「資本論」は正しいか?ネアンデルタール人論40

 人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である老人や赤ん坊や病人や障害者の介護をして生きさせようとする。その人間的な生態は、ネアンデルタール人の時代から本格化してきた。
 生きられないことの尊厳というものがある。
 人は、悲劇的な生に魅せられる。冒険家とは生きられない(=悲劇的な)生を生きるもののことであり、そこにこそ人間が生きてあることの本質のかたちがあるのでしょう。歴史的に高名な宗教者だって、そんな生きられなさを生きたり死んでいったりしたエピソードとともに祀り上げられている。
 生きられないものは死と向き合って存在している。
 この世のもっとも弱いものは、生きられないということそれ自体で尊厳を帯びて存在している。
 死と向き合うことは、人間として生き物としての最終課題です。人の無意識においては、誰もが死と向き合おうとする衝動を持っているし、人間は死に魅入られている存在であるともいえる。だから、「この世のもっとも弱いもの」の介護をして生きさせようとする。そのとき、介護をするものもまた、死と向き合っている。死と向き合いながら心が華やいでゆくという体験をしている。人の心は、そこでこそ華やいでゆくのです。
 まあ現代社会においては介護をすることがなんだか倫理道徳や社会人としての義務の問題のようにもなっているが、介護の起源の時代にそんな問題があったはずもない。ただもう介護をしたかっただけであり、せずにいられなかっただけでしょう。
 われわれ文明人よりも、原始人=ネアンデルタール人のほうが介護の衝動においてずっと切実で豊かだった。
 そして現代人だって、その一方でやはり、人間としての本性・自然において、「せずにいられない」という心模様も持っている。
 人類は、介護をせずにいられない歴史の無意識を持っている。それは、文明社会の倫理道徳の問題じゃない。
 人の心は死と向き合っていようとする。人の心は、死に魅入られている。人は、生きられない存在として生きようとする。
 この世のもっとも弱いもの、すなわち生きられないものの尊厳=輝き=セックスアピールというものがある。
 冒険者の輝き=セックスアピールは、死と向き合って存在していることにある。
 この世のもっとも高度な知性や感性の持ち主もまた、死と向きって存在している。ソクラテスアルキメデスも、いわば死と背中合わせのところに立って思考していたのであり、そういう死を恐れないエピソードを残して死んでいった。それが史実かどうかということはさしあたりどうでもいいことで、もっとも高度な知性は死と背中合わせのところにある、と誰もがどこかしらで感じているからそういうエピソードが語り伝えられてきたのでしょう。
 学問・芸術の知性や感性のことでなくてもいい。とにかくこの世の魅力的な人やセックスアピールのある人は、どこかしらに死と向き合っている気配を持っている。
 人は、死に近いものと一緒に生きようとする。そうやって自分もまた死に近い存在であろうとする。そうやっていったん「わからない」という状態に身を置き「何・なぜ?」と問うてゆくのが人間的な知能のはたらきのはずです。
 人間的な知性や感性は、死と生のはざまから生まれてくる。人間的な心模様、と言い換えてもよい。そこから人間的な「介護」の衝動が生まれてきたのではないでしょうか。


 人は、死に魅入られた存在だから介護をする。死のそばにある存在に魅入られてしまう。それはもう介護だけの問題ではない。人の心模様の普遍・自然としての「ときめき」の問題に通じている。
 なぜ死に魅入られるかといえば、この生は何かの間違いだと思っているからでしょう。人間はもう、避けがたくそう思ってしまうような存在の仕方をしている。どれほど観念的に「生命の尊厳」を称揚しようと、どれほど必死に生きのびようとする欲望をたぎらせようと、心の底のどこかしらで「この生は何かの間違いだ」と思っている。そこから心は、華やぎときめいてゆく。その人間的なときめきから言葉が生まれ、介護が生まれ、猿にはない豊かなニュアンスを持った人と人の関係が生まれてきた。
 人と人がときめき合い連携し合うのは、けっきょくのところ心の底で「この生は何かの間違いだ」と思っているからであり、根源的には「生きられない弱いもの」として存在しているからでしょう。
「生きられない弱いもの」でなければときめいたりはしないし、「生きられない弱いもの」を介護しようとはしない。生き物自体が「生きられない弱いもの」としてこの地球上に存在している。人の心は、そういう根源に遡行してゆく動きを持っている。
 そして人は、「生きられない弱いもの」としての心の動きを豊かに持っているからこそ、生きのびようとする観念的な欲望も生まれてくる。


 文明人は、「生きのびる」ことに執着してゆく。そうして、生きのびようとするのが生き物の本性(本能)だという合意をつくったりしている。
 生きのびる能力が豊かな存在が「優秀」だともてはやされる世の中で、生きのびることができる「世界の調和」を目指すのが人間の本性だと合意されている。それが文明社会で、いまやもう、生きのびるための実用書というかハウツー本が花盛りの時代になっている。
 トマ・ピケティという人の『21世紀の資本』という学術書が大いに売れているのだとか。その現代の資本主義社会に関する膨大な記述は、マルクスの分析や予言が当たっていることを証明している、といわれている。
 たしかに、マルクスの「資本論」は正しいのかもしれない。人間が生きのびようとする存在であるなら、そうやって「資本=貨幣」によって人が動かされる社会になっているのは当然のことだともいえる。
 しかしそれでもマルクス主義社会は成功しなかった。
 われわれは、人間は生きのびようとする存在かどうかと問い直す必要がある。
 人間社会は経済で動いている、そして現在のグローバル資本主義の社会ではけっして富が公平に行き渡ることはない、一部の者の富の寡占が進むばかりである……というようなことをマルクスは正確に分析し予言していた、といわれている。
 誰だって金が欲しいし、金に動かされて生きている。
 金があれば、いろんなことにおいて有利に生きてゆける。人間の生きる能力を決定している。幸せ不幸も決定している。「金=資本=貨幣」によって決定されている予定調和の世界。それはまあそうなのでしょう。
 しかし、人類700万年の歴史において「金=資本=貨幣」が生まれてきたのはたかだか数千年前のことにすぎない。そんなものが存在しなかった原始時代の人びとは、そんなものを欲しがらなかった。
「金=資本=貨幣」があれば、生きのびられることが約束された予定調和の世界を生きることができる。それが「金=資本=貨幣」の本質的な機能でしょう。そして資本主義社会が高度化した現在、その予定調和の世界の恩恵に浴することができるのは、今や一部の者だけになってきている。多くの大衆は、そんな予定調和の世界の中に身を置きながら、その恩恵に浴することがますますできなくなってきている、ということらしい。


 ここで問題なのは、人間は生きのびることができる予定調和の世界を生きようとする欲望を持っているから「金=資本=貨幣」を生み出したのではないということです。
 それは「貨幣の起源」の真実ではない。
「金=資本=貨幣」が人の心に予定調和の世界を生きのびようとする欲望を持たせているのです。
 貨幣の起源は、そんな世界をつくるために起こってきたのではない。それは、生きのびるための「交換」の道具として生まれてきたのではない。あくまで一方的な贈り物(捧げ物)だった。
 原初の貨幣はきれいな石ころや貝殻だったといわれているが、ヨーロッパ社会の起源としての貨幣は、「ビーズ」の玉だった可能性があります。ネアンデルタール人クロマニヨン人はそれを象牙や鹿の角などからものすごく手間ひまかけてつくり、首飾りにしたり着るものの飾りとして縫い付けたりしながらとても大切にしていた。そしてそれがどんなときに自分の手元から離れていったかというと、死者を埋葬するときの捧げ物として誰もが惜しげもなく差し出していったのです。ロシアのスンギールには、2万年前のそういう例の埋葬の遺跡がある。その死者の衣装には、まるで村中から集めたようなおびただしい数のビーズが縫い付けてあった。もちろんそのほかにも使い道はあっただろうが、すくなくともその例においては、死者への捧げ物として土に埋めてしまうのだから、「交換」という行為ではないでしょう。あくまで一方的な「贈り物=捧げ物」だった。おそらくその例はスンギールだけではなかったはずで、これがヨーロッパにおける貨幣の起源であるのかもしれない。品物との「交換」の道具になっていったのは、ずっと後の時代になってからのことでしょう。まあ、それほどに大切なものだったし、他者=死者に差し出すものだったから、交換の道具になっていった。
 死者への捧げ物だった、ということには、意味深いものを感じさせます。自分の大切なものを差し出して、自分もまたそこで「死」を体験している。人間にとってお金を使うことは、欲しいものを手に入れるということ以前に死の体験であり、死の衝動がはたらいている。それは、大切なものを投げ出すこと。そういう人類史の無意識が、ただの紙切れを絶対的な「価値」にしている。
 お金が人間の心をつくっているのであって、人間の心がお金をつくったのではないのです。われわれは、お金という絶対的な予定調和の世界を持った存在によって、生きのびようとする欲望を持たされてしまっているのであって、人間性の普遍・自然としてそんな欲望がはたらいているのではない。


 起源としての貨幣は、死に魅入られる心から生まれてきた。それゆえに、いつの間にか絶対的な存在として人の心を支配する力を持ってきた。
 人は、死に魅入られているとき、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になっている。つまり人は、お金に対して無力で受動的な存在になってしまう。そうして「生きのびようとする欲望」をたぎらせてゆく。お金が、人の心をそのように動かしている。
 経済によって現代社会が動いているというのは、きっとそうなのでしょう。しかし、それが人間社会の普遍的な構造だというわけではない。
 経済とは、生きのびるための予定調和の世界をつくるいとなみだが、しかし原始社会がそのようにして歴史を歩んでいたわけではない。
 貨幣とはもともと自分の大切なものを投げ出すとという死の体験だった。死に魅入られ、「もう死んでもいい」という心地で投げ出した。起源としての貨幣は、何かを獲得するための交換の道具だったのではなく、「投げ出す=捧げる」ということ、すなわちひとつの喪失体験だったのであり、人の心はそこから華やいでゆく。
 人は、お金が入ると、どうしても使いたくなってしまう。それによって貨幣の流通が成り立っている。お金が欲しいのではなく、お金を使いたいのです。
 お金を使うことは生きのびる行為であり、そうやって現代人は生きのびようとする欲望をたぎらせ、お金によって生きのびてあることを確認している。
 と同時にお金を使うことは、起源的本質的には「死の体験」であり、生きのびようとする欲望を捨て去る体験でもある。原始人はそうやって貨幣のような大切なものを死者に捧げていたのであり、そういう原始性は、歴史の無意識としてわれわれの中にも残っている。
 人間なら、誰の中にも死に魅入られる心がはたらいている。誰もがどこかしらで「この生は何かの間違いだ」と思っているし、そこから人の心は華やぎときめいてゆく。


 貨幣が生きのびるためのアイテムであり、たくさん持っていたほうがそのことに有利であるかぎり、社会の構造としてたくさん持っているものと持たないものとの格差は生まれてくるし広がってゆくことでしょう。
 いちおうたてまえとして、「みんなが同じだけたくさん持てばいい」といつの時代も合唱されているのだが、そんなわけにはいかない。できるだけたくさん持ちたいのだもの、たくさん持つことができるものはどんどんたくさん持ってゆく。そしてなぜそんな格差が生まれてしまうかといえば、人間は本質において生きのびようとする衝動だけで生きているわけではなく死に魅入られている存在であり、貨幣もまた本質において生きのびようとする衝動を捨て去るためのアイテムとしても機能しているからでしょう。
 お金は切に欲しいが、入ってくれば使ってしまう。人は、生きのびるためだけにお金を使っているわけではない。「もう死んでもいい」という無意識で使っているという部分もある。お金には、その起源的本質において、たくさん持つことができない性格もある。誰もできるだけたくさん欲しいと思っているのに、それでも大衆は、安い給料であることを受け入れてしまう。
 非正規雇用がよくないといったって、そのシステムを受け入れてしまうのも人間性なのでしょう。
 起源において貨幣はとても大切で貴重なものだったが、大切で貴重なものであるがゆえに他者=死者に差し出してしまうものでもあった。
 お金は誰においても貴重で大切なものだが、どうしても格差が生まれてしまう。みんなが同じだけたくさん持つというわけにはいかない。それは、みんなが同じだけ少なく持つというかたちにしかならない。そうやってマルクス主義社会は失敗した。人の心が、人よりたくさん持つことができない社会の構造にふてくされてしまった。そこでは、人間は生きのびようとする経済を第一義のものとして生きている存在であると合意されているにもかかわらず、その欲望が満たせない社会になっていった。その欲望が満たせないことは人間としての不幸でもなんでもないのに、その欲望を満たそうとしてふてくされてしまった。
 おそらくマルクスの思想そのものに、人間性の本質はその欲望を満たそうとすることにある、人類の歴史はそうやって動いてきた、という認識があり、それが「下部構造決定論」でしょう。
 マルクス主義社会の失敗の原因は、生きのびようとする欲望を第一義のものとする思想から逃れられなかったことにある。そうやってみんなが同じであることにふてくされてしまった。生きのびるためなら、人よりたくさん持つ必要がある。おそらくマルクス自身に、人間性の本質に対する認識の誤りがあった。現在のグローバル資本主義社会だって、その欲望を第一義のものとすることによって貧富の格差をどんどん大きくしていっている。どちらだって一枚のコインの裏表です。


 人間は、生きのびようとしているだけの存在ではない。それだけの存在であるのなら、みんなが同じだけたくさんお金を稼げる社会はとっくに実現している。
 貧富の差が生まれてしまうのは、人間は経済に動かされているだけの存在ではないからでしょう。人間は死に魅入られた存在であり、生きられないこの世のもっとも弱いものであること、すなわち貧しいことすらも受け入れてしまう存在です。お金が欲しくてたまらないのに、それでも貧しいことを受け入れてしまう。そうやって死に近い場所に立って心が華やいでいってしまう。どんなに貧しいものであろうと、生きられないこの世のもっとも弱いものであろうと、それでも目の前の今ここの世界は輝いている。すべては許されている。その実存感覚が人間を生かしている。人間は、根源において生きのびようとしているのではない、死と生のはざまの「もう死んでもいい」と思えるくらいの死に近い場所に立とうとしている。心はそこから華やぎときめいてゆく。そういう人間性によって、貧富の差が生まれてしまう。貧しいものの心が華やぎときめいていないのではない。富めるものと同じか、あるいはもっと華やぎときめいている。
 貧富の差なんか、共同体(国家)の発生以来ずっと続いてきたことだし、文明社会は永久にそれを克服できないのでしょう。この社会は生きのびるための政治経済を第一義にして動いておりそれが人間性の本質だといっているかぎり、構造的な貧富の差は永久に続く。どんなに「みんながたくさんお金を稼げる社会」を目指したって、人間は死に魅入られている存在であるという人間性の本質や歴史の必然に必ず裏切られる。言い換えれば、文明社会のそうした目論見が挫折するところに人間性の本質や歴史の必然があらわれる。
 20世紀におけるマルクス主義社会の挫折は、どんなに「みんながたくさんお金を稼げる社会」を目指したって必ず挫折するということを証明している。


 貨幣の起源・本質は、生きのびるための「交換」の道具だったのではない。あえていうなら、生きのびようとする欲望を捨て去るための道具だったのです。現在でも、本質的には人はそうやってお金を使っているのであり、それによってお金が世間に流通している。そして資本家はその本質につけ込んで貨幣を吸い上げてゆく。
 お金を稼ぐということは、人にお金を使わせるということであり、それはもう資本家が商品を売ることだって、労働者が給料をもらうことだって同じでしょう。たくさんお金を稼ぐことは不可避的に人を貧乏にしてしまうという性格をともなっている。マルクス主義社会のように資本家を貧乏にしてしまおうと、資本主義社会のように労働者や消費者を貧乏にしてしまうことだろうと同じでしょう。他人を貧乏にしてしまわなければお金はたくさん稼げない。そして因果なことに人は、お金を使ってしまおうとする衝動を持っている。それは、起源的本質的には、お金が汚らわしいものだったからではなく、とても貴重で大切なものだったからです。原始人はそうやって死者という他者に一方的な「贈り物=捧げ物」をしていった。
 貧富の差が拡大する、といって不満をいってもしょうがない。人間性の本質が生きのびようとすることにあると合意されているかぎり、それはもう避けられない現象なのでしょう。
 貨幣によって動いている文明社会は、不可避的に貧乏なものを生み出してしまう構造を持っている。なぜなら、生きられない貧乏なもののところにこそ人間性の本質・自然が宿っているからです。
 われわれはこんなにもお金が欲しいと切に願っているのに、それでも貧乏になってしまう。それは、人間として劣っているとか能力がないというようなことではなく、そうやってわれわれは人間性の本質や歴史の必然に裏切られてしまう。
 われわれは、心の底のどこかで、この社会の制度性として持たされる生きのびようとする欲望に抵抗している。つまり「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の心の位相で世界の輝きにときめいてしまっている。人間であるかぎり、この生は何かの間違いであるという認識とともに「もう(いつ)死んでもいい」という感慨がどこかしらに疼いている。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。そういう人間性の本質や歴史の必然に裏切られながらわれわれは、どんなにお金が欲しいと願っても貧乏になってしまう。われわれ自身の心が、生きのびようとする制度的な欲望に、どこかしらで抵抗している。
 現在の高度資本主義社会で貧富の差が拡大しているということは、資本主義が人が生きのびるための方法として間違っているということ以前に、生きのびようとすることそれ自体の不自然を証明している。
 生きのびようとすることが人間性の自然であるのなら、人類の歴史は700万年も続いてきたのだから、そのあいだに生きのびられないものはどんどん淘汰されてゆき、今ごろは生きのびられる人間ばかりの社会になっているはずです。しかしそのようにはなっていない。生きのびられないものを抱えているのが人間社会の自然なのでしょう。
 生きのびられないことの尊厳というものがある。そうやって人は死者を思う。
 人の心は、生きのびることのできない「この世のもっとも弱いもの」を前にして、人間性の本質や歴史の必然を思い知らされている。
 まあ今回の記事のテーマに沿っていうのなら、貨幣の起源および本質は生きのびるための「交換」の道具だったのではない、ということであり、人類史の文化は生きのびるための装置として生まれてきたのではない、ということです。
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