マルクスの誤謬・ネアンデルタール人論21

 近代のマルクス主義国家の建設・運営が失敗に終わった原因についてはいろいろ語られているが、人間性の普遍としての人類史を「生きのびるための生存戦略」の追求の歴史として考えていたこともそのひとつとして挙げることができるはずです。そのコンセプトでは、豊かな人間性を開花させることはできなかった。けっきょく逆に人びとの心が停滞していっただけだった。
 多くの識者はその原因を政治経済の技術的な失敗として語っており、浅田彰柄谷行人などは「マルクスが間違っていたわけではない」といい、彼ら左翼的知識人のあいだでは今なおマルクスは偉大な天才として評価されているらしいのだが、僕はそう思わない。マルクス歴史観人間観そのものが間違っていた結果だろうと思う。
 ヘーゲルにせよマルクスにせよ、人間の本性を「労働」すなわち「生きのびるための生存戦略」においている。マルクス主義国家の失敗は、そもそもその考えが間違っていることを証明したのだと思う。
 まあそこのところの考えは、現在の資本主義国家においても同じで、世界中の誰もが、人類史の進化発展は「生きのびるための生存戦略」を追求していった結果だと認識しており、それによってマルクスは今なお偉大な天才たり得ている。
 しかし、直立二足歩行の開始から現在にいたるまでの人類700万年の歴史は、「生きのびるための生存戦略」だけで動いてきたきたのではないのです。
 マルクスは、けっして人間性の本質・自然を解き明かしたわけではない。
 たとえばマルクスによれば、貨幣はほんらい価値のないものだが「命がけの飛躍」によって商品と等価になりえている、ということらしいのだが、ほんとにそうでしょうか。
 たしかにもっともらしい説明だが、何か変です。
 貨幣に価値がないのはわかりきったことで、それを商品と等価のように扱うことは、ひとつの「死」の体験であるはずです。価値がないこと、すなわち貨幣は「生きられない存在」です。その「生きられない存在」を生きさせるということを人間はする。
 人々が貨幣を使わないと、貨幣の流通は成り立たない。貨幣は捨ててしまうものです。売るほうも買うほうも、そこで「死」を体験している。
 貨幣には価値がないのだから、売るほうはそこで「贈与している」のであり、買うほうは「贈与してもらっている」だけです。人は、物々交換という「等価交換」がうしろめたくなって貨幣による交換をはじめた。
 おそらく最初は、一方的な「贈与」の作法として生まれてきたのでしょう。「あげるよ」「どうもありがとう」という会話をかたちにする表現だったのでしょう。「どうもありがとう」という言葉のかたちとして貨幣を差し出した。
 起源において、贈与するがわが貨幣を要求したということは論理的に成り立ちません。それは、貨幣が流通したことの結果として起こってきたことです。起源においては、贈与されるものが、「ありがとう」の気持ちのかたちとしてきれいな貝殻とか石ころのような貨幣を差し出した。そのほうが、損得を勘定する物々交換よりも気持ちがよかった。
 起源としての貨幣は、「ありがとう」の気持ちの表現だった。そしてこれが、じつは今なお貨幣の本質になっているはずです。
 食堂で飯を食ったら、レジの前で「ごちそうさま」といってお金を差し出す。そういってもらえるから、食い物(商品)を提供するがわも、できるだけ美味くて清潔なものを差し出そうとする。
 マルクス主義国家は、そういう関係を失っていった。誰もが、自分は「労働」を提供しているのだからお金をもらうのはとうぜんだという気持ちになっていった。それはたぶん、マルクスの貨幣の本質に対する考えが間違っていたからです。
 貨幣を「等価交換」の道具にしてゆくことで社会のルーティンワークの動きをスムーズにしているが、人がものを売ったり買ったりすることの「関係性」の本質はそんなところにはない。そんなところにはないということがマルクス主義国家の失敗が証明している。
 マルクスは社会のルーティンワークの本質を誰よりも正確に解き明かしたが、人と人の関係性の本質に対してはどこかで間違っていた。というか、そういうことを考慮せずに、「生きのびるための生存戦略=労働」というルーティンワークだけで人間性や社会の本質を考えた。そこに、彼の思考の限界があった。
 人と人の関係性は、ルーティンワークだけで説明がつかない。ルーティンワークに徹して社会的に成功することはできるが、人間性の本質・自然は、「生きのびるための生存戦略」というルーティンワークだけで成り立っているわけではない。
 ルーティンワークに有能であればひとまず社会的に尊敬されるが、その人が人間として魅力的であるとはかぎらない。
 ときに人は、ルーティンワークの思考しかできなくなって精神を病んでしまう。
 ルーティンワークの人生は社会的な成功をもたらすが、精神を病んでしまう危うさもはらんでいる。
 人間的な知性や感性の本質・自然は、ルーティンワークの能力にあるのではない。
 貨幣を「命がけの飛躍」で等価交換の道具にしてゆくのは、ひとつのルーティンワークです。しかしそこに貨幣の本質があるわけではない。
 マルクス主義国家は、ルーティンワークだけの社会になってしまって失敗した。
 マルクスが解き明かしたのは貨幣のルーティンワークの部分だけで、貨幣の本質ではない。
 労働者に賃金アップを要求する権利があるのではなく、資本家に「働いてくれてありがとう」という気持ちが持てるかどうかという問題があるだけでしょう。本質的には貨幣そのものに価値はないのだから、それを要求することは原理的に成り立たない。人間の本質・自然を「生きのびるための生存戦略=ルーティンワーク」だと規定している世の中だから、賃金アップを要求をしたくなるし、搾取したくもなる。どっちもどっちです。
「労働者の権利」などといってもむなしい。そんな権利を主張する世の中だから、資本家も搾取しようとする欲望が抑えられない。労働者がその「闘争」に勝利すればいい世の中になるとマルクス主義者は考えたが、そうはならなかった。
 まあ貨幣の起源においては、誰もが「ありがとう」の気持ちの形見として貨幣を使っていた。現代人はもう、そういう本質・自然から大きく遠ざかっているのだが、しかしそういう本質・自然が消えてなくなったのでもない。
 なんのかのといっても、マルクス主義者のルーティンワークの思想は挫折したのです。マルクス主義国家は、人間の本質・自然に失敗させられた。そして、現在の資本主義国家にその本質・自然があるわけでもない。マルクス主義国家ほど徹底していないだけのことでしょう。資本主義国家の人間だってますますルーティンワークの社会や人生や思考に邁進していると同時に、そうしたルーティンワークの病理も抱え込んでいる。それが病理としてあらわれてくるだけマルクス主義国家よりまだましだ、ということでしょうか。
 いずれにせよ、「生きのびるための生存戦略」であるところの政治経済というルーティンワークを語れば人間の本質・自然が解き明かせるというものでもない。
 そんな問題で人類の歴史が動いてきたのではないはずなのだが、現代では政治経済の問題を語る人間がやたらと大きな顔をしていて、実際に多くの人に尊敬されたりもしている。彼らは、人間の本質・自然を「生きのびるための生存戦略」のルーティンワークを追求する存在であると信じて疑わないし、多くの民衆もまた同じ思考をして生きている。
 それでも人は、食堂で飯を食ってお金を払うときには「ごちそうさま」というのです。そのときお客はいわば資本家であり、それが、資本家としての本質的歴史的な心模様であるはずです。もともと貨幣は、そういうときめき合う人と人の関係をつくるための道具=形見であったのです。べつに、資本家が搾取するための道具として生まれてきたのではないし、労働者の「生きのびる生存戦略」のための道具であったのでもない。
 貨幣は、ものの価値を数値として表す道具として生まれてきたのではない。「ありがとう」の心模様を表す形見として生まれてきた。なのに、いつの間にか人類は、それを、ものの価値を数値として表す道具にしてしまった。
 こんなことをいったら多くの人に叱られそうだが、労働者の賃上げ要求も資本家の搾取も同じことです。どちらも貨幣を「生きのびる生存戦略」のための道具だと認識している。貨幣の本質をそういう道具だとするのなら、資本家が搾取することだって自然な態度です。資本家だって、資本家として生きのびたいに決まっている。
 けっきょくマルクスは、人間の生のかたちをルーティンワークでしか考えられなかった。そこにマルクスの限界がある。吉本隆明柄谷行人浅田彰も、こぞってマルクスを「百年に一人の天才」であるかのように持ち上げるが、マルクス歴史観なんか、ぜんぜんだめなのです。
 マルクスの下部構造決定論や労働史観によっては、人類の歴史は解き明かせない。
 人間は、「生きのびるための生存戦略」で歴史を歩んできたのではない。そんなルーティンワークの思考に人間の心模様の本質・自然があるのではない。
 人間は、(自覚的には)生きのびることが許されていない存在なのです。そうして「もう死んでもいい」という地平に立ち、そこから心が華やいでゆく。そこから世界や他者にときめき、他者を生かそうとしてゆく。つまり世界や他者の存在を許してゆく。
 
 この世に生きのびることが許されている人間などひとりもいないのです。許されない存在として、誰もが、他者が生きてあることを許している。だからわれわれは、資本家や支配者の搾取を許してしまう。
 貨幣だって、もとをただせば、人が人にときめいてゆくことの形見だった。「許されない存在」である人間は、そういう形見をもたないと生きていられない存在だった。
「許されない存在」なのに、人は「すでに」生きてしまっている。誰もが、無意識的には、そのことのなやましさくるおしさを抱えながら生きている。そうして、他者にときめき、他者を生かそうとしてゆく。貨幣だって、そういうところから生まれてきたのです。
「ありがとう」の形見として使うのなら、お金はけがらわしいものでもなんでもない。お金が生きのびるための道具になるとき、けがらわしいものになる。
 西洋でも日本でも、「チップ(心づけ)」を差し出す習慣=伝統がある。それは、お金を「ありがとう」の形見として使おうとする歴史の無意識から生まれてきたものであるのでしょう。


 アフリカや中近東は一夫多妻の伝統です。
 それに対してヨーロッパでは、原始時代の乱婚(フリーセックス)の習俗から文明社会の一夫一婦制に移行していった。
 お金がたくさんあれば、たくさんの妻を持つことができる。それは、お金を「生きのびるための道具」として使う思想です。アフリカ・中近東の女は、お金で買うことができた。
 それに対してヨーロッパ人は、目の前のひとりの女との関係にこだわっていった。それは、女をお金で買うことができなかったからでしょう。
 ヨーロッパの女は、ネアンデルタール人以来、「生きのびる」ことなんかに興味のない歴史を歩んできた。だから男たちは、あくまでセックスアピールによって女を獲得していった。女だって、自分を生きのびさせてくれる男よりも、セックスアピールを感じる男とつながろうとした。
 ヨーロッパは、「生きのびる」ことよりも「もう死んでもいい」という場に立って心が華やいでゆく文化を育ててきた。だから、起源としてのヨーロッパの貨幣が「生きのびるための生存戦略」として生まれてくることは原理的にありえないし、彼らの男と女の関係は、「もう死んでもいい」という場に立ったところのセックスアピールから生まれてくるものだった。
 そういう「もう死んでもいい」という場に立てるメンタリティを色濃く持っていたから、古代ギリシャ・ローマは、先発のエジプト・メソポタミア文明の国家との戦争でも負けなかった。
 何はともあれ起源としてのヨーロッパの貨幣は、「ありがとう」の思いを込めて差し出すものであり、ひとつの「返礼」だった。
 貨幣が世界のどこで発祥したかはよくわからないが、古代ギリシャ・ローマは、貨幣制度がとても発達していた。まあ最初は、市民や臣下が王に贈り物を差し出す。王はその返礼として貨幣を与える。だからその貨幣には王の顔が刻まれた。そんなふうにして発達・流通していったのでしょう。王にもらったものなら、価値があるし、誰もが欲しがる。王のお墨付きとして貨幣に価値が生まれていった。
 物々交換が発達して貨幣経済になったのではない。貨幣は、一方的な贈り物の返礼として生まれてきた。それは、基本的にはものを買う道具ではなく、物をもらったときに返礼として差し出すものだった。
 貨幣の流通は文明社会の国家制度とともに本格化してきたのだろうが、人類はそれ以前から贈り物に対する返礼というか「ありがとう」の気持ちの形見としてきれいな貝殻や石ころを差し出すということをしていた。
 もとはといえば、一方的な贈り物の習慣があっただけです。そうやって人は、他者が生きてあることを祝福し許してゆく心の動きを、直立二足歩行の開始以来の人間性の自然として持っている。
 言葉であれ貨幣であれ「意味の伝達」のルーティンワークの道具として生まれてきたのではない。もとはといえば「他者が生きてあることを祝福し許してゆく」ことの表現(形見)だったのです。そこのところを、おそらくマルクスは見誤っていた。
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