自分の居場所・ネアンデルタール人論34

 この世に自分の居場所などどこにもない、自分はこの世にいてはいけない存在なのではないだろうか……誰だってふとそう思うことはあるでしょう。たぶんそれが人の心の底にある人間性の自然で、生きていればいろんなことがあるし、生涯に一度もそんなふうに思ったことがないといえるなんてなんだか不自然です。
 人間性の基礎にまずそんな感慨があって、その上にそれを打ち消す観念性が構築されてゆく。
 神に選ばれた人間というのか、先験的に自分の居場所が与えられて存在している人間なんかひとりもいない。だからこそ人は、自分の居場所をつくろうとするし、居場所があると思い込もうとする。先験的に居場所が与えられているなら、あるのが当たり前で、「ある」ということすら思わないし、そんなことは幸せでもなんでもない。それを欲しがったりそれが幸せだと思うこと自体、心の底にそうした不安というかかなしみを持っていることの証しだといえる。
 この世に自分の居場所がないことは不当なことか?不当だというルサンチマンをたぎらせるのはしんどい。そうやって心が荒れ狂い、自分の居場所を脅かす相手に殺意を抱いたりする。その殺意は、特定の人間に向けられる場合もあれば、世の中の人間全部に向けられることもあるし、国と国の戦争の原因になったりもしている。
 最初から「自分の居場所なんかない」と思っていれば、恨むこともない。居場所がないのは不幸なことかもしれないが、それを受け入れるなら、ただ「かなしみ」があるだけです。そして人の心は、そこから華やいでゆく。つまりそうやって「脳のはたらきが組み換わる」ということが起こる。恨むことは、どこまでいっても組み換わることはない。永遠に続くだけです。ユダヤ人の国を奪われた恨みは2000年たってもまだ消えないし、中国や朝鮮半島もいまだにこの国を許そうとしない。中国は「中華」という自分のポジションに対する意識が強く、朝鮮半島はいつも自分の居場所を脅かされて歴史を歩んできたからその飢餓感が深い。
 文明人はどうして「自分の居場所」を持つことに執着するのだろう。自我というのか自己意識というのか、その病理的な心模様が生きることをややこしくしんどいものにさせているし、人間的な知性や感性を停滞させてもいる。「自分の居場所」に執着しているから、人と人の関係において他愛なくときめき合う心模様が薄れ、「ネットワーク」という限定的で予定調和の関係に潜り込もうとする。
 もともと人は、見知らぬ相手にも他愛なくときめいてゆくことができる存在であったはずで、今でもそうやってどこからともなく人が集まってくるという祭りやイベントが生まれている。


 地球の隅々まで拡散していった原始人は、「自分の居場所」を持たない「漂泊」の歴史を歩んできた。そこに人間性の普遍・自然がある。
 われわれは、いわゆる実存感覚として「この世に自分の居場所はどこにもない」という「疎外感」を無意識の中に持っている。そしてそれが生きてあることの「かなしみ」として受容されるときに、そこから心が華やいで(ときめいて)ゆくというかたちで脳のはたらきが組み換わってゆく。一方それは不当だという「恨み」になれば、そんな新しい心模様は生まれてこない。
 その実存感覚は誰の中にもある。それを受容するか、それともそれは不当だと打ち消してゆくか、そういう観念のはたらきというか表層的な心模様の違いがあるだけでしょう。
 生き物はやがて死んでゆく存在であり、「疎外感」は本能のようなものです。観念のはたらきでどんなに打ち消しても、その疎外感が消えることはない。その矛盾・分裂があらわになって「恨み」になる。幸せなときは打ち消せても、いったん不幸な事態になればその矛盾・分裂が一挙にあらわになる。だからその幸せだって、何がなんでも不幸にはなるまいとする強迫観念に支えられている場合も多い。
 この世に不幸なんかいくらでもある。頭が悪い、顔が悪い、運が悪い、身分が低くて貧乏である、障害者である、病弱である、人付き合いが苦手で女にもてないし人に嫌われる……等々、いくらでもある。それらは、「疎外感」の契機になる。で、その事態を受け入れるか、それとも打ち消そうとするか。がんばって打ち消してゆくことが人間の本性で知能のはたらきであるかのような合意が今の世の中にはある。しかし、どんな不幸な事態も受け入れてゆくことができるのも人の心の普遍・自然であるはずです。ひとまず誰もが、この世に生まれ出てきてしまったことを受け入れて生きている。頭や顔が悪いとか、さらには病弱であるとか障害者であるとかといって、いまさら親を恨んでもしょうがない。誰もが自分が自分であることをひとまず受け入れている。それは、「疎外感」を本能のようなものとしてすでに持っているからでしょう。


 まあ「疎外感」とは、「身体の輪郭」の意識だといってもいい。この身体の輪郭は、環境世界から分離して存在している。この世に生まれ出た赤ん坊は、そのことに驚きうろたえ途方に暮れながら泣いている。そのとき、母親の身体の一部として寄生していた状態から切り離された。そうして、はじめてみずからの身体の輪郭を意識した。
 この身体の輪郭は、環境世界から切り離され孤立して存在している。そういう「身体の輪郭の孤立性」として疎外感がある。人は、そのような無意識をこの生の基礎として持っているから、人生に挫折したりすると、その思いがひとしお胸にしみてくる。そこまで思う必要があろうかというくらい疎外感を感じてしまう。もう、この世で自分ひとりだけ不幸でみじめな存在になってしまったような心地に浸される。それほどに人の疎外感は根深い。そしてその疎外感を受け入れることによって世界が輝いて見えてくる。また、受け入れられなくて、恨んだり悩んだり憂鬱になったりする。
 なぜ受け入れられないかというと、胎内世界のような「共生関係=一体感」に対する執着というか渇望があるからでしょう。そうやって、この世に生まれ出てくることに失敗している。


 疎外感で人殺しをするということはない。疎外感に耐えられなくて人殺しをする。「共生関係=一体感」を渇望しているから、耐えられない。人殺しができるのは、相手との「共生関係=一体感」に立っているからでしょう。そのとき相手の命を自分のもののように扱っている。相手が自分に悪意があるとか自分をさげすんでいるとかと勝手に決め込むことができるのは、「共生関係=一体感」に立っているからでしょう。
 疎外感は、人の気持ちなんかわからない、と思う。わからないから人は「言葉」や「表情」を差し出し合う。そしてその言葉=音声や表情のニュアンスから、たがいの気持ちを汲み取ろうとする。「共生関係=一体感」に立ってしまうと、そのやりとりをしないで、勝手に決め付けてしまう。ときには、近くの見知らぬ人どうしの聞こえない会話が、幻聴として自分の悪口をいっているように聞こえてしまうこともある。それは、疎外感であって疎外感ではない。疎外感に耐えられない「共生関係=一体感」のタッチの心模様でしょう。つまり、「身体の輪郭」が孤立していない。その見知らぬ人たちとの「共生関係=一体感」に入り込んで幻聴を捏造している。
 幻聴は統合失調症分裂病)の特徴的な症状のひとつだが、自閉症スペクトラムも同じで、彼らは自分の「身体の輪郭」があいまいになってしまっている。この世界から孤立したかたちで身体の輪郭を定めてゆくことができない。彼らは、疎外感が強いのではない。疎外感に耐えられないのです。耐えられずに他者やこの世界との「共生関係=一体感」に入り込んでしまう。そうやってときに「憎しみ」を募らせたりする。憎しみとは、他者に対するなれなれしさであり「共生関係=一体感」の心模様です。
 多くの犯罪者は、疎外感で犯罪に走るのではなく、疎外感に耐えられなくて犯罪に走る。
 疎外感は、誰でも持っている。この世のもっとも弱いものの疎外感は、世間の人のそれよりもさらに深い。犯罪者よりももっと深く疎外感を抱いているものはいくらでもいる。疎外感なんか理由にならない。彼らは、疎外感が深いのではなく、疎外感に耐えられないだけです。そしてこの世の幸せな人たちも、同じくらい疎外感に耐えられない。彼らは、その耐えられなさが幸せな人たちと同じくらいだから犯罪に走った。幸せという耐えられなさの代替を喪失しているから犯罪に走ったり統合失調症自閉症スペクトラム等の発達障害を起こしたりするわけで、べつに疎外感がひといちばい強いのではない。ひといちばい疎外感に耐えられないだけです。 
 疎外感なんか、人間なら誰でも持っている。この世のもっとも弱いものは、誰よりも深く疎外感を抱いている。そうして誰よりも深くそれを受け入れている。受け入れるほかない場に置かれた存在を「この世のもっとも弱いもの」という。
 疎外される立場に置かれて、それに耐えきれず「共生関係=一体感」を希求してしまうのなら、まだまだ「この世のもっとも弱いもの」とはいえない。「共生関係=一体感」に立てば自分が世界の中心であるかのような心地になれるわけで、幻想的にはすでにその思いに浸されてしまっている。そうやって幻聴を聞くのだし、その「共生関係=一体感」が幸せなまどろみではなく、憎しみや恐怖になっている。
 

 問題は、疎外感があるかないか、ではない。疎外感は誰の中にもある。それを受け入れるかそれに耐えられないかの違いがあるだけです。
 誰だってこの生からはぐれてしまっている。それが、人間は「死を思う」存在である、ということであり、そこに立てばすでにこの生から疎外されてしまっている。そしてそこから心が華やぎ、世界が輝いて立ちあらわれてくる。
 疎外感こそ、人の心が華やいでゆく契機になっている。
 しかし現代社会の文明人は、そういうタッチが持てないで、疎外感から逃れようとする強迫観念を募らせている。なぜ「疎外感から犯罪に走る」などといいたがるのか?それではまるで疎外感が不自然な感慨みたいじゃないですか。多くの人が疎外感に耐えられない社会の構造になっている。
 人間なんて、みんな「ひとりぼっち」の存在でしょう。そうやってこの身体の輪郭は世界から隔絶(孤立)している。誰だって、赤ん坊としてこの世に生まれ出たときにそう実感し、その感慨とともに生きはじめたはずです。疎外感がなければ人は生きられないのであり、心はときめかない。
 疎外感とともに世界は輝いて立ちあらわれる。世界が輝いていなければ、人は生きられない。言い換えれば、世界が輝いていないから、自己意識(自我)の欲望で生きのびようとしなければならなくなる。世界が輝いていたら、「生きてしまう」のです。そしてその体験は、「もう死んでもいい」という、この生からはぐれてしまった感慨とともにある。
 人類にとって「身体の輪郭」は、この生からはぐれた「非存在」の空間として自覚されている。それは、肉でも骨でもない。死の世界、すなわち疎外感とともに自覚されている輪郭です。


 人の心はすでに死の世界に立っている。等身大の生活感覚というのか、そういう現世的ではない異次元的な感覚でこの生をとらえている。前記のような身体に対する意識だけでなく、たとえばまわりの景色を眺める視覚そのものは猿とあまり違わなくても、その体験における感慨そのものは大いに違う。
 たとえば人の心は、雲を眺めて何かのかたちに似ているとかのさまざまな類推をするし、美しいとかドラマチックだとか妖しいとかのどかだとか怖いとか面白いとかとさまざまなニュアンスを感じ取っていったりする。ただ雲を雲だと思って眺めているのではない。考えたら、その感じ方は不思議です。何か異次元的な飛躍がある。
 やまとことばの「くも」の語源は、ただ「雲」という意味を与えられて生まれてきたのではなく、思わず「くも」という音声を発してしまう感慨の表出であったはずです。「畏れ多くも」とか「愉しくもありかなしくもあり」とか「惜しくも負けた」などというときの「くも」には「心が胸に満ちて妖しくざわめいている」というニュアンスがこめられている。おそらく、雲を眺めることのそういう感慨体験から「くも」というやまとことばが生まれてきたのであって、「雲」の直接的な意味をあらわしている言葉ではなかった。
「く」は「組む」の「く」、「複雑・錯綜」の語義。すなわち「心が妖しくざわめいている」ということ。
「も」は「盛る」の「も」、「膨張・増大」の語義。すなわち「心が胸に満ちてくる」ということ。
 古いやまとことばには、そういう一音一音の感慨がこめられている。
「くも」というやまとことばは、「雲」という意味の説明ではなく、「くも」という音声を発するときの「心が胸に満ちて妖しくざわめいている」という、何かそうしたなやましさの感慨の表出として生まれてきた。
 人の心の根源・自然は、この世界の現世的な「意味」に憑依してゆくのではなく、異次元的な飛躍した感慨を抱いており、そうやって世界は輝いている。
 猿は、雲を眺めて「心が胸に満ちて妖しくざわめいている」感慨なんか抱かないし、そのかたちは魚のうろこのようだとか綿のようだとか人の顔のように見えるとか龍に見えるとか、そんな類推もしない。
 猿こそ現世的直接的な「意味」に憑依ししているのです。人の心は、「他界=非日常」に飛躍してゆく。そうやって世界が輝いている。
 人の心は、この世に居場所を持っていない。
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