オキシトシンについての追記・ネアンデルタール人論24

 正確にいうと、出産時に大量のオキシトシンが分泌される、ということらしい。
 だったら、なおさらです。
 オキシトシンは「身体の危機」において分泌される。そして「共生関係=一体感」からの解放として分泌される。それは、「共生関係=一体感」から解放されて「身体の危機」を生きることが可能になるホルモンなのでしょう。
 自閉症的な傾向が強い人は「身体の危機」を生きていない。「共生関係=一体感」にまどろんでいる。
 彼らは、自傷行為が好きです。すぐリストカットに走ったり、ドラッグで死後の世界を疑似体験したがったりする。それは、「共生関係=一体感」から逃れようとする行為です。オキシトシンの分泌が少ないから、ふだんは「身体の危機」を生きていないし、リストカットやドラッグ体験が「身体の危機」だという自覚も希薄なのでしょう。
 人は、存在そのものにおいて「身体の危機」を生きている。それが、原初以来続けてきた「二本の足で立っている」という姿勢の根本的なコンセプトです。「生きにくさ=身体の危機」を生きようとするのが人間です。そうやって「なぜ?」と問いながら知性や感性を発達させてきた。その「生きにくさ=身体の危機」生きるところから心が華やぎ、他愛なくときめき合う存在になっていった。
 おそらく二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿よりもオキシトシンの分泌がさかんな猿になっていった。
 人類の二本の足で立ち上がる姿勢は、後天的に獲得されるものです。遺伝子に組み込まれている生態ではない。狼に育てられれば、四本足で行動する生態になってゆく。
 人の赤ん坊は、後天的に二本の足で立つことを学んでゆく。言葉を覚えることと同じです。人はオキシトシンの分泌が盛んな猿だから、「身体の危機」を生きようとする。そうやって後天的に二本の足で立つことを覚え、言葉を覚えてゆく。「共生関係=一体感」のまどろみを植えつけられて「身体の危機」を生きるタッチが希薄になっている自閉的な傾向の赤ん坊は、オキシトシンの分泌が少なく、なかなか立ち上がらなかったり言葉を覚えようとしなかったりする。
 言葉は、他者の身体との絶対的な隔絶を自覚しつつ、その隔絶を飛び越えるようなときめきとともに覚えてゆくものです。
 出産時に大量のオキシトシンが分泌されるということは、それは身体の中の異物を排出するためのホルモンであるのかもしれない。そうして異物を排出したばかりのお母さんはその「異物=赤ん坊」を抱き上げ、オキシトシンの分泌の余韻とともにほんとにうれしそうな顔をする。それは、赤ん坊との「共生関係=一体感」ではなく、そこから解放されて、赤ん坊の身体との「絶対的な隔絶」を飛び越えてゆくときめきです。赤ん坊を体から排出して赤ん坊との「共生関係=一体感」を実感する、などということがあるはずない。
 身体は、「身体の危機」において活発にはたらく。生き物の身体のはたらきとは、そういうものなのでしょう。身体のはたらきとは「身体の危機」を生きるはたらきである、ということでしょうか。腹が減ったら飯を食う、息苦しければ息をする、そうやって身体は「身体の危機」を生きている。


 自閉的な傾向の強い人は、乳幼児体験として世界との「共生関係=一体感」を植えつけられてしまった。それはもう、一生取り返しがつかない。しかしそれは、先天的な気質でも体質でもない。
 おそらく先天的な体質としては、「人間はオキシトシンが分泌される身体生理を持って生まれてくる」ということだけでしょう。その分泌の量は、後天的に決定される。まあ僕はそう考えるのだけれど、科学者がいずれそれを明らかにしてくれるだろうと期待しています。
「共生関係=一体感」などという心模様は、後天的な自意識のはたらきによるものでしょう。胎児にそのような自意識があるはずない。彼らは一個の「個体」として胎内という環境世界とかかわっているだけでしょう。生まれてきたあとに、親や社会から囲い込まれ「共生関係=一体感」の心模様や体質を持たされてしまう。そうして、オキシトシンの分泌が少なくなってゆく。それは、先天的に持って生まれてくる心模様でも体質でもない。親から遺伝するのはあくまで「オキシトシンを分泌する身体生理」それだけであり、分泌の量ではない。分泌の量は、後天的なその「共生関係=一体感」の心模様=思想=世界観=自意識によって決定される。
 分泌の量が先天的に決定されているのなら、出産時に大量に分泌されるというようなことは起きないはずです。
 出産時のその圧倒的な「身体の危機=苦痛」において<「共生関係=一体感」の心模様=思想=世界観=自意識>が崩壊する。そうして大量のオキシトシンが分泌される。
 現在、自閉症スペクトラムをはじめとする発達障害の人にオキシトシンを注入すると一時的に他者との関係がスムーズになる、という対症療法がなされているそうです。
 おそらくそれは、彼らが先天的にオキシトシンの分泌が少ない体質であるからではなく、乳幼児体験として<「共生関係=一体感」の心模様=思想=世界観=自意識>を決定的に持たされてしまったからでしょう。乳幼児期にいったんそれを持たされてしまうと、なかなか修正がきかない。生涯を通じての気質になってしまう。
 出産時の妊婦の気質や体質は一時的にそうした<「共生関係=一体感」の心模様=思想=世界観=自意識>が決定的に崩壊して大量のオキシトシンを分泌するが、そのあとはまた、ふだんの<「共生関係=一体感」の心模様=思想=世界観=自意識>に戻ってゆき、子供にもそれを植え付けてしまったりする。現代社会はそれが普遍的な人間性だという合意があるし、子育ては父親もかかわっているから、父親によって植え付けられる場合も多い。父親の意識のほうがそうした社会的合意に染められてしまっているし、なんといっても人の心は心地よさになびいてしまいやすい。
 

フロイト以来の心理学として「快感原則」というのが人間性の普遍のようにいわれている。しかし人間性の普遍というなら、人は生きにくさを生きようとする生き物でもあるのです。そこからオキシトシンが分泌されてくる。
 生き物は、個体としての「身体の輪郭」が定まっていないと生きられない。その輪郭は世界から隔絶されたところで描かれる。そうやって心は、世界からはぐれてゆく。それは、けっして生きやすい意識=快感ではない。この生は「生きやすい意識=快感」だけではすまない。この生やこの世界からはぐれながら、そこから隔絶した「身体の輪郭」を定めていかないと生きられない。そうやって人は生きにくさを生きようとしてしまい、そこからオキシトシンが分泌されこの世界にときめいてゆく。
 快感原則としてオキシトシンが分泌されるのではない。生きにくさを生きようとしてオキシトシンが分泌される。
 人類の出産なんて、これ以上ないほどの生きにくさを生きる行為です。生き物はオキシトシンの分泌という身体生理を持っているから、人類のような苛酷な出産をするところまで進化していってしまう。
 まあ、生き物の「進化」の契機は、生きにくさを生きようとしてしまうところにある。人類が苛酷な出産をするようになったのも、キリンの首が長くなったのも、生きにくさを生きようとしたことの結果でしょう。それは、「快感原則」とか「適者生存」などという問題設定では説明がつかない。


 そして、人類史上、ネアンデルタール人ほど苛酷な出産をしていた人々もいないのであり、彼らは人類の進化の究極までいってしまった人々なのです。
 ネアンデルタール人の胎児は現代人よりも頭が大きく、しかも妊娠期間も現代人より一ヶ月近く長い。したがってそんな胎児が産道を降りてくるときの抵抗感は、並大抵ではない。そしてそれは、「原始的」という言葉では言い表せない。むしろ人間的な進化の究極のかたちだといったほうがしっくりする。
 アフリカのサバンナのホモ・サピエンスは進化の袋小路に迷い込んでしまい、北の果てのネアンデルタール人は進化の究極にたどり着いた。その両者の遺伝子が混じり合って、現在の人類史が生まれてきた。
 どちらかというとサバンナの民はミーイズムの(自閉的な)快感原則の傾向が強いが、北の果てのネアンデルタール人オキシトシンの分泌を盛んにしながら生きにくさを生きていた。
 快感原則に閉じ込められると、オキシトシンの分泌が少なくなって、発達障害を起こしやすい。赤道直下のアフリカのサバンナの民が文明世界の歴史から取り残されていったのも、彼らが快感原則で生きる人々だったからでしょう。彼らは、快感原則の音楽性や色彩感覚や自己中心的な人間関係の文化はとても発達している。ただ、人の生はそれだけではすまない。現在の人類はネアンデルタール人の遺伝子も引き継いでいるからここまで文化・文明を進化発展させてきたのだし、快感原則のアフリカ人はその進化発展についていけなかった。
 日本人が自分の子供や妻のことを愚息とか愚妻といったり「つまらないものですが」といって贈り物を差し出したりして自分を卑下してゆくのはひとつの生きにくさを生きようとする態度の文化であり、アフリカでそんなことをしたら徹底的になめられてしまう。しかしそんなことをなめてしまう文化では、快感原則の文化は発達するが、世界の人間関係や文明の進化発展にはついてゆけない。
 何はともあれ明治以降の日本人がたちまち欧米の文化に追いついていったのは、生きにくさを生きることを厭わなかったからでしょう。
 高度な学問・芸術・技術・人間関係を獲得してゆくことは、生きにくさを生きることによって実現されると同時に、快感原則でサンプル(テキスト)をコピーしてゆくことによっても得られる。しかしコピーするだけではその先の展開はないし、その学問・芸術・技術・人間関係の本質を獲得したことにはならない。それはあくまで、生きにくさを生きることから生まれてくるものだから。
 なんのかのといっても明治の日本人留学生は、生きにくさを生きて欧米の先進文明の本質に迫ろうとする態度を持っていた。だから、欧米人から研究のパートナーとして迎えられることもあった。


 人の心模様の本質・自然は、快感原則だけでは解き明かせない。
「共生関係=一体感」という快感にまどろんでゆく習性を持ってしまうと、オキシトシンの分泌が少なくなる。心理学者だって、「なぜ少なくなるか?」という研究をするしかないのであり、自閉症スペクトラム発達障害の人は先天的にオキシトシンの分泌が少ないからそれを注入すればよいという結論ですむはずがない。オキシトシンの分泌によって得られるのは「生きにくさを生きる」態度であり、「共生関係=一体感」を捨ててみずからの「身体の輪郭」をたしかに持ちながらその外の世界に焦点を結んでゆく視線であって、他者との「共生関係=一体感」ではない。
 その「共生関係=一体感」こそが彼らを生きにくくさせている。
 徘徊する認知症の老人は、世界との「共生関係=一体感」に浸って、まわりの景色にときめいてなんかいない。だから、自分がどこを歩いているかわからなくなってしまう。
 まあ快感原則は誰でも持っているが、それだけでは人は生きられない。
 人類の歴史は生きのびるための生存戦略として動いてきた……という歴史観は、快感原則だけで人間を規定しまっている。それでは、原始人が生きられない氷河期の北の果てまで拡散していったことの説明はつかない。
 オキシトシンの分泌の量が先天的に決定されているということでは、出産時に大量のオキシトシンが分泌されるということの説明はつかない。もしも先天的に決定されているのなら、その量で出産しなければならないはずです。
 誰だって、オキシトシンの分泌が多いときもあれば少ないときもある。その量が先天的にたとえば「30〜60」までの人もいれば「50〜100」のあいだの人もいるとか、そういう問題ではない。そういう問題は、後天的に起きてくる。人間に先天的そなわっているのは「オキシトシンが分泌される」というその身体生理そのものだけであり、分泌の量は後天的に決定される。だから、出産時に大量に分泌されたり、年を取って分泌しなくなってきたりする。
 たとえ「30〜60」までの人でも、自閉症スペクトラム発達障害を起こさない人もいる。


 自閉症の人が突発的に奇声を発したり暴れたりすることがあるが、それはきっと世界との「共生関係=一体感」の危機を感じているのでしょう。他人が予測に反した行動をすると、その反応ができない。それがなぜかと考えることができない。彼らの世界はあらかじめ決定されており、考えたりわかったりする必要がない。彼らの動きは、ぎこちない。それは、「身体の危機」を生きていないからであり、人の体の動きは「身体の危機」を生きながらスムーズになってゆく。人類の二本の足で立つ姿勢は、「身体の危機」を生きる姿勢なのです。
 彼らは人の気持ちなどわからない。それは「自分」に閉じこもっているからではなく、「共生関係=一体感」に閉じこもっているからです。そこに閉じこもれば、人の気持ちなどわからなくてもすむ。
 遺伝子の異常ではなくひとまず健常者である自閉症スペクトラム発達障害の傾向を持った人は、その「共生関係=一体感」のタッチで恐ろしく知能や暗記力が発達して社会的に成功する場合も多い。そのタッチで、何でもかんでも頭に刷り込んでしまうことができる。今の世の中、普通の人でもそういう能力をある程度は持っていないと生きてゆけない。だから彼らは、そういう能力のエリートとして尊敬されたりする。
 彼らは、人の心はぜんぶわかっているつもりでいる。人の心の精緻な図式をすでに頭の中に刷り込んで持っている。わからなくて考える(=問う)ということはしない。
 その場の状況で自分が感じてわかるというのではなく、「この場合はこうだ」という自分の中に刷り込んである図式をインストールしてゆく。彼らは、何も感じていない。
 今の世の中は、そういう刷り込みの図式だけを精緻に持っていて何も考えていなし何も感じていない人が、知性や感性が豊かだと尊敬されたりするし、そういう人がものすごくはた迷惑な存在になったりもしている。
 今どきの人類学者が、原始人は「生きのびるための生存戦略」で歴史を歩んできたというのも、現代人の頭に刷り込まれた人間図式を当てはめているだけです。
 そうやって現代社会は、高度な自閉症スペクトラムの人のいう倒錯した人間観にリードされてしまっている部分がいろいろある。また、中途半端な自閉症スペクトラムの人があちこちで迷惑がられ毛嫌いされたりもしている。
 このブログで「内田樹という迷惑」というシリーズを書いてきたのも、自閉症スペクトラムの人の倒錯した人間観に耐えられなかったからです。その「共生関係=一体感」を主調とした人間観にものすごく胡散臭いものを感じたからです。そんな論理が正当化されたら、人類のオキシトシンの分泌はますます希薄になってゆく。オキシトシンの分泌の量は先天的に決定されているのではない、後天的な生育環境のそんな倒錯した「共生関係=一体感」の論理に囲い込まれることによって希薄になってゆくのです。


 人の心は、この世界やこの生からはぐれながら生成している。
「共生関係=一体感」だけではすまない。
 まあ、いったん共生関係の中に身を置きながらそこからはぐれてゆくということをするのが人間であるのかもしれない。そうやって「家族」という単位が生まれてきた。
 原初の人類の二本の足で立ち上がる姿勢は、密集した群れの共生関係の中に身を置く姿勢であると同時に、密集状態からはぐれている姿勢でもあった。彼らは、はぐれながら密集状態の中に身を置いていた。それは、他者の身体との「空間=すきま」を確保しながらみずからの身体の輪郭をたしかにしてゆく姿勢であり、そうやって群れの密集状態=共生関係の中に身を置きつつ、誰もがその状態からはぐれてしまっていた。はぐれながら、ときめき合っていた。
 原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保しつつ、その「空間=すきま」を絶対的な隔絶として意識していった。それを保てなければ、その密集状態は成り立たなかった。そうやって絶対的な隔絶を意識しつつ、誰もが他愛なくときめき合っていた。絶対的な隔絶を意識するからこそ、他愛なくときめいてゆきもする。その絶対的な隔絶を命がけで飛び越えながらときめいてゆく。
 この「絶対的な隔絶」に対する意識がなければ、人間という概念は成り立たないし、人間的なときめきも起きてこない。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは、他者との「共生関係=一体感」からはぐれてゆく体験だったのであり、はぐれながらたがいにときめき合ってゆく体験でもあった。
 密集状態なんて鬱陶しいに決まっている。それは、「身体の輪郭」がうまく定まらない「身体の危機」です。しかし彼らは、二本の足で立ちあがってそこから解放されてゆくことによって、サルにはない人間的な新しいときめき合う関係を見出していった。
 その二本の足で立ち上がる姿勢は、密集状態からはぐれてゆく姿勢だったのであり、そこからさらに深く豊かに世界や他者にときめいてゆく姿勢でもあった。
 人類拡散だって、そうやってもとの集団からはぐれてゆきながら、新しい土地で出会ったはぐれものどうしの見知らぬ相手にときめいてゆく体験だったわけで、いったん「共生関係=一体感」の中に身を置きながらそこからはぐれてゆくことによって心が華やぎときめいてゆくのが人間の本質・自然であるらしい。
 人類拡散の歴史は、集団の「共生状態=一体感」によってつくられてきたのではなく、そこからはぐれながら新しい集団を生み出してゆくことにあった。
 集団ごと移住していったのではない。新しい土地で新しい集団が生まれてきたのが、人類拡散の歴史です。
 人類の他者に対するときめきは、ひとつの漂泊の心です。この世界やこの生からはぐれているから、深く豊かに「ときめき」が起こる。
 オキシトシンの分泌は、先天的に決定された量として考えるべきではない。それは「共生状態=一体感」から解放されてゆくホルモンです。「共生状態=一体感」のまどろみに執着してしまえば、オキシトシンが分泌される契機を失う。そして「共生状態=一体感」は、後天的に体験されるのであって、胎児の感覚ではない。胎児に「母親」という意識などない。胎児のほうが、われわれよりももっと深く一個の個体としての身体の孤立性を生きている。そういう身体の孤立性を取り戻そうとして、人の心は「共生状態=一体感」からはぐれてゆく。いやそれが胎内の記憶だからというのではなく、身体の孤立性こそ生き物としての根源・自然の存在の仕方だからです。
 べつに原始時代や古代から自閉症スペクトラム発達障害があったわけではないでしょう。それはきっと、後天的な現代社会の構造の問題であるはずです。
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