神のもとには踊りながら・ネアンデルタール人論22

 どうして彼らは、人間性の本質・自然は「生きのびるための生存戦略」を追求することにある、と考えるのだろう。社会的に成功した人たちはそう考えることが有効だし、そのあとを追いかけている人も多い。しかしその動きから取り残された「この世のもっとも弱いものたち」は、社会の多数を占めるその合意から追いつめられている。
 追いつめられて鬱病になったり自殺したり犯罪に走ったりする人もいる。
「この世のもっとも弱いもの」といえば何か特別な人種のように取られそうだが、誰だって生きられない赤ん坊の時代は通過してきたし、やがては寝たきりの老人になる可能性もある。そうして人生の途上で何らかの不幸と出会えば、たいていの人が自分が「この世のもっとも弱いもの」になってしまったような気分に浸される。
 僕なんか、歯が痛いだけでそんなみじめな気分になってしまう。
 人間は、根源的には「この世のもっとも弱いもの」すなわち生きてあることが「許されないもの」として存在しており、しかし心はそこから華やいでゆく。そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。


 生きのびようとしてこの世に不満を抱いたり人を憎んだりする。生きのびることが約束されたものたちはそうやって生きてゆくこともできるが、弱いものはそんな心模様では生きられない。
 弱いものはもう、生きのびようとすることなど忘れながら、「もう死んでもいい」という気分で他愛なく世界や他者にときめいてゆくしかない。それが、ここでいう「不埒になる」ということです。とにかく原初の人類はそうやって歴史を歩んできたのであり、そうでなければ人類拡散など起きないのです。
 弱いものは、不埒にならないと生きられない。人類はもともと誰もが弱いものだった。その不埒なお祭り騒ぎから人間的な知能や文化文明が花開いてきた。
 たしかに原始時代は艱難辛苦の歴史だった。しかし原始人がその苛酷な状況のさなかで必死に生きのびようとしていたのなら、けっして人類拡散は起きていない。なぜなら、生き物にとって、住み慣れた土地以上に住みよい土地なんかないのです。だから、チンパンジーやゴリラは拡散しないで今なおアフリカ中央部にとどまっている。
 アフリカ中央部で生まれた原初の人類が猿よりも弱い猿としてその艱難辛苦のさなかで必死に生きのびようとしていたら人類拡散は起きなかったし、そもそも人類が二本の足で立ち上がったことは猿よりも弱い猿になることだったわけで、それはつまり生きのびようとする欲望を捨てる体験だった。
 彼らはそうやって、不埒なお祭り騒ぎで歴史を歩んできた。その不埒なお祭り騒ぎで地球の隅々まで拡散していった。


 人の心は、この生からはぐれていってしまう。そこから心が華やぎ、不埒なお祭り騒ぎが生まれてくる。
 これは、人生論でも哲学でもなんでもない。たとえば、あの人は表情が豊かでいきいきしているとか、逆に表情に乏しいとか表情がわざとらしい人だとかという印象があるわけじゃないですか。人はもともと不埒なお祭り騒ぎの心模様を持っているから、猿にはない豊かなニュアンスの表情を持つようになった。
 笑顔がすてきだとか、はにかんだ表情が愛らしいとか、いや笑っていなくても、そのままの表情に何かしらのニュアンスを持っている人と持っていない人がいる。心模様の華やぎが、表情にあらわれる。
 心に「祭り=遊び」を持っている人の表情にはどこかしら魅力的なニュアンスがあるし、「生きのびるための生存戦略」のルーティンワークだけで生きている人の表情は乏しく魅力がない。「生きのびるための生存戦略」のルーティンワークでさかんに心が活動しているのだから本人は豊かな心模様を持っているつもりになっているが、それはあくまで自分に対する関心であって、世界や他者に対して心が動いているのではない。
 自分を忘れて世界や他者にときめいてゆく心の動きが、豊かなニュアンスの表情になってあらわれる。
 心が自分に対する関心だけで固着し停滞している人の表情は乏しい、あるいはわざとらしい。
 自然で豊かなニュアンスの表情は、自分を忘れた「祭り=遊び」の心模様から生まれてくる。「生きのびるための生存戦略=自分」を持っていない赤ん坊の表情は自然で豊かなニュアンスを持っていて愛らしい。
 誰においても、自分を忘れているときの表情こそもっとも魅力的なのです。
 映画やテレビの役者の表情が豊かなニュアンスを持っていて魅力的だとすれば、自分を忘れて役柄の人物になりきっているからでしょう。
「祭り=遊び」の心模様とは、「自分=生きのびるための生存戦略」を忘れてゆくタッチのことです。赤ん坊は最初からそんなものを持っていないが、人が大人になれば、「忘れる」ということをしないとそんなタッチは持てない。そこで、人や世界にときめいて自分を忘れている人といない人の差が表情のニュアンスになってあらわれる。


 インドには「神のところへは踊って行け」という言葉があるらしい。
 これは、なんとなくわからないでもない。踊る、すなわち心が華やいでゆくことが人間の生きてあるかたちであり死んでゆくかたちです。死んでゆくときの心の華やぎがある。それを「神のところへは踊って行け」という。
 人間は根源的無意識的には「もう死んでもいい」という感慨とともに生きている存在であり、心はそこから華やいでゆく。であれば、死んでゆくときの華やぎということもたしかにあるのでしょう。自殺することを積極的に肯定するつもりはさらさらないが、人間が自殺する存在であるということには、けっして否定しきれない深い意味がある。人間は、「神のところに踊って行く」存在なのです。
 まあ宗教的な「悟り」のようなことはどうでもいい。
 偉い宗教者の「悟り」というのがどういうものかよく知らないが、一般的に語られている「悟りの境地」などというものに興味はない。
 人間は、根源的にはそういう境地にたどり着く時間など残されていない存在であり、そうした未来に向かう計画性というのは、何か嘘っぽく不自然な感じもする。
 われわれは明日には死んでしまうかもしれない存在なのだから、それどころじゃない。
 人間は「許されていない存在」なのだから、「正しい生」のかたちを問うことなんか無意味です。
 ここで問うているのは、そういう未来のあるべき「理想」ではなく、「今ここ」で誰もが体験している人間の本性とは何か、ということです。
 人は、つらいことに遭遇すれば、その「今ここ」をやりくりすることに手一杯になって、未来など見えなくなってしまう。そうして、自分が世界でいちばんだめな人間であるかのよう心地に浸されてゆく。人は、根源・自然において、「今ここ」がこの世界のこの人生のすべてであるかのよう認識してゆく心模様を持っている。
 人間存在の受苦性。
 人の心はつらいことや苦しいことに憑依してしまう。なぜなら、そこから心が華やいでゆく歴史を歩んできた存在だからです。
 人の心は、つらいことや苦しいことから逃れようともがきながら、その心模様に憑依してしまう。なぜならそこから心が華やいでゆく(人類拡散の)歴史を背負っているから、避けがたくそうなってしまう。
 ほんとに、いやなことなんかさっさと忘れてしまえばいいだけなのに、いやなことほどいつまでも引きずり忘れない。
 それでも、たいていのいやなことは時間が解決してくれる。時間とともに忘れてゆく。一晩寝れば忘れてしまうときもある。寝ることは、死ぬ体験だからでしょう。寝る=死ぬことが救いになり、寝る=死ぬときの心の華やぎがある。
 われわれは生き物として毎晩眠る生態を持って生きているのだから、「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っていないはずがない。
 寝る=死ぬという体験をしないと人は生きられない。そしてそれは、心が華やいでゆく体験なのです。
 「神のところへは踊って行け」、心は生きのびようとするんじゃない、「もう死んでもいい」と思う、そこから華やいでゆく。「神のところに行く」とは「死んでゆく」ということの比喩だと解釈するなら、なんとなくわからなくもない。
 そしてそれは、「今ここ」に消えてゆくということであり、べつに天国や極楽浄土という「死後の世界」に行くことではない。
「悟り」なんか、よくわからない。
 心はこの生からはぐれて消えてゆく。そうやって人は眠りに就き、死んでゆく。心は、そこから華やいでゆく。
 人間は、本質・自然において「生きのびるための生存戦略」を持った存在ではないし、そんなところに生き物としての命のはたらきの本質・自然があるのではない。
 ネアンデルタール人は、神のところに踊りながら行った人々だった。そこに、人間性の本質・自然がある。
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