金が仇の世の中で

僕は天皇制は普遍的だと考えているからべつに左翼ではないつもりだが、安倍首相が立憲民主党の議員の質問の際に「共産党!」というヤジを飛ばしたように、今どきの右翼は「共産党」とか「左翼」という言葉を「蔑称」ように扱っていて、この醜悪な思い上がりはたまらなく不愉快だ。

安直なレッテル張りはたしかに思考停止だし、そもそもこの首相には、「共産党」いう言葉の意味や歴史について考えるインテリジェンスがまるでない。

それが蔑称になるのは右翼界隈の身内だけの話で、国民全体の合意ではない。もちろんその言葉は、長い東西冷戦下でさんざん敵視され、国民の中にもいくぶんかの拒否反応は残っているだろうが、少しずつ薄れてきてもいる。

ましてやそれを「蔑称」のように扱っておもしろがっているなんて、時代錯誤の俗物根性もいいところだ。

たとえ共産党を支持していなくても、その言葉そのものには何の偏見も先入観もない人はいるし、そういう人の心は率直で時代に汚されていないと思う。

そりゃあ共産党という政治団体に対しては僕だって「なんだかなあ」という思いもないわけではないが、だれもが平等で他愛なくときめき合い助け合っている社会としての「共産制」そのものは人類の永遠の理想であるにちがいない。その理想が気に入らない人だって、心の底ではそれが理想であることを認めている。そして支配者は、民衆がその理想に目覚めないように画策してくる。

まあ右翼以外の多くの国民は、共産党をいちばん支持するというわけではないとしても、まじめに政治に取り組んでいる人たちなのだろうな、というくらいのそこはかとない好感は抱きはじめている。先入観がない人たちはすでにそのように見ている状況になってきたのではないだろうか。

日本列島には無主・無縁で他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」の伝統があるということは、日本人は根源において「共産制」を拒否しているわけではない、ということを意味する。そういう「祭りの賑わい」から起源としての天皇が生まれてきたのだし。

 

現在のこの世界の資本主義社会ですでに「既得権益」を持っている人たちは資本主義が永遠普遍のものだと思いたいだろうし、今どきのこの国では、「日本人である」というそのちんけな「既得権益」にしがみついて「日本人に生まれてよかった」と大合唱しながら無際限にヘイトスピーチを繰り返している者たちもいる。このいじましさは、いったい何なのだろう。おまえらも日本人であるなら日本人であることがほとほと嫌になる、といいたくなるではないか。

資本主義のシステムが高度に発達したせいなのかどうかは知らないが、今どきは下層の庶民だって「既得権益」や「私有財産」を持っていないと不安になってしまう世の中なのだろうか。

資本主義を謳歌している者たちと、資本主義に追い詰められている者たちがいる。謳歌しているように見える者たちだって、その謳歌していること自体が追い詰められていることの裏返しだったりする。また、謳歌できるようになってももっと謳歌したくなり、「もっと、もっと」と際限がない。それは、追い詰められているのと同じではないのか。つまり、この社会のシステムがそのように動いていて、その歯車になってしまっている。

安富歩のように「いい加減こんなシステムは壊してしまおう」と訴える人もいるのだが、彼自身がだれよりも深くかんたんには壊せないことを知っている。

われわれはもう、絶望する以外になすすべがない。しかしみんなが絶望すれば、その先に「新しい時代」が見えてくる。明るく絶望する、ということ。

絶望しないで「このままでいい」と思っているからやっかいなのだ。そうやって社会はどんどん停滞してゆく。

「大人たちが腐っている」と誰かがいっていた。「きっとそうだ」と僕も思う。

団塊世代以上のジジババがこのまま逃げ切ろうとして居座っているから新しい時代がやってこない、とも言っていった。そうかもしれない。

逃げ切れそうもない下層の団塊世代前後のジジイたちが苛立ってネトウヨの主流になっている、とも聞いた。まあネトウヨなんて社会全体からしたらごく少数だが、全世代に広がっているのだろう。彼らはこの社会のシステムに踊らされ追い詰められている。そうしてこの社会のシステムの上にあぐらをかいて資本主義の「既得権益」と「私有財産」を謳歌している者たちの延命を助けている。

なぜ貧しい者どうしが分断し対立しなければならないのか。貧しい者どうしが他愛なくときめき合い助け合うのがこの国の伝統であるのに。また、そういう能天気なところがないと、人は魅力的ではない。

断っておくが、ここでいう「共産制」とはだれもが他愛なくときめき合い助け合っている原始的な社会のことで、僕は政治オンチだからそれ以上のややこしいことはよくわからない。

 

資本主義社会はこの先もずっと続くという人と、いやいやもうすぐ終わるという人がいる。これはきっと、「貨幣(お金)とは何か」ということに対する認識の違いにあるのだろう。お金に執着していれば、続いてほしいし続くと信じられる。それに対してお金なんかただの「交換」の道具だからもともと意味も価値もないのだと思っている人たちは、いずれ資本主義は滅びるしすでに滅び始めているという。まあ大雑把にいえば、前者は右翼で後者は左翼だということになるのだろうか.

で、どちらが正しいかといえば、残念ながら僕は前者のほうが正しいように思える。

貨幣(お金)にはもともと意味も価値もあるのだ。だからこんなややこしいお金の世の中になっているわけで、意味も価値もないのならとっくに人類史の舞台から消えてしまっている。

「おかねには意味も価値もない」といえば、気持ちいいだろう。しかしそんな認識は、ただの思考停止のナルシズムにすぎない。

貨幣(お金)の起源を原始時代のきらきら光る貝殻や石粒だとするなら、「交換」という関係のない原始時代から貨幣が存在していたことになる。文明社会になってそれを「交換」の道具にしたからといっても、もともと意味も価値もあるものだったからだろう。交換の道具だから意味や価値を持ったのではない、意味や価値があるから交換の道具になったのだ。そうしてそれが最終的にはただの紙切れの紙幣になったのは、それほどに貨幣(お金)の意味や価値に対する信憑が定着してきたからだろう。もちろんただの紙切れには意味も価値もない。しかし貨幣(お金)そのものには意味も価値もある。

人類は、貨幣(お金)に意味や価値を付与したのではない、意味や価値があるものが貨幣(お金)になっただけのこと。

今でも金や宝石にむやみな価値があるように、人類の歴史は、普遍的に「きらきら光るもの」を愛し続けてきた。それに意味や価値があるのは、それが深く豊かな「ときめき」の対象だからだ。人の心は、なぜ「ときめく」のか。意味や価値があるからときめくのではない、ときめく対象だから意味や価値がもたらされるのだ。

人の心は、根源において意味や価値という概念にときめいているのではない。人の心の「ときめき」は、人が生きてあるということの普遍的な実存の問題であり、左翼のインテリがどんなに「貨幣(お金)には意味も価値もない」と強調しても、おそらくこの世から貨幣(お金)が無くなることはない。それは、人の心から「ときめき」がなくなることはない、ということと同義なのだ。

 

お金は「汚い」ものか?

そんなことをいっても、もともと「この世のもっと美しく清らかなもの」の形見として原始時代から流通していたのだ。

文明社会の発生とともに「交換」の道具になることによって、その機能がだんだん汚れてきた。しかしそれは、お金そのものが汚れたというよりも、それを扱う人の心が汚れてきたということだろう。そのときお金が、権威・権力になった。それが、自分も他人をも支配する権威・権力になった。

原初のお金には、権威も権力もなかった。つまり、原初の人々はお金に支配されていなかった、ということだ。たとえば、死者の埋葬に際しては、集団のだれもが自分の持っているきらきら光るビーズの玉(=お金)を惜しげもなく差し出した。そういう考古学の証拠が、二万年前のロシアのスンギール遺跡にある。死者とはもはや支配不可能な存在であり、同時にそれを惜しげもなく差し出したということは、それがどんなに大切なものであっても自分を支配しているものではなかったことを意味する。

それは、「交換」不可能な、ひたすら純粋で一方的な「贈与」の形見だった。それはこの世のもっとも美しく清らかな対象であると同時に、それを差し出すことによって自分の心もすがすがしく洗われていった。貨幣(お金)とはもともとそういう「みそぎ」の機能を持ったものだった。

貨幣(お金)の本質は、けっして「汚い」ものではない。もとはといえば人が生きてあることの不安やいたたまれなさを洗い流してくれるものだったし、現在だってひとまずそういう意味と価値の形見として扱われ流通しているのだ。

たとえば、「貸した金には利子がつく」ということ、それは「けっして<等価交換>ではない」ということの「アリバイ」になっているのだ。だから借りたものがそれを返すとき、それがあくまで一方的な「贈与=捧げもの」の証拠として利子をつけて差し出している。

一方的な「贈与=捧げもの」をする本能を持っている人の心は、そうかんたんには「等価交換」をすることができない。そこに付け込んで莫大な資産をため込んだユダヤの金貸したちは大したものだというほかないが、とにかくそういうことなのだ。

100円の価値の商品を150円で売るのは、「等価交換」から逸脱している。しかし買うほうだって、それが150円以上の価値があると思うから買うのだし、もともと100円のものだということを知っているから150円差し出すことが「贈与=捧げもの」の行為であると自覚することができる。

貨幣(お金)は、その本質において、けっして「等価交換」の道具ではないし、けっして「汚い」ものでもない。現在でもなお、人はそれを一方的な「贈与=捧げもの」として扱っているのであり、そこにはそういう人類の歴史の無意識がはたらいている。

 

既得権益」や「私有財産」などなくても、みんなが他者にときめき「贈与=捧げもの」をする社会のことを「共産制」という。原始時代はまさしくそうだったし、それこそが人類の究極の理想であるにちがいない。その途中段階として、われわれは今「資本主義社会」に生きている。

たとえ資本主義社会であっても、原始共産制の社会おいてお金が「贈与=捧げもの」の形見であったというその本質は残されているのであり、まあどんな高名なインテリだろうと「貨幣は等価交換の道具である」とか、だから「お金には意味も価値もない」というような前提で語られると、そんなことあるものかと言いたくなってしまう。

原始時代の「貨幣=きらきら光るもの」は、心を清らかにしてくれるものであった。この生に対する執着を洗い流してくれるものであった。そうやって原始人は、惜しげもなくそれを埋葬される死者に捧げた。

死に対する親密な心を持てば、この生に対するむやみな執着を洗い流される。そうして、死に対する親密な心こそが、この生を活性化させる。その、われを忘れた「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」や「熱中」とともにこの生が活性化してゆく。

「死」は「異次元の世界」にある。「死に対する親密な心」とは、その「異次元の世界」に対する遠いあこがれのことだ。「異次元の世界」は、見上げる青い空の向こうにある。太陽は、その「異次元の世界」からやってきて、また「異次元の世界」に向かって去ってゆく。夜空の星や月だって同じ、「きらきら光るもの」は「異次元の世界」からやってきて「異次元の世界」に向かって去ってゆく。二本の足で立ち上がることによって青い空を見上げる習慣を持った原初の人類は、そういうことに気づいていった。

原初の人類にとってこの生は、とてもしんどくていたたまれないものだった。だから、「異次元の世界」にあこがれた。そして「異次元の世界」は「光」の世界なのだろうと思った。太陽や月や星だけでなく、この世界のすべての「きらきら光るもの」は「異次元の世界からの贈りもの」だと思った。そうやって彼らは、死者に対する親密さと「異次元の世界」に対する遠いあこがれの形見として、その埋葬に「ビーズの玉」という「貨幣=きらきら光るもの」を捧げた。そうして、そのかなしみの「涙=きらきら光るもの」とともにみずからの生のしんどさといたたまれなさを洗い流していった。

そのとき彼らが捧げたビーズの玉は、きらきら光る「涙」の形見でもあったのかもしれない。

 

今も昔も人類は普遍的に「捧げもの」をせずにいられない衝動を持っている。自分にとってもっとも大切なものだからこそ、それを差し出さずにいられない。そうやって自分=この生を忘れて世界や他者の輝きに「ときめいて」ゆく。そうやって「異次元の世界」に旅立ってゆく他者に対する「かなしみ」を深くしてゆく。

すなわち、資本主義社会の「既得権益」や「私有財産」だって、本質的には他者に捧げるためのものとして存在している。そうやってわれわれは税金を払うのだし、「捧げる」ためのものだからこそ「どんなに貯め込んでも許される」という皮肉なことにもなっている。

ともあれ現在の資本主義社会は、究極の未来の「共産制」にいたる途中段階であることはたしかだろうと思える。

たとえそれがどんな遠い未来であろうと、人間の社会はいつかきっと「共産制」になってゆくようにできているのではないだろうか。

貨幣は、その本質において「等価交換」の不可能性を負っている……それによって現在の資本主義の進化発展がもたらされたのだろうが、同時に富の偏在等のさまざまな社会的ひずみも生じているわけで、その進化発展それ自体が資本主義の限界でもあるのかもしれない。その「等価交換」という「たてまえ」がしだいに成り立たなくなってきているのではないだろうか。

資本家は、「等価交換」のふりをしながら、労働者を安くこき使う。その不条理を克服しようとして共産主義社会が生まれてきたのだけれど、「等価交換」にしてしまったら、人々の「贈与=捧げもの」の衝動が起きなくなり、人と人の関係も社会の動きも活性化してこない。そうやって社会が停滞し、資本主義社会との競争に負けてしまった。

資本主義社会では100円の商品を100円以上の価値があるかのように見せようとするわけで、それが資本主義社会のダイナミズムになっているし、共産主義社会はその努力をしなくなって負けてしまった。

共産主義社会の労働者は1000円の給料なら1000円分の仕事しかしないが、資本主義社会では1000円分以上の仕事をしなければ1000円の給料をもらうことができない。

人の世は「贈与=捧げもの」の衝動の上に成り立っている……資本主義社会の資本は、そこに付け込んで増殖してゆく。そして増殖しつつ、本質を失ってゆく。貨幣ほんらいの意味と価値が、どんどん空虚なものになってゆく。もともと美しく清らかだったものが、どんどん汚いものになってゆく。もともと「異次元的」であったものが、ひどく「現世的」なものになってしまった。

人は、「異次元の世界に対する遠いあこがれ」なしには、生きてあることも死んでゆくこともできない。もともと貨幣とは、「異次元の世界に対する遠いあこがれ」の形見だった。そういういわば「神聖」なものだったのだし、それを他者に「贈与=捧げる」ことによってみずからの生に対する執着を洗い流す「みそぎ」の体験をもたらすものだった。

人類が現在もなお人におごってやったりプレゼントをしたりする「贈与=捧げもの」の習慣を持っているということは、資本主義の「私有財産」や「既得権益」を否定していることであり、資本主義がいつか滅びるであろうことを暗示している。とはいえそのときが現在の共産党の出番だとも思わないが、それでも現在の世界のあちこちで「新しい共産制」を模索する動きは出てきている。

まあ政治のことはよくわからないのだけれど、人類の歴史の問題として「貨幣(お金)」の起源と本質について根底的に問い直してみてもいいのではないか、と僕は思っている。

 

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