ときめきのホルモン分泌・ネアンデルタール人論23

 人類拡散の旅、という。人類学者が考えるその旅とは、住みよい土地を求めて移住してゆくことであるらしい。
 つまり「生きのびるための生存戦略」としての旅、ということだろうか。彼らは、生存戦略を持つことや発達していることが人間性の本質であると考えているらしいが、それは違う。
 原始人はそんな「目的」を持って旅していったのではない。
 人間にとっての旅は、もっと深く存在の根源とかかわっているところの、いわば本能的な行為であるはずです。つまり旅をしようと思ったのではなく、気がついたら旅をする存在になっていただけです。どんな「目的」もなかった。しらずしらず旅ををする猿になっていた。
 原始人の歴史というか、さまざまな「起源論」を合目的的な論理で語るなんて、ほんとに愚劣で薄っぺらです。そんなところに歴史の真実があるのではない。
 旅のなんたるかも知らない段階で旅をしようとなんか思うはずがない。旅をする習俗が生まれてきた結果として、「旅をしよう」という目的を持つようになったにすぎない。
 目的なんかなかった。気がついたら旅をしていただけであり、拡散する猿になっていただけです。
 人間は何のために旅をするのか……という問題設定そのものが卑しく倒錯的です。目的なんかない。ただもう心が「はぐれていってしまう」存在だったから旅をするようになっただけです。人の心は、集団からも自分からもこの生からもはぐれていってしまう。そして心は、そこから華やいでゆく。
 人間的な「漂泊の心」というのがある。
 旅は、人間の「生存戦略」ではない。人類学者の思考においては、「旅のロマン」などというものは現代的な趣味であって原始人はあくまで生存戦略として旅をしていったと考えているらしいのだが、その思考が変なのです。
 原始人こそ、純粋な「漂泊の心」で旅をしていったのです。現代人は「旅のロマン」を目的化しているが、原始人はもう、目的そのものがない純粋な「漂泊の心」を持っていた。
 そしてその「漂泊の心」に、人間性の根源・自然を解く鍵があるのかもしれない。


 心がはぐれて旅をしてしまうというのは、人間は生きてあることが「許されていない」存在である、ということです。「今ここ」に生きてあることが許されていない。そうしてその「許されていない」ということそれ自体を生きようとする、生きてしまう。それが、人が旅をする「契機」であり、根源的には旅をする「目的」を持っているのではない。
「許されていない」存在だから、心が華やいでゆかないと生きられない。「許されていない」存在だから、世界や他者にときめいてゆく。
 このブログでは前回、人間はなぜきらきら光るものが好きかというテーマで考えてみたのだけれど、それは生きてあることのかなしみ=嘆きが契機になっている、かなしみとはときめきのこと。
 かなしみ=嘆きにせかされて心が華やぎときめいてゆく。
 根源的には、華やぎときめこうとする「目的」があるのではない。
 人の心の動きは、短絡的に「目的論」では解き明かせない。
 人類は旅をしようとする「目的」で旅をするようになったのではない。旅をしてしまう「契機」を持っている存在だったからです。そしてその契機は、心がこの生から「はぐれてしまう」ということにある。「許されていない」存在だから、「はぐれてしまう」。
 

 ある人から聞いたのだけれど、人の心が世界や他者にときめくのは、オキシトシンというホルモンが分泌されているからだそうです。したがって自閉症的な傾向の強い人はその分泌が人よりも少ない。しかしそれは、先天的にオキシトシンの分泌が少ない体質だからときめかないというのではなく、ときめかないから分泌が少ないのでしょう。
 人の心はなぜときめくかといえば、ときめこうとする「目的」があるからではない。そういう「目的」でオキシトシンの分泌が起こるのではない。ときめいてしまう心がある。人間は、ときめいてしまう存在の仕方をしている。
 おそらく、オキシトシンによってときめきがうながされるのではない。それはあくまでホルモンなのだから、生き物としての身体生理に作用しているのであって、直接的には心模様をつくっているのではないはずです。ときめくような身体の状態にさせるホルモンなのでしょう。
 女が妊娠したり子を産んだりするとオキシトシンの分泌が活発になるらしい。しかしそれは、子供に対する愛=ときめきが深まるとか豊かになるとか、そういう問題じゃない。妊娠・出産・育児という体験は、身体に異変が起きて世界との調和を失った状態になることであり、その不安定感を調整するようにオキシトシンが分泌されるのでしょう。まあそうやって心が華やぎときめいてゆく。
 妊娠すると閉経したり、腹の中に異物が入ってきて腹が大きくなったりしてくる。もう自分自身がこの世の異物になってしまったような状態です。身体がいちじるしく世界との調和を失っている状態、そうなれば、いろんな身体生理の変調が起きてくる。
 初期の妊婦には、吐き気を繰り返す「つわり」という現象がある。それは、食い物を養分として取り込むことができなくなっている状態でしょう。そうやって身体の自立性(自律性)が弱くなっている。一種の自律神経失調症のような現象でしょうか。
 そのとき身体は、世界との正常な関係を結ぶことができなくなって、異物=胎児との関係につながれてしまっている。妊婦の身体は、世界との関係を失っている。
 胎児には、母体から取り込む養分が必要です。なのにそのとき母体は、養分を取り込むことができなくなっている。その母体にとっても胎児にとっても危機的な状況に対する対応としてオキシトシンが分泌されてくるのでしょうか。
 オキシトシンとは、身体が養分を取り込むことを可能にするホルモンであるのかもしれない。
 食ったものをすぐ吐いてしまうというのは、身体の世界に対する拒否反応です。そのとき妊婦は、胎児との共生関係から逃れようとしている。
 したがって、そこで起きるオキシトシン分泌の効果は、「胎児に対するときめき」ではなく、胎児との共生関係を振り切って世界との関係を取り戻そうとするはたらきであるといえる。
 胎児と「一体化」するのではなく、たがいに別々の身体になることによって、はじめて母体も胎児も生きられるようになる。
 生き物の生は、世界に対する身体の孤立性の上に成り立っている。そうでないと身体の自律的なはたらきが起きてこないし、心はそこでこそ華やぎ世界にときめいてゆく。
 女が妊娠することは、身体の輪郭があいまいになってしまうことであり、そうやって身体の世界との関係の危機を生きることです。そのとき妊婦の身体は、世界との関係を拒否しつつ共生してもいる。


 自閉症とは、「自分に閉じこもる」ことではなく、「共生関係に閉じこもる」ことです。
 そしてその「共生関係」の相手は、他者であるとはかぎらない。たんなる「数字」であったりもする。自閉症者は、驚くほどの量の数字を精緻に記憶していたりする。彼らは、いろんなものと共生関係を結ぶ。分裂病者が、目の前の机に手を触れながら机と自分の身体との境目がわからなくなって机まで自分の身体の一部であるかのように感じてしまったりするのも、机との共生関係に置かれている状態でしょう。彼らは、「共生関係」でしか生きられなくなっている。
 共生関係は、身体の危機的な状態です。
 しかし自閉症的な傾向が強い人びとは、この共生関係に執着してまどろんでゆく。彼らは、共生関係を生きようとする。それはほんらい身体の危機的な状態で、その対処としてオキシトシンが分泌されてくるのに、そこが安住の場所であるのなら、オキシトシンが分泌されるはずもない。
 自閉症的傾向、すなわちナルシズムとは、世界との「共生関係=一体感」の上に成り立っている。ナルシズムの強い人間ほど「他者への愛」を語りたがる。彼らの心は、世界や他者との共生関係を持っている。しかし彼らは、オキシトシンの分泌が弱く、じっさいは世界や他者にときめいていない。このあたりの心理機制は、とてもややこしい。
 生き物の生は、身体の「孤立性」の上に成り立っている。そこから心は華やぎ、世界や他者にときめいてゆく。世界に対するみずからの身体の輪郭をきちんと持っていないと、身体の自律的なはたらきは起きてこない。


 オキシトシンのことを、かんたんに「ときめきを生むホルモン」といってもらいたくない。
 ホルモンとは、あくまで身体に作用する物質でしょう。そのオキシトシンというホルモンが身体に作用した「結果」としてときめきが生まれてくるとしても、そのホルモンが直接そうした心模様を作り出しているのではないはずです。
 妊婦は、「共生関係」という身体にとっても心にとってもひとつの危機を生きている。そのとき分泌されるオキシトシンとは、身体の危機を生きるためのホルモンであるのかもしれない。
 つまり、人間的な世界や他者に対するときめきは、身体の危機を生きることによって生まれてくる。そのとき分泌されるオキシトシンというホルモンは、共生関係を受け入れつつ、共生関係から解放されるはたらきをもたらしている。そうやって心が世界からはぐれてゆく効果をもたらしている。そして世界からはぐれつつ世界にときめいてゆく。
 オキシトシンは、世界との共生関係から解放し世界からはぐれてゆく効果をもたらす。それは、世界からはぐれてゆく「かなしみ(疎外感)」をもたらすホルモンであり、そこから心は華やぎ世界にときめいてゆく。


 ネアンデルタール人は豊かなときめきを持っている人々だったが、彼らは先天的にそうした心模様(=オキシトシンの分泌)を豊かに持っていたのではない。そうした心模様(オキシトシンの分泌)が豊かに起きてくる状況に置かれていただけです。現代社会の殺伐とした状況を生きるわれわれとネアンデルタール人との「ときめき=オキシトシンの分泌」の差は、先天的な体質の差ではなく、後天的な生育環境に違いがあるだけでしょう。
 妊婦はわれわれ一般人よりもたくさんのオキシトシンの分泌が起きている。先天的なオキシトシンの分泌の量だけでは、妊婦を生きることができない。
 自閉症スペクトラムというのか、自閉的な気質の強い人は、おそらく生まれつきオキシトシンの分泌が少ない体質であるのではなく、後天的な生育環境によってそのような傾向になっていっただけであり、しかしいったん刷り込まれた乳幼児体験は生涯修正がきかなったりする。だから、ともすればそれが先天的な気質のようにとらえられがちだが、そういうことではないはずです。狼に育てられた人間は、一生その狼を親だと思いこむ。まあ、そのようなことでしょう。
 乳幼児は、日々生まれ変わって自分の体質や気質をつくり変えてゆく。かんたんに「先天的」といってもらいたくない。もちろん先天的なさまざまな問題があることは確かだが、その前にまず「乳幼児体験は取り返しがつかない」という問題がある。親であることの罪は深いし、同時に子供はどんな人間になる可能性も持っている。子供は、日々生まれ変わって自分をつくり変えてゆく。
 ともあれ、ここでいいたいことは、人間的な「ときめき」は、根源的には「疎外感=かなしみ」を契機として生まれてくるのであって、ときめこうとする目的を持っているのではない。したがって原理的には、先天的なオキシトシンの分泌の差があるのではなく、後天的にその差があらわれてくるにすぎない。誰もがオキシトシンが分泌される身体生理を持って生まれてくる。そういう身体生理がある、ということだけが先天的な問題です。その分泌の量の差は後天的な乳幼児体験によって決定される。
 もちろん先天的な自閉症とその逆のダウン症というのはあるのでしょう。しかし、世にいう発達障害とか自閉症スペクトラムというのは、後天的な乳幼児体験として決定されたものであって、先天的に決定されていることはほとんどないはずです。
 べつに科学が人間を何もかも数値で分析してしまうことを否定するつもりはさらさらないが、先天的か後天的かということをかんたんに決定されてもらっては困る。


 人間は、先験的にときめこうとする「目的」を持っているのではない。ときめいてしまう「契機」を、「疎外感=かなしみ=許されない存在」として持っているだけです。
 人間は先験的なときめこうとする衝動=目的を持っているのではない。
 ただの先天的な体質だけで自動的にオキシトシンが分泌されるのなら、妊婦のそのときめきに、そのときの夫婦関係やら時代状況やら個人的な人生体験といった要素はあまりかかわっていないことになる。しかしじっさいには、そうした後天的な心模様の要素こそが「契機」となってときめき(=オキシトシンの分泌)を左右しているはずです。
 オキシトシンというホルモンを注入すれば、たしかに心がときめくようになるのでしょう。
 しかしそのホルモンは「ときめき」をうながしているとはかぎらない。ここのところが重要です。
「ときめき」が生まれてくる契機は、「疎外感=かなしみ」にある。そのホルモンがうながしているのは「疎外感=かなしみ」にある。
 身体の生成は「孤立性」によって活発・健全なはたらきが保たれる。孤立した存在だから、腹が減ったら自分で食おうとする。もしも他者や世界と一体感があるのなら、食う必要はないし、食おうという気が起きてこない。食わなくてもすでに世界と調和しているというか、身体はすでに世界の一部になっている。生き物がものを食うという生態は、身体の孤立性、すなわち世界に対する身体の輪郭をはっきりさせておこうとすることの上に成り立っている。空腹になると、何か身体の輪郭がゆがんでしまっているような心地がする。意識のはたらきのみずからの身体に対する直接性、といってもいい。オキシトシンとは、身体に養分を補給するはたらきのホルモンである、ともいえる。
 というわけで、われわれの身体は他者との一体感を持ってしまったら生きられないようにできている。妊婦とは体の中の異物を飼いならしている存在だから、どうしても異物=胎児との一体感を持ってしまって体のはたらきが衰弱しやすくなっている。妊娠して体のはたらきが衰弱しがちになると、その反作用としてオキシトシンの分泌が活発になってくる。
 べつにときめこうとするのではない。妊婦は、その疎外感=かなしみを宥めるようにしてときめいてゆく。
 おそらくオキシトシンがうながしているのは疎外感=かなしみであり、生き物としての身体の孤立性を守ろうとするはたらきであるはずです。
 もともと依存気質の強い人は、自律神経失調症になりやすい。そうやって、マタニティブルーになってゆく。それは、孤立感でも自閉的になっているのでもなく、依存してしまっている状態です。 
 自閉症的気質は、他者との関係意識が希薄で自分に閉じこもっているというが、そうではなく、他者との一体感=なれなれしさ=依存気質が強すぎて他者とうまく関係が結べない状態です。
 孤立感=かなしみがあれば、他者にときめいてゆく。
 他者に対するなれなれしさや一体感があれば、ときめく必要なんかない。そんな感慨など持たなくても、先験的に仲良くすることが約束されている。そうやってオキシトシンの分泌が弱くなってゆく。
 彼らは自分に閉じこもっているというよりも、いざとなると、他者にたいしてとてもなれなれしい。遠慮とか気を遣うということを知らない。そうやってまわりのものをいらだたせるし、まわりのものから気を遣われてもいる。彼らが他者にときめかないのは、自分に閉じこもっているというより、他者との一体感が強すぎるからです。
 一体感でときめくということはない。ときめく必要がないのが一体感です。言い換えれば、彼らはときめこうとしてときめいているだけであっって、「ときめいてしまう」という心の動きはない。
 オキシトシンの分泌による効果はおそらく、身体を「個体」として落ち着かせることにあるのでしょう。直接的には心をときめかせるのではない。身体や心のはたらきの根源にときめこうとする「目的」などはない。つまり、「生きようとする目的」などはない、ということです。われわれの身体も心も、根源的には、あくまで「生きてしまっている今ここ」をやりくりしようとしてはたらいている。
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