語源と原始的な心性・「天皇の起源」59


古代では猫のことを「ねこま」といったのだととか。
で、その語源は、「ネズミの子を待ち構えて捕まえるから」とか、「寝てばかりいるから」などと解釈されている。
民衆のあいだの言い伝えではない。契沖とか賀茂真淵のような江戸時代の一流の学者がこのようなことをいっているのだからあきれる。まあ現在の権威である折口信夫だって、そのような安直に「意味」をこじつける解釈ばかりしている。
「ねこま」=「ね+こま」だろうか。
「ね」は「愛着」の語義。「ねえ」と親しげに呼びかける。猫も「みゃあ・にゃあ」と妙に甘ったれた声を出すし、たしかに愛らしい動物でもある。。
「こま」は「困る」の「こま」。「こまる」とは途方に暮れること、気持ちが固まって動かなくなってしまうこと。
「こ」は、「凝る」の「こ」、かたまること、あるいは従属すること。だから家を借りているもののことを「店子(たなこ)」などという。子供は、親に従属している存在だから「こ」という。
「ま」は「まったり」の「ま」、穏やかに充足していること。
「こま」とは、かたまって動かなくなっているもののこと。おもちゃの「コマ」も、勢いよく回っていればいるほどかたまって動かなくなっているように見える。朝鮮の高麗(こうらい=こま)から伝わったからだという説もあらるが、これはたぶん嘘だ。神社の「狛犬(こまいぬ)」も、かたまって動かなくなっている犬だからであり、これも高麗が起源だといわれているが、きっとこじつけだ。伝わるなら、朝鮮の南の百済あたりからだろう。そういうことではなく、ただもう、日本列島の住民の「こま」と呼ばずにいられない感慨があった。
あったからといってとくにありがたいということもないが、ないと困るものがある。そういうものが家のどかでじっとして出番を待っている。そういうもののことを「小間物(こまもの)」とか「こまごまとしたもの」という。べつに小さいからそういうのではない。
「ねこ」もまたかたまってしまったようにじっとしていることが多い。それは「こま」の状態だ。そして甘ったれた声で鳴く。あるいは愛らしい動物だからその感慨を込めて「ね」をつけたのかもしれない。その動かなくなって丸まったかたちが、なんとも愛らしい。
いずれにせよ、「ね」という音声を頭につけずいられない感慨があったわけで、そのようにして「ねこま」と呼ぶようになっていった。人の猫に対する愛着や印象を「なんとなく」の感じで言い表せば「ねこま」となる。それだけのこと。
「ねこ」の「ね」は、「ネズミ」も「寝る」も関係ない。
語源としてのやまとことばは、それが持っている「意味」を表そうとして生まれてきたのではない。ほとんどは、「なんとなくこんな感じ」というニュアンスの表出として生まれてきたのだ。
語源においては「意味の表出」という観念的な行為だったのではなく、「ただなんとなく」という「センス=感覚」があっただけだ。
ただなんとなく「ねこま」と呼ぶようになっていった。
契沖も賀茂真淵も「意味」にとらわれ過ぎている。
古代以前の人々は、文明人ほどには「意味」にとらわれていなかった。言葉とは、根源的には「音声の表出」であり、「音声に込められた感慨の表出」である。



そこで、もう一度「もののあはれ」という言葉について考えてみたい。
この言葉も、「なんとなくこんな感じ」として日本列島の住民なら誰もがわかっているのだが、語源を類推するのはかんたんではない。
「もの」とは「森羅万象」のことであるとか「身体」とか「命」を表しているとか、まあそのように語られているのだが、語源を考えるのなら、そういう「意味」ではなく、古代以前の人々が「もの」という音声を発せずにいられなかった「なんとなく」の「センス=感覚」が問われなければならない。
もしかしたら「もののあはれ」は、われわれ現代人が「もののみごと」とか「ものの5分で」とか「もののはずみ」といっているのと同じ言い回しだったのかもしれない。
「ものの……」といってしまう日本列島の住民の「センス=感覚」がある。
「そうはいうものの」ともいったりする。
それはたんなる言い回しのセンスの問題であって、「もの」の意味が何かということなどどうでもいいのかもしれない。「もののあはれ」の「もの」に意味などない。たぶん、ただもうそういうかたちで「あはれ」を強調するか形容しているのだ。
だとすれば、「もの」が「森羅万象」だとか「身体」だとか「命」だとかと説明するのはまったくナンセンスだということになる。
「ものすごい」という。この場合は、「すごい」を強調している。このときの「もの」に意味を当てることなんかナンセンスだろう。
「ものものしい」といえば、「大げさ」というニュアンスで、「森羅万象」や「命」という意味をこじつけてもしょうがない。「もの」という音声の響きの問題だ。この場合の「ものものしい」には、「めざわりだ」という感慨が込められている。「森羅万象」も「命」も関係ない。「めざわりだ」という感慨が語源なのだ。
「私、女だもの」というときの「もの」も、「女」を強調している言い回しである。
まあ意味というなら、「気になってしょうがないもの=まとわりつくもの」を表しているわけで、そこから「強調する」言い回しに使われるようになっていったのだろう。
「もののみごと」というときの「もの」は、「みごと」にまとわりついてそれを強調している。
「私、女だもの」というとき、ただ居直っているだけではなく、「私は女という属性にまとわりつかれた存在である」という「嘆き」も込められている。
「もの」という言葉の語源を考えるなら、この「気になってしょうがない=まとわりつく」という感慨のニュアンスの方がはるかに大事なのだ。それは、何かにまとわりつかれているような鬱陶しさからこぼれ出てきた音声である。
「りんごそのもの」といえば、「リンゴ以外のなにものにでもない」というようなニュアンスだろう。まあ「ものの……」という言い回しは「……そのもの」というのと同じかもしれない。先にいうか後でいうかは、そのときのなりゆきだ。
もののあはれ」というときの「もの」自体に意味はない。「あはれそのもの」といっても別の意味ではない。ただ、「もののあはれ」というほうが「なりゆき」の余情余韻が残る。



「もの」の「も」は、「藻」「盛る」の「も」、もやもやごちゃごちゃしている感じ、「混沌」の語義。「もう、いやだ」というときの「もう」は、うんざりした気持ちを表している。
「も」という音声は、口の中にとどまってもやもやとくぐもっている。
「の」は、「糊」「乗る」の「の」、くっつくこと、かぶさること、「の」という音声は、口の中の壁にくっついてゆく。
何かにまとわりつかれている鬱陶しさから「もの」という音声がこぼれ出てきた。これが「もの」の語源だ。
原初の言葉は、何かのものごとに「意味」をを当てて表出されていったのではない。
なんだか知らないが、気がついたらそういう音声を発していた。その無意識=感慨を問わなければ語源には届かない。
最初は、「鬱陶しいもの」を「もの」といったのではない。もやもやして鬱陶しい気持から知らず知らず「もの」という音声が漏れてゆき、あとから「鬱陶しいもの=まとわりつくもの」を「もの」というようになっていった。
そしてそういう原初の体験がわれわれ現代人の中にも歴史の無意識として残っているから、「ものすごい」とか「もののみごと」とか「女だもの」という言い方がなんとなくしっくりくるのだ。
日本列島の住民は、歴史の無意識として、言葉を、意味の表出の機能だけでなく、意味以前の感慨の表出としても扱っている。
「ものの……」といってなんとなくしっくりくる「センス=感覚」がある。この言い方は、現代的な「意味」重視の言葉の用法ではなく、とても感覚的で原始的ないい方である。
平安時代以前の人なら、もっと感覚的無意識的に「ものの……」といっていたはずである。「森羅万象」も「身体」も「命」も関係ない。「ものの……」という言い回しの習慣があっただけだ。そういうちょっと意味不明のような言い回しをするところが、やまとことばの「センス=感覚」である。
「そうはいうものの、せずにいられない」というときの「ものの」は、「してはいけない」ことにまとわりつかれている感慨を表しており、それでもせずにいられない。その「せずにいられない」気持ちの切実さが込められている。
つまり「もののあはれ」とは、「あはれ」という感慨の切実さのことだ。「もの=森羅万象」という解釈など、さしあたってどうでもいい。



「ものの……」というやまとことば特有の言い回しがあり、このときの「もの」自体には意味がない。
もののあはれ」の「ものの」は、「あはれ」にまとわりつき「あはれ」を強調している。
もののあはれ」をいいかえれば「あはれそのもの」というようなことで、「まったくもってあはれであることよ」というようなニュアンス。
「森羅万象」といってしまえばこの世のすべてが含まれてしまうからそれが「もの」だといっても間違いではないのだろうが、「もののあはれ」というときは「もの=森羅万象」が「あはれ」だといっているのではない。人間には「あはれ」という感慨がある、といっているのであり、ただもう「あはれ」という感慨の切実さをこめて「ものの」といったのだ。
生きてあることそれ自体に「あはれ」がある。
そしてこの「あはれ」の感慨は、世界中の人間の中にある。
「もの=森羅万象・命」が「あはれ」なのだといってしまうと、外国人には伝わりにくい。彼らは森羅万象の存在感を止揚する文化であり、生命賛歌の文化なのだから。
しかし、恋人や旅人や死者との別れのかなしみは彼らにもある。それはきっと人類普遍の感慨に違いない。そういう「あはれ」の感慨は、「もの=森羅万象・命」といってしまうと抜け落ちてしまう。
とりあえず「もののあはれ」を語る上で「もの=森羅万象・命」という定義はどうでもいいのであり、それが「もの」の語源であるのではない。
そういう「あはれ」の感慨が人の社会の通奏低音として流れている。そういうことを人は「かなしみ」の体験の中で思い知る。ふだんは意識しなくても、じつはその感慨の上に人間社会が成り立っている。
人間は、嘆く猿である。そのことには日本人もアメリカ人もない。「もののあはれ」を知ることは、嘆く猿の属性である。



古代や原始の心をおおらかな自然賛歌とか人間賛歌などというのは違う。彼らの「おおらかさ」は、そういうところにあったのではない。
人間は嘆く猿である。二本の足で立ち上がることによって猿よりも弱い猿になり、生きにくさをを生きる存在になった。嘆きこそ人間の本性=自然である。嘆きが、人間的な文化や文明をもたらした。
原初の「おおらかさ」は、自然や生命を賛美することにあったのではない。それらはむしろ嘆きの対象だった。それでも人間はその生きにくさを受け入れ、どんな住みにくいところにも住み着いていった。そうやって地球の隅々まで拡散していった。その、嘆きそのものをカタルシスとして汲み上げながら生きてゆくところに、彼らの「おおらかさ」があった。
猿は、集団の規模が大きくなれば邪魔な個体を追い出す。しかし人間は、その大きな集団の鬱陶しさに対する嘆きを共有しながらその状況を受け入れ連携結束してゆく。
人と人も集団と集団もむやみに競争対立しないこと、そうやって無邪気にときめきあってゆくことこそ、彼らの「おおらかさ」だった。そしてその「ときめき」の源泉は、生きてあることの「嘆き」にあった。
彼らは、目の前の「あなた」が美しいかどうかとか、いい人かどうかということなどむやみに詮索しなかった。「あなた」が「あなた」であればそれでよかった。そういう「おおらかさ」は、「支配」とか「階級」とか「戦争」とか「私有財産」などというものが存在しない社会だったから成り立った。
原初の「おおらかさ」は、人と人の関係のおおらかさにあったのであって、自然や生命を無邪気に賛美していたのではない。それらはむしろ「嘆き」の対象だったのであり、彼らは、人に対して無邪気にときめいていった。
われわれが国家などといってこんなにも大きな集団をいとなむことができるのは、原初の人類のそういう「おおらかさ」の歴史のおかげなのである。
いまどきの歴史家が、原始人は自然や生命を無邪気に賛美していたといいたがるのは、われわれ現代人が無邪気になれない「嘆き」を抱えているからで、原始人は単純だからこんな「嘆き」はなかった、と思っているのだろう。
冗談じゃない、そういうことには原始人の方がもっと深く純粋に嘆いていた。だからこそ、現代人よりももっと無邪気に人にときめいてゆくことができた。
人間は、嘆く猿だからこそ人にときめいてゆくのだ。
まあ現代人の嘆きは、原始人に比べれば雑駁で底が浅く、ただ混乱しているだけだ。
古代人や原始人の「おおらかさ」は「もののあはれ」を知る心にあった。



本居宣長源氏物語から「もののあはれ」という言葉を抽出し、そこに日本的な美意識の根源のかたちがあると唱えた。
そして「もののあはれ」の「もの」は「森羅万象」だといったのも本居宣長だったのだが、では源氏物語は森羅万象に対する感慨を語る物語だったのかといえば、そうではあるまい。時の流れや男女の出会いと別れの心のあやを語る物語だったはずだ。森羅万象に対する感慨は、その主題の派生的な一部にすぎない。
主題はあくまで時の流れや男女の出会いと別れにあり、その心のあやに「もののあはれ」があった。
「出会いのときめき」も「別れのかなしみ」も「あはれを知る心」から生まれてくる。源氏物語の作者は、そういっている。
その「あはれを知る心」には、何か普遍性があって、この国の現代人だけでなく外国人までが共感するらしい。そりゃあ外国人にだって「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」はある。それはもう、万国共通の感慨だろう。
まあ、月を眺めて「あはれ」と嘆息するのは宮廷人の気まぐれにすぎない、と西行もいっているのだが、時の流れや人と人の出会いと別れに対する「あはれ」の感慨は世界中の誰もが知っている。
「あはれ」の語源は、「消えてゆくこと」をいった。カタストロフィ。
おカネをなくせば誰だってかなしいだろう。恋人や死者との別れはもっとかなしい。その喪失感から「あはれ」という言葉が生まれてきた。



原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿としての能力や生態を失った。それは、同類の猿とのテリトリーをめぐる緊張関係を生きることができなくなったということであり、そうやって追われ追われて地球の隅々まで拡散していった。
人類の歴史は、喪失感からはじまっている。喪失感を嘆きながら嘆きを糧にして人間的な文化や文明を発達させてきた。
「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」は人間であることの属性であり、そのときめきやかなしみを共有しながら人間集団が形成されてゆく。
「かなしみ=あはれ」を知っている心が、深い「ときめき」を体験する。
人と人は、かなしみを基礎にしてときめきあってゆく。そしてそういうことは、世界中の誰もが本能的に知っている。現代社会は誰もが、獲得することのよろこびをめざしたり獲得したものを守ったりして動いているから喪失感の「あはれ」の感慨はむしろ避けて生きているが、「別れ=喪失」という体験は誰もが避けがたくさせられる。そうしてその「あはれ」の感慨を共有しているときにひときわときめき合う関係が生まれる。そうやって「もらい泣き」をするのであり、葬式のときは誰もが泣いている。
人類は、葬送儀礼を覚えたことによって大きな集団になってきた。それは、いまでも共同体の大切な儀式である。それによって人間集団の連携結束が再確認再構築されてゆく。
別れのかなしみとともに人間集団はふくらんできた。少なくとも原始時代の歴史はそのようにして流れてきたのであり、そういう原始性が日本列島にはいつまでも残っていて、「もののあはれ」という言葉が生まれてきた。
「あはれ」という喪失感こそがときめきを生み、人と人を深く連携結束させる。それはまあ、人間集団の普遍的な問題であると同時に、色恋を成り立たせている要素でもある。
「あはれ」の感慨は、世界中の人間が持っている。ただ、早くから異民族との軋轢を生きてきた大陸の人々は、集団の観念としてはすでにそういう「あはれ=喪失感」を止揚し共有してゆくかたちではなくなっていた。それでも、色恋や友情などの基本的な人と人の関係は、そういう「あはれ」の感慨の上に成り立っていることをじつは誰もが知っている。
まあ、人と人が他愛なくときめきあってゆく「おおらかな」関係は、「あはれ」の感慨を共有しているところにしか成り立たない。そしてそういうおおらかでのうてんきな関係の文化を歴史的に受け継いでくることは、異民族との軋轢のない日本列島でしか可能なことではなかった。
古代人や原始人の「おおらかさ」とは、「自然」や「生命」を無邪気に賛美してゆくことにあったのではない。人と人が他愛なくときめき合っていたことにある。
自然や生命に対する愛着や執着などは、むしろ現代人のものだ。



歴史家は古代人や原始人の「おおらかさ」を語るのによく「自然との一体感」などというが、そういうことではないのだ。
「あはれ」の「あ」は、「あっ」と気づいてこぼれ出る音声。
「は」は「はかない」の「は」、「空虚」「空間」の語義。「はあ」とため息をつき、「はあ?」といぶかる。「は」と発声するとき、出てゆく息ばかり感じられて、音声は置き去りにされている。そういう心細さの感慨からこぼれ出る音声。
「れ」は「これ」「あれ」「それ」の「れ」、「方向」の語義。
「あはれ」とは、消えてゆくことに気づいている感慨、しみじみとした心細さの感慨。それは、身体の孤立性の意識である。この世界の中にたった一人で置き去りにされているような心細さの感覚なのだ。そういう「喪失感」でもあり、そこから人は人にときめいてゆく。
「共生」とやらの「一体感」でまどろんでいるのは、共同体の制度に寄生して安心している現代人ばかりだ。そうやってみずからの身体の輪郭の確かさを喪失してさまざまな社会病理を引き起こしている。
原始人は、もっとみずからの身体の輪郭をひりひりと感じていた。それが、二本の足で立ち上がるという体験だったのだから。
紫式部が「もののあはれを知る」というとき、わびしげな景色の情趣がどうのということよりも、時の流れとともに移ろいゆく人と人の関係のはかなさとか、むしろそちらの方のことをいっていたはずである。そしてそのはかなさを深く思い知れば、自分ひとりこの世界から置き去りにされて立っているような心地に浸されてしまう。人は、そういうときにこそ、もっともたしかにみずからの身体の輪郭を感じている。
身体の輪郭を確かに感じることこそが、生き物としてのこの生を成り立たせている。それを感じていなければ身体なんか動かせない。
身体の物性が消えて、身体が空間だけの輪郭になってゆくような心地を「あはれ」という。「みそぎ」とは、そういう心地になることだ。身体の物性は「穢れ」であり、それをそそいで身体が空間だけの輪郭になってゆくことを「みそぎ」という。
「あはれ」の感慨は、「別れのかなしみ」の中に宿っている。
そして「別れのかなしみ」を生きることは「出会いのときめき」を生きることでもあり、この二つの感慨が豊かに交錯する社会こそ、人間集団ほんらいのかたちである。
人間は、くっつきあって集団をつくろうとする存在ではない。集団はすでに存在する。集団をつくろうとするのではなく、集団の中でどのように生きるかということこそ人間性なのだ。この違いを混同するべきではない。
つまり、すでに存在する集団の「鬱陶しさ=穢れ」をどのようにそそいでゆくかとして人間の生態がつくられてきた。
人間は、集団の中のくっつきあい停滞した共生関係を解体して、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が豊かに交錯する流動的な構造をつくろうとする。少なくとも原始人はそのようにして集団をいとなんできた。
しかし氷河期が明けた大陸では、集団が異民族との軋轢を抱えるようになってきたために、くっつき合った共生関係で固まって異民族に対抗しようとする集団の構造になってきた。
そして海に囲まれた日本列島だけが、異民族との軋轢もないまま、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が豊かに交錯する原始的な社会をいつまでも続けてきた。それはもう、国家の支配制度ができても、民衆社会の構造にずっと残っていった。それが、ここでいう「憂き世」の感慨である。
「憂き世」を生きる美意識のことを「もののあはれを知る」という。人間社会は、根源的にはそのような美意識の上に成り立っている。「あはれ」の感慨の上に人と人はときめき合っている。



原始社会の「おおらかさ」は、自然との一体感とかというようなものではなく、人と人が他愛なくときめき合っていたことにある。そしてその原始性こそ日本列島の伝統であり、原始神道のおおらかさもそこにこそある。それは、自然に対するおおらかな信仰、というようなものではない。人と人が他愛なくときめき合っている社会で共有されていた「憂き世=あはれ」という美意識だった。
まあ、世の歴史家のあいだで合意されている原始性とは自然との一体感であるという常識なんて、ほんとに何とかならないのかと思えるくらい愚劣だ。現代人と違って自然との関係に四苦八苦して生きていた古代人や原始人が、そうかんたんに自然との関係に一体感など持てるはずがないではないか。
身体のことだって、医療が発達していないその時代においては手に負えないものだった。彼らにとっては自然も身体も、手に負えない「嘆き」の対象だった。その嘆きを生きながら彼らは、身体を物質ではなくたんなる「空間の輪郭」として自覚し、自然をたんなる「画像」としてとらえてゆく心の動きの作法を身につけていった。
身体や自然を物質ではなくたんなる「空間」や「画像」としてとらえてゆく感覚を「あはれ」という。
身体や自然が空間や画像であるなら、身体や自然に霊魂や精霊など宿っていると思うはずがない。何も宿っていないから空間であり画像なのだ。そしてそれが、人間の根源的普遍的な生きる作法なのである。
生き物は、身体を「空間」として取り扱いながら体を動かしている。身体には、霊魂どころか肉や骨すらもつまっていない。生き物は、ひとまずそのような心地で生きているのだ。
身体にも自然にも、何も宿っていない。それが原始的な心性であり、「あはれ」とは、神も霊魂も知らない感慨なのだ。
現代人は、身体には肉や骨がつまっているという意識が強すぎるから、うまく体を動かせない。肉や骨がつまっていると思うから、霊魂が宿っているという発想にもなる。
古代人や原始人は、そうした身体の物性を自覚している状態を「穢れ」だと思った。そしてそこから解放されることを「みそぎ」といい、その感慨を「あはれ」といった。
人間を生かしているのは、身体の中に霊魂が宿っているのを感じることではなく、身体の孤立性とともに身体の輪郭をひりひりと感じてゆくことにある。身体の内ではなく外側が大事なのだ。それが、日本的な「姿」の文化である。
日本列島に「姿」の文化があるということは、もともと「霊魂」という概念に執着するような伝統を持っていない民族であるということを意味する。
「あはれ」とは、物質としての身体など消えて、「身体の輪郭」という「空間」だけが残っているような心地のこと、身体の中に宿っているものなど何もない、という心地のことだ。その心細さやかなしみやひりひりした身体の孤立性の感覚の中から「生きた心地=カタルシス」が汲み上げられる。
「あはれ」という言葉は、おそらく古代以前のずっと遠い昔からあった。
古代以前の人々のおおらかさは、「あはれ」の感慨にあった。
神も霊魂も知らないことが古代人や原始人の「おおらかさ」なのだ。
いまどきの歴史家は、神や霊魂に対する意識が稚拙であるのが原始人だと思ってやがる。そうやって神や霊魂に対するうんちくをいっちょ前に語る自分たちを正当化してやがる。
神や仏や霊魂を感じることが、そんなに偉いのか。笑わせてくれる。
日本列島の風土には、神も仏も霊魂も知らない原初の「おおらかさ」が息づいている。


10
原初的な「あはれ」の感慨とは、まあ人と人が別れることに対する親密さであり、死に対する親密さの問題でもある。
源氏物語の女たちはどうしてあんなにも潔く「別れる」ということを受け入れることができたのか、現代人の物差しで眺めれば少々不思議である。しかしたぶん、原初のそうした「別れる」ことに対する親密さが残っている時代だったのだ。
何はともあれ死ねば、親しい人やこの社会とさよならするしかない。そのことをおおらかに受け入れてゆくのが原始的な心性であり、それを「あはれ」といった。
「別れのかなしみ」とともに「あはれ」を深く知る心は、人との出会いに深くときめいてゆく心でもある。人との出会いにときめいていれば生きていられる。ときめく心があれば生きていられる。ときめく心が人を生かしている。ときめく心の底には「あはれ」を知る心が潜んでいる。
そういう心の動きは、古代人や原始人の方がずっと深く切実だった。天皇の起源および原始神道のかたちを問うカギはたぶんそこにある。
いまどきは伊勢白山道とか江原啓之とかそういうスピリチュアルを語る人がたくさんのさばっている世の中らしいが、神も霊魂もどうでもいいのですよ、あなた。悪いけど僕は、彼らの俗物根性にうんざりしている。

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