる」という自覚は持てない。自分を忘れて相手にときめいているだけなのだから、自分と相手との一体感など持ちようがない。
日本列島にもヨーロッパにも、一体感をつくってゆくという「結束」の文化風土はない。
「一体感=結束」は、それによって自分を満足させることであり、「連携」は、自分を消してゆくところから生まれてくる。自分に対する意識を引きはがし、それをまるごと相手に向けてゆく。相手に意識を集中してゆく。それが「ときめく」という心の動きであり、そこから「連携」という関係が生まれてくる。
都市にやってくるものたちは、その淡い関係に耐えきれず田舎以上に一体感の関係になろうとする者もいれば、都市住民以上に淡い関係を生きようとする者もいる。都市とは、その本質において「よそ者」の集まりであり、たがいにこの生からはぐれてしまったものどうしとして向き合っている。
まあ、もともとの都市住民だって、嫌われ者は、都市で生き延びるための知恵として、支配と被支配の一体感の関係を生きようとする意欲が強い。また。そういう意欲が強いから、都市においては嫌われる。
ようするにこの世の中にはいろんな人がいるということであり、しかし都市の本質は、それはそれとして人間性の起源と究極の問題としてちゃんとあるということでもある。

現在、「都市」を政治と経済の問題として考える言説は多いが、ここでは、「人間とは何か?」と問うてゆく問題として考えている。それは、直立二足歩行の起源と本質の問題であり、人類拡散の問題であり、言葉の問題であり、祭り=遊びの問題であり、人と人の関係の本質の問題でもある。
今は東京という「都市」の知事選挙のことが話題として持ち上がっているが、ここで考えていることなんか、みごとなくらいその問題からずれてしまっている。
笑ってしまうくらい役に立たないことばかり考えている。しかしじつは、われわれの暮らしをどう活性化させるかという問題は、身の回りの人と人の関係をどう活性化させてゆくかという問題でもある。なんのかのといっても、人はそのことを基礎にして生きている。
嫌われ者になってもいいから裕福に暮らしたいと考えている人も多いかもしれないが、裕福になれもしないくせにそんな夢ばかり見るなよ、という話だ。今のそここそこの暮らしを既得権益として守ってゆきたいといっても、そんなことばかり考えているから、人にときめくことができなくなってゆくし、ときめかれるほどの人間的な魅力を持つこともできないまま死んでゆかねばならない。「そこそこの暮らし」に満足しながら、どんどんみすぼらしい人間になってゆく。今の世に自分の人生に満足している人はたくさんいるのだろうが、そのぶん彼らが豊かに人にときめきときめかれる魅力的な存在たりえているとはかぎらない。まあ同じ人種どうしのネットワークの中でほめ合いじゃれ合っていればそういう満足も保たれるのだろうが、基本的に都市は裸一貫の人間どうしが出会ってときめき合ってゆく場であり、誰だってそういう体験をしているのに、それでも自分の暮らしや自分の人生のことばかり考えたがる世の中になってしまっている。
人の心は、「暮らし=この生」という「日常」から解き放たれたところで華やぎ活性化してゆく。そういう体験として人と人の出会いがあり、ときめき合うという関係が生まれてくる。「この生=自分」を忘れてときめいてゆく。その「もう死んでもいい」という勢いで人と人の関係が活性化するのであり、そういう関係が生まれてくる場として人類史に「都市」があらわれてきた。
まあ「この生=自分」が大切な人にとっては、政治や経済がいちばんの関心事なのだろう。彼らは、自分の人生に満足して死んでゆきたいらしい。しかし、満足していたら死ねなくなってしまうのであり、「後悔しない」とは「満足する」ことではなく、「忘れてしまう」ことだ。
後悔をむりやり押し殺して満足を生きようとする。そんなふうに無理に無理を重ねて、ときめく心が停滞・衰弱してゆく。今どきの大人たちのよくあるパターンだ。
生まれてきてしまったことは、取り返しのつかない過ちなのだ。いっぱい後悔して嘆きながら生きているのが人としての自然ではないのか。心は、そこから華やぎときめいてゆく。人はもともといっぱい後悔して嘆きながら生きている存在だからこそ、自分を忘れて他愛なく豊かにときめいてゆく心を持つようになっていったのではないだろうか。