知能の起源、あるいは基礎について・ネアンデルタール人論35

 人類学で言葉の起源を説明するとき、知能が発達して「象徴思考」をするようになったからだといわれている。彼らはもう、人類史の文化の起源は何でもかんでも「象徴思考」という概念で説明しようとする。
 つまり、りんごという言葉はりんごという意味を象徴するものとして生み出されていった、ということらしい。
 しかし、りんごの「意味」を説明するために「りんご」と呼ぶことは原理的に不可能なのです。りんごの意味は、赤い実であるとか、丸いかたちをしているとか、食べたらちょっと酸っぱい味がするとか、そういうことにある。だったらそのとき、「果実」とか「赤い」とか「丸い」とか「酸っぱい」とか、そんな言葉が存在していなければならないし、そんな言葉を使って命名しなければならない。
 しかし、りんごという音声に、そのような「意味」は表現されていない。「りんご」というだけでは、それが果物か人の名前かはわからない。その「りんご」という音声に「赤くて丸いかたちをした果実」という意味なんか何も表現されていない。それはつまり、そういう「意味」を表現するためにその言葉が生まれてきたのではない、ということです。
 ただもう「りんご」という音声を発したり聞いたりするときめきがあっただけです。思わず「りんご」という音声を発してしまっただけです。そういう「ときめき」があったのであって、りんごの意味を説明伝達しようとする意図があったのではない。
 原初の人類が思わずあるニュアンスを持った人間的な音声を発したとき、意識的にも無意識的にも「意味」など自覚していなかった。人と出会って思わず「やあ」という音声を発するとき、それまでの世界の意味体系が消失して新しい世界が出現したことに驚きときめいている。その新しい世界の意味なんか何もわかっていない。ただもう驚きときめくというダイナミックな心の動きがあっただけです。
 その「りんご」という音声は、りんごの「意味」から逸脱して発せられた。
 それがりんごであることなんか、いまさら説明しなくても誰もがすでにわかっている。
 そこにりんごの意味以上のときめきがあったから思わず「りんご」と発せられた。それは、りんごの意味をあらわしているのではなく、りんごに対する「ときめき」の感慨をあらわしているにすぎない。


 文明人は、その言葉という音声に「意味」を付与していったが、言葉の起源においては「意味」としてその音声を発したのではない。「意味」を喪失するときめき=飛躍の感慨があっただけです。それはむしろ「意味」を「消去・喪失」する体験だったのであり、そこから新しい脳のはたらきが起きてときめいてゆき、思わず口の端から音声がこぼれ出た。人の心(=知能)は、この生からはぐれて「死=非日常」の世界に飛び込んでゆくような「ときめき=飛躍」を持っている。
 原初の言葉の本質は、「意味の消去・喪失」にある。そうやって「ときめき=飛躍」とともに脳のはたらきが新しく組み換わる体験だった。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、猿として存在することの「意味」を消去・喪失して脳のはたらきが新しく組み換わる体験だった。そこで猿社会の「順位制」や「テリトリー意識」などの「意味」をいったん「消去・喪失」し、ただもう他愛なくときめき合っていったのです。
 現在の文明社会の「階級」や「国家」はそのまま猿社会の「順位制」や「テリトリー」でもあるが、それらの「意味」は歴史とともにたえず消去され変更されてきた。人の心は、「意味」を「消去・喪失」しながら動いてゆく。
「意味」を「消去・喪失」するときめきがある。それは、この生の「意味・意義」を「消去・喪失」する体験であり、「もう死んでもいい」という無意識の感慨体験でもある。人の心は、そうやって死に魅入られている。そこから心が華やぎときめいてゆく。人間は猿よりももっと深く死に魅入られている存在だから、人間の目の前の世界は猿よりももっと豊かに輝いている。
 性の衝動とは、死に魅入られる衝動でしょう。そうやって人類は、一年中発情している猿になっていった。
 岸田秀という心理学者は、人間のセックスの変態行為などを挙げながら「人間は観念でセックスしている、本能が壊れた存在である」などといっているが、そうじゃないのです。その鞭で打ったり縛ったりする変態行為は、生きてあることの「意味」を消去=喪失する行為であり、その生きられなさの狂おしさから勃起したり発情したりしていっている。そういう「本能」に還ろうとする行為です。
 生き物の本能は、死に魅入られている。だから、自分が生きのびることの障害になるような子を産み育てるということをする。妊娠すれば、体の変調が起きるし、胎児に栄養を奪われてしまう。そうして出産をすれば体型が崩れるし、育児介護は命をすり減らす体験になる。それは、種族維持の目的があるとか生きのびようとする行為ではない。「もう死んでもいい」という心地にならなければやっていられない。しかし人の心はそこから華やいでゆく。その生きてあることの「意味・意義」を「消去・喪失」してゆく心模様にこそ、人間的な生殖のダイナミズムがある。
 

 人間的な知能の「飛躍」とか「類推」のはたらきは、「意味」をいったん「消去・喪失」して脳のはたらきが新しく組み換わってゆくことにある。
 言葉の起源において、そのときりんごの「意味」はすでに共有されていた。「りんご」という言葉はなかったが、それがりんごであることは誰もがわかっていた。それが食べたらちょっと酸っぱい味のする丸くて赤い果物だということくらいは、誰もがすでに知っている。そんな「意味」くらいは猿でもわかる。しかし人間は、そこにりんごが存在するということそれ自体にときめいてゆくことができる。ただもう視覚の焦点がりんごだけに合わされている。美味しそうだとか美しい色やかたちをしているとか、そういうことも意識していない。ただもうそこにそれが存在するということそれ自体にときめいている。美味しそうだとか美しいという意味以上の意味だって、音声を発したあとから気づくことです。ただもうそこに視覚の焦点が結ばれていったということ、それ自体がときめきになって「りんご」という音声がこぼれ出た。
 目の前にりんごの木があって、りんごの実だけに焦点が結ばれて眼に飛び込んでくる。もちろんそのときりんごに触ったり食べたりした経験の記憶があるわけだが、その記憶の「意味」を音声にして発しているのではない。つまり、りんごのことをいっているのではない。ただもう「ときめき」のかたちが音声になっている。


 外国語のことはよくわかりません。しかしこの国の古いやまとことばは、対象の「意味」を伝達するための構造になっているのではなく、対象に対する「感慨」を表出する構造になっている。
 やまとことばの「くま」とは「怖い」という感慨を表出する言葉であって、熊という動物の「意味」など象徴していない。だからそれは、「端っこ(隈=くま)」というニュアンスでも使われる。つまり「くま」という音声から類推していって「熊」という意味になったり「隈」という意味になったりしているわけで、「くま」という音声そのものには「意味」などない。意味などないから、いろんな意味に使われるのがやまとことばです。
 やまとことばの「ま」は、「待つ」「まったり」の「ま」、「停滞・充足」の語義。つまり、「雲(くも)」が「妖しい心の揺らめき」の表出だとすれば、「くま」は、「わけのわからない恐怖で心が固まってしまうこと」をあらわしている
 それはあくまで、「怖い」という感慨から思わず発せられる音声だった。「怖い」ということを伝達するために発したのではない。それを聞いたものが「ああ怖いんだなあ」と解釈していっただけです。
 おそらく語源としての「くま」に「熊」という意味などなかった。それは、「熊」を「象徴」する言葉として生まれてきたのではない。ただもう怖いときに思わず「くま」という音声を発してしまう習慣があり、それがやがて「熊」を象徴する言葉になっていっただけでしょう。
 言葉の起源に「意味」などなかった。意味がないことに言葉の本質がある。頭の中がからっぽになって思わず言葉という音声がこぼれ出る。人類史におけるそういう体験の無限の積み重ねから「意味」が生まれてきた。その「意味」は、「聞く」という体験によって汲み上げられていった。つまり言葉は、脳のはたらきが組み換わる契機として生まれてきた、ということです。
 人間が言葉に意味を付与したのではない。人間はただもう、言葉が持っている意味に気づいていっただけです。起源においては、ただもう頭の中がからっぽになって思わず音声を発していっただけです。そういう体験の無限の積み重ねの歴史がある。
 意味を喪失する体験、すなわち意味から解放される体験の驚きやときめきから言葉が生まれてきた。意味は、言葉が生まれたあとから付与されていった。


「まあ、すてき!」と感動の声を上げるとき、その感動が純粋であればあるほど、相手に伝えるという意図など持っていないでしょう。ただもう、思わずそういう声を上げてしまう。
 いってしまってから、「いうべきじゃなかった……」と後悔する。そこに言葉の本質が潜んでいる。たとえその言葉が「伝達」の意図を持っていたとしても、そこにその人の性根のようなものすなわち無意識があらわれている。下品な人はしらずしらず下品なことをいってしまう。正直な人も、いってはいけないことをつい口にしてしまう。それは、本質的には伝達しようとしたことではなく、思わず口にしてしまったことであり、感動して思わず「まあ、すてき!」というのと同じでしょう。
 われわれはひとまず意味の伝達の道具として言葉を使って暮らしているが、言葉の使い方は人によってずいぶん違う。言葉にはその人の性根=無意識が宿っている。
 われわれが詩や小説を読んで感動するとき、言葉自体の意味以上の何かを感じ取っている。「りんご」という言葉自体の意味は誰にとっても同じだが、前後の文脈によってその印象はずいぶん違ってくる。そのとき読者は、意味以上の何かを感じている。そのとき言葉は、意味以上の何かを表現している。作者の人格とか思想とか、あるいは読者自身の勝手な心模様を膨らませたりしている。そのとき言葉は、作者自身の内面に逆流し、読者自身の内面を呼び覚ますというかたちで、一方通行のものになっている。作者が表現したものと、読者が感じたものは、同じではない。
 そのとき言葉は意味として存在しつつ、意味以前の何かを持ち、意味以上の何かを表現している。そうやって言葉は意味以前・意味以上の「感慨の表出」として生まれ進化発展してきた。
「あなたと話がしたい」ということを「あなたの声が聞きたい」といったりする。意味なんかどうでもいい、声を聞くこと、文章を読むことそれ自体にカタルシスがある。そのとき人は、言葉に意味以前のものや意味以上のものを感じ取っている。そこに、言葉の起源と究極がある。


 人類の言葉の起源は、声を発してときめき、声を聞いてときめき、そこから新しく生まれ変わったような心地になっていったことにあるのであって、生きのびるための道具とか、集団運営のための道具とか、そんな実利的下部構造決定論的な目的があったのではない。
 言葉の起源は、その人間的なさまざまなニュアンスを持った音声を発したり聞いたりすることのときめきを体験する「遊び」だった。
 原始人には生きのびようとする目的などなかった。
 原始人は、言葉をつくろうとしてつくったのではない。気が付いたらすでに言葉というさまざまなニュアンスを持った人間的な音声が社会空間で生成していた、というだけのことです。その音声とともに人と人がときめきあっていた、ということが契機になっているのであって、「伝達の道具」として作為的につくり出したのではない。言葉を生み出す前から言葉の機能を自覚していたなんて、そんな理屈は原理的に成り立たない。言葉が流通した結果として「伝達の機能」に気付いていっただけのことです。
 言葉は、人間がつくり出す前に、すでに人間社会に存在していた。
 原始人は、その社会にすでに生成・流通している言葉=音声にときめき、それを脳に刷り込んでいっただけです。
 人類は、言葉を生み出したのではない、言葉を脳に刷り込んでいっただけです。
 人は、言葉を生み出さない。「言葉を覚える」のであり、社会空間においてすでに生成・流通している言葉を脳に刷り込んでゆくことができるだけです。だから、地域によって言葉が違うのだし、赤ん坊が言葉を覚えることは、おそらく言葉の起源の体験なのです。
 そのとき赤ん坊は、その音声にときめいていった。はじめて「ママ」という音声を聞いたとき、その意味はわかっていない。はじめてその音声を発したときも、まだわかっていない。それによってお母さんが笑った、という体験があっただけです。そうやって音声を発し音声を聞くことのときめきが言葉を覚えてゆく契機になる。「意味」は、そのあとから気づいてゆく。「意味」の認識から言葉が生まれてくるのではない。音声のニュアンスにときめいてゆくだけです。言葉の起源においては、音声を交換するときめきがあっただけで、「意味」を伝達し合ったのではない。
 

 言葉は、乳幼児の段階で脳に刷り込まれる。そのときどんな言葉をどんなニュアンスでどれくらい刷り込むかは、個人差がある。もう、千差万別です。だからこそ、最低限の共通理解として「意味」が機能している。聞くものは、その「意味」を基礎にして、そこから意味以上の何かを汲み上げてゆく。
 たとえば、話すものが語る「青い空」という言葉から、聞くものは「遠いあこがれ」や「深いかなしみ」を読み取ったりする。それは、言葉の「意味」ではなく「姿」です。「青い空」という言葉はあくまで「青い空」という意味しか持っていないのだが、なぜだかそこで話すものと聞くもので「遠いあこがれ」や「深いかなしみ」という言葉の「姿」が共有されたりする。
 この「言葉の姿」こそが、言葉という人間的表現の起源であり究極でもあるのでしょう。
 原始人は「言葉を生み出していった」のではない。彼らの脳に「言葉が刷り込まれていった」のです。言葉は、人間の脳から生まれてきたのではない。人間の社会にすでに生成しているものだった。
 

 原初の日本列島の住民は、「遠いあこがれ」や「深いかなしみ」のことを「かなし」といった。そしてその青い色に「かなし」の感慨を呼び覚ます効果があることに気づいてゆき、その青い色を「あお」と名づけていった。原初においては、色の名称もまた「感慨の表出」の言葉だった。「私は青い」といえば、「私はかなしい」といっているのと同じだった。
原始人人は、その「あお」という言葉に、「かなしみ」や「あこがれ」を汲み取っていた。もともとそういうニュアンスの言葉だったのだから、そのような言い方に違和感はなかった。
「あの人は猿のようだ」といわなくて「あの人は猿だ」といってしまう。これを、前者の「直喩」に対して「暗喩」という。「私は一匹の虫のようになった」というより「わたしは一匹の虫になった」といったほうがなんだかインパクトがあり、読者の想像力も刺激される。「暗喩」は現代文学の高度な表現技法のひとつだが、原始人や古代人だってそのような表現を当たり前のようにしていた。
やまとことばの「あお=あを」は、もともと「あこがれ」と「かなしみ」をあらわした。そして古代人は誰もがそれを合意しており、万葉集の「あおによし」はその合意の上にそうした感慨をあらわす枕詞として機能していたのだが、時代とともにいつの間にかそんな原初的な「暗喩」の機能が忘れられてゆき、今ではもうただの青い色の青だということになってしまっている。言葉の本質が「意味の伝達」にあるというのなら、そういう貧弱な解釈になってしまうしかない。
 言葉は、「意味の伝達の道具」として生まれてきたのではない。声を発することや声を聞くことの「ときめき」から生まれてきた。「ああ」とか「おお」という詠嘆から「あお=あを」という言葉が生まれてきた。それだけのことだが、そうでなければその言葉の語源は説明がつかない。またそれだけのことにこそ、人間的な知性や感性の本質が宿っている。


「ときめく」とは、脳のはたらきが組み換わることです。
 驚いたときに、思わず「きゃあ!」と声を発する。そうやって脳のはたらきが組み換わったからです。そうやってそれまでの脳のはたらき(=心の状態)が「これは違う」と否定されている。そうやっていったん脳のはたらきが空白になり、そこから新しく組み換わった脳のはたらきが起きてきている。そういう体験として人類はさまざまなニュアンスの音声を発する猿になってゆき、やがてそれが言葉になっていった。
 人間的な心模様や知能の根源のかたちを問うなら、「これは違う」と認識してゆくことにある。
 トランプのポーカーは、基本的には同じ数字のカードをそろえることにあるのだが、それは、ほかの組み合わせはすべて「違う」という認識の上に成り立っている。
 恋人どうしが「愛することができるのはあなただけ」というようの気分になれるのも、ポーカーの数合わせのようなもので、そのとき心は、ほかの人間との組み合わせをぜんぶ「違う」と認識している。
「これは違う」というのは、違い(=差異)を分類して並べる、というのではない。そういうデータをすべて「これは違う」と消去してしまうことです。そうして「違う」ということが成り立たない同じ数字の組み合わせを発見し、ときめく。それは、その新しく立ちあらわれた同じ数字という一点に焦点を結んでそれとの一対一の関係を切り結んでゆくことであり、そうやって心はときめいている。それはもう、恋人どうしの出会いだって同じだし、さらには、人と人が出合うということの本質がそこにある、ともいえる。
 人間は自分が今ここに生きてあることを「これは違う」と認識している生き物であり、そうやってこの生からはぐれてゆくことによって世界が輝いて立ちあらわれ、そこに焦点を結びながらときめいてゆく。まあ、ポーカーの数合わせと同じといえば同じです。
 人の脳は、どんどん「これは違う」と認識してゆく。そうして「違う」と言い切れないものを発見してゆく。人類の文化の起源において起こっていた脳のはたらきは、おそらくそのようなものであったはずです。
 何かをイメージしてそれをつくり出そうとしていったのではない。言葉が存在しない状況で言葉をイメージすることなんか原理的に不可能です。われわれは言葉が存在する状況の中に置かれているから言葉をイメージしているだけです。言葉が存在しているから言葉の効用がわかるのであって、言葉が存在しない状況で言葉の効用なんかイメージできるはずがない。
 人類は言葉と出会ったのであって、言葉をつくり出したのではない。「これは違う」とこの生からはぐれていった果てに言葉と出会ったのです。この生からはぐれていった果てに脳のはたらきが新しく組み換わり、そのときめきから思わず音声=言葉が口の端からこぼれ出たのです。


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 日本列島の古代人は言葉のことを「ことのは」といったが、「ことのは」とは「音声=言葉が口の端からこぼれ出ること」という意味合いです。そして「ことだま」とは、「言葉に宿る霊魂」という意味ではなく、「言葉に宿るときめき」というニュアンスだったのです。なぜそういうニュアンスだったのかということを検証しようとすると話が長くなってしまうからひとまずここではやめておきたいのだが、とにかく「たま」の語源は「霊魂」という概念として生まれてきたのではなく、「ときめき」が胸に満ちる感慨を表出する言葉だったのです。
「大和はことだまの咲きはふ国」というときの「ことだまの咲きはふ」とは「人々ががときめき合ってたのしくおしゃべりをしている」というニュアンスです。日本列島に「霊魂」という概念が中国から入ってきたのは古代以降のことで、日本人は伝統的に「霊魂」に対して「気味悪いもの」というイメージがあり、そんな霊魂が巷にあふれていることが「大和」の賛歌になるはずがないのです。この国では、「悪霊」や「怨霊」や「亡霊」を除外した「霊魂」という概念なんか成り立たない。
 霊魂という概念は共同体(国家)の制度性とともに生まれてきたのであり、日本列島は共同体(国家)の発生が大陸に比べて数千年遅れていたのです。しかしそのぶん、言葉も「感慨の表出」という起源のかたちを残しながら洗練発達してきた。そこのところを汲み取らないと、やまとことばのほんらいの姿は見えてこない。
 おそらく「ことだま」という言葉は共同体(国家)が存在しない古代以前からあったはずだし、「たま」という言葉に「霊魂」という概念が付与されて「ことだま」の意味が変質していったのは平安時代以降のことです。共同体(国家)の制度性が定着した平安時代はもう、「悪霊」や「怨霊」や「亡霊」が跳梁跋扈する世の中になってしまっていた。
 まあ「意味=霊魂」と考えられなくもない。古いやまとことばには、そういう「意味=霊魂」は宿っていなかった。その音声を発したたり聞いたりすることの「感慨」が宿っていただけです。


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 世界の輝きを前にして思わず口から音声がこぼれ出た。これが言葉の起源であり、「意味の伝達の道具にする」というようなややこしい手続きから生まれてきたのではない。
 言葉の起源は、脳のはたらきが組み換わる体験だった。
 その人間的な音声を発するときや聞くとき、脳のはたらきが組み換わっている。そのとき原始人は、それまでの脳のはたらきが消えて、新しく生まれ変わったような心地になった。
 生き物が生きてあることは何かの間違いです。人間はそのことを心のどこかで自覚しており、だからこそ新しく生まれ変わったような心地(=ときめき)を体験する。
 そのときすべての生は否定され、許されている。たぶん、ここのところが問題です。
 生きてあることが正しいことだから許されのではない。そんなふうに考えるから、間違った生を措定したり、それぞれの生のかたちに優劣をつけたりしながら、けっきょく自分だけの世界に入り込んでいってしまう。正しく優秀な生なんか、自分だけの世界に入り込まないと確定できるはずがない。
 他者との関係に「反応」できるということは、他者を許しているということです。自分の生が正しく優秀だと思いたいのなら、もう自分だけの世界に入り込むしかないし、他者の生を間違ってみすぼらしいものだと思いたくもなる。それは、他者に「反応」していないということです。そう決め付けているだけのことであり、そう思いたいだけのことです。
 他者のことなんか何もわからない。だから、そう決め付けることもそう思い込むこともできない。その「何もわからない」ということが「許している」ということです。人は、そこに立って他者やこの世界の存在に「反応」している。
自分は人を見る目がある、なんて思うべきではない。多くの大人はそのつもりでいたりそう思いたがったりしているが、それは他者に「反応」していないということです。「わからない」というところに立って、はじめて「反応」が起きるのだし、新たな「発見」が起きる。つまり、「反応」するとは、「発見」する、ということです。人は、他者を「発見」するのであって、他者のことが「わかる」のではない。他者と向き合っていることは、他者と「出会っている」ことであって、他者と「一緒にいる(=共生関係)」ということじゃない。他者のことがわかるということは、他者との「共生関係=一体感」に入り込んでいるということであり、そうやって自分だけの世界に入り込んでいるということです。
 人が他者との関係を生きる存在であるかぎり、「共生関係=一体感」を持たなければ自分だけの世界には入り込むことはできない。「自分だけの世界」は他者との「共生関係=一体感」によって担保されている。「人を見る目がある」なんて、そういうただの他人に対するなれなれしさにすぎない。
 人は、みずからの生もみずからの知見もぜんぶ「これは違う」と否定してまっさらの心(=脳)になって他者や世界に「反応」してゆく存在です。そうやって他者や世界を「発見」する。まあそういう存在であることの生きにくさというのがあって、幼児体験として他者との「共生関係=一体感」に入り込むことの生きやすさ(まどろみ)に味をしめてしまったり、逆に幼児体験として他者との関係に失敗してそれに対する飢餓感を募らせたりすると、どうしても他者との「共生関係=一体感」に入り込んで他者を裁こうとする傾向になってゆく。
 既知のデータで他者を裁く。それに対して既知のデータを全部捨てて他者に「反応」してゆく心模様もある。現代人は前者の傾向が強く、原始人は後者の心模様で言葉を生み出していった。人間性の普遍・自然というのならそれは後者の心模様にあり、われわれ現代人だってつまるところその心模様を基礎にしてこの生を成り立たせている。
 すべての生は否定され、許されている。それが問題です。予定調和の生きやすさを生きようとするのも人間なら、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になって生きにくさを生きようとするのも人間です。
 「あなたなしでは生きられない」と、女にちやほやされすがりつかれて舞い上がるのも男なら、その「共生関係=一体感」の居心地の悪さを知っているのも男です。いやこれは、女の方だってそうかもしれない。早い話が、まあそんなようなこと。
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