貨幣の本質とMMT

安富歩氏の言説には、もうひとつ疑問がある。

彼は、れいわ新選組から立候補するときの記者会見の席で、「むかしの中国では、銅銭を造っても造ってもどんどん市場から消えてしまい、造らないとときには民衆の暴動が起きるほどだった」と語っていた。

この話を聞いて僕は、とても興味を抱かせられた。これは貨幣の起源と本質にかかわる問題だと思えた。

この銅銭がどこに消えていったかといえば、安富氏は、「庶民がタンス預金にしたりどこかに失くしてしまったりした」と語っておられたが、この説明はおそらく安富氏のたんなる憶測で、どう考えてもおかしい。「タンス預金」になるようなものなら、そうかんたんに失くしたりはしない。人は、そうかんたんにお金を失くしたりしないし、失くせばとても落胆する。

かんたんに失くしてしまうようなものを「もっと造れ」と騒ぐはずがないではないか。

安富氏がこのとき「庶民のタンス預金」といったのは、金持ちなら金貨や銀貨を蓄財すると考えたからだろう。日本列島の中世でも、貨幣に縁のない農民でさえいくばくかの銅銭をため込んでいたといわれている。しかしまあ、それくらいのことは世の中全体の量から見れば微々たるものにちがいない。

銅銭を溶かして銅鏡や銅剣や農具などをつくるといっても、銅の地金が銅銭より高いということなどありえない。だから銅銭で買えばいいだけのことだし、そんなことは大昔の日本列島をはじめとする銅の精錬技術のない周辺国でやっていただけで、この量もやっぱり微々たるもので、中国の庶民は銅銭で青銅器を買っていたにちがいなく、だったら銅銭が市場から消えるはずがない。

とにかく銅銭で何かを買うことができるかぎり、庶民のタンス預金が膨大になるはずがないし、かんたんに失くしてしまうはずもない。

安富氏はこのことを「貨幣がその本質において意味も価値もないことの証しである」といっておられるわけだが、それは、現代の庶民が貨幣の意味や価値を信じながら安い給料でこき使われていることをばかにしたセリフだ。人間は、貨幣がただの「紙切れ」や「数字」であってもまだその意味と価値を信じているのであり、それを何かと問うのが経済学者の仕事ではないのか。

貨幣はその本質において意味や価値持っている。だからこそ現在の経済状況がややこしいものになっているわけで、意味も価値もないのならとっくに歴史によって淘汰されている。

 

 

貨幣が持っている本質的な意味や価値とは何だろう。それが昔の中国の流通市場から消えていったということは、もともと何かを買うという「交換」のためのものではなかったことを意味する。「交換」の道具として手は大した意味も価値もなかったのだろうが、きっとほかに使い蜜があったわけで、そこにこそ貨幣の起源と本質の真実が隠されている。

そのとき中国の民衆社会から大量の銅銭が消えていったということは、彼らは銅銭を「何かを買う(=交換)」ためのものとして扱っていなかったということを意味する。

世界中どこでも昔の民衆は、ほとんどは自給自足と相互扶助で暮らしていたにちがいなく、極端にいえば貨幣経済なんてあってもなくてもよかった。それでも貨幣=銅銭をわざわざ貯め込み、しかもわざわざ貯め込んだそれらをどこかに消してしまっていたのだ。

彼らにとっての貨幣は、第一義的には商品を買うためのものではなかった。

この国の中世の貧しい農民がわずかばかりの貨幣を小さな壺に入れて貯め込んでいたのも、それで何かを買おうというようなことではなく、たとえば地元のお寺に寄進したり、旅芸人の芸に投げ銭をしたりするためのもので、それで何かを買うということはほとんどなかった。だからまあ、お金などなくてもなんとか生きていられる社会になっていたわけで、そういう役立たずの人間を村のみんなで生きさせていた。

つまり、世界中どこでも昔の民衆にとっての「貨幣」は、「交換」の道具ではなく「贈与=ギフト」の形見だったということで、その「贈与=ギフト」の衝動によって村という集団が成り立っていた、ということだ。

 

 

では、その「贈与=ギフト」の衝動はどこにいちばん強く切実に向けられていたかといえば、「死者」に対してである。

「死者」の「贈与=ギフト」を捧げるのは、原始時代から続いてきた人類普遍の伝統である。葬式をしない民族などないし、そのときには必ず何かを供える。

5万年前のネアンデルタール人だって、死者の埋葬に際して花を捧げていたという考古学の証拠もある。そしてロシアのスンギールで発見された2万年前の遺跡では、死者の棺におびただしい数のビーズの玉が添えられていた。そしてそれは、被葬者が所有していたものではなく、集落中のみんながかなしみの形見として持ち寄り捧げたものだった。原始時代には文明社会のような身分制度などなく、そして死者を弔う気持ちは現在まで続く人類普遍の感情である。

まあそのころのビーズの玉はきらきら光る宝石であり、人類はもともときらきら光るものが大好きだった。だからその数万年前からきらきら光る貝殻や石粒で首飾りなどを作っており、それが貨幣の起源であるともいわれている。古代メソポタミア都市国家においても、精錬された銀や陶器のかけらなどが貨幣として使われていた。

銅銭だって「きらきら光るもの」だったから貨幣になったのだし、真新しい十円玉を見ればそれがよくわかる。

今でも金メダル銀メダル銅メダルというのがあるわけで、それは、勝者に捧げられる「贈与=ギフト」の形見である。すなわち、原始時代から現代まで、人類はつねに「貨幣=きらきら光るもの」を「贈与=ギフト」の形見として意識してきた。それで何か物が買えるという「交換」の機能は二義的なことで、第一義的には何ものにも代えられない「意味と価値」を持った「贈与=ギフト」の形見として意識されているのだ。だからこそそれは、ただの紙切れや数字にも代替できるし、貧しい庶民は安い給料欲しさにこき使われねばならない。

現在もなお貨幣は、第一義的本質的には「贈与=ギフト」の形見として流通している。MMT理論だって、せんじ詰めれば、まあそういうことだ。僕は経済学者ではないから細かいことの説明はできないが、旧来の経済理論が「天動説」だとすればMMTは「地動説」のようないわばコペルニクス的転回の理論である、などといわれている。だから僕も、旧来の経済学者はみな貨幣の本質的な機能は「交換」の道具にあるというが、じつは、本質的には「贈与=ギフト」の形見としてこの社会に存在している、といわばひとつの地動説として提唱したい。

彼らは、お金なんてただの紙切れや数字で本質的には何の意味も価値もないというが、そうじゃない。ただの紙切れや数字でもかまわないくらいに、意味も価値もあると信じられているのだし、じっさいそのようなものとして発生し、そのようなものとして歴史を歩んできたのだ。

 

 

というわけで、昔の中国の銅銭がなぜ市場から消えてしまったかといえば、それが貨幣の本質としての「贈与(=ギフト)」の形見として使われたからであり、消えてしまったのはその相手が「死者」だったからだ。つまり、スンギールの遺跡のように、死者への捧げものとして埋葬の棺に納める習俗になっていたからではないだろうか。

中国や台湾は、今でもレプリカの紙幣を棺に納める習俗がある。貨幣経済が発達して庶民でも貨幣が必要な暮らしになっていったために、いつの間にかレプリカの紙幣でそれを代替するようになったのだろう。

中国の銅銭の外側の円形は「天」をあらわし、真ん中の四角い穴は「地」をあらわすといわれている。つまり銅銭は、現世と来世をつなぐものでもあったのだ。

「月」という漢字は、銅銭を束ねた形をあらわしているらしい。古代の中国において月は「天」の象徴であり、呪術の対象でもあった。そのような月の超越性は、そのまま貨幣の超越性でもあった。彼らは、貨幣が持つ超越性と呪術性を信じて、死者の埋葬に際しては惜しげもなく銅銭の束を供えたのではないだろうか。そうやって市場から銅銭が消えていったのではないだろうか。これは、ネアンデルタール人が死者の埋葬に際して野の花を供えて以来の、人類普遍の伝統ではないだろうか。

まあこれはあくまでたんなる仮説ではあるが、ともあれ人類にとっての貨幣は因果なことに好むと好まざるとにかかわらず特別な「意味と価値」を持っているのであり、そこのところを「貨幣には意味も価値もない」と説いておられる安富氏は見落としているのではないかと思える。意味も価値もないから市場から消えていったというのでは、研究者として思考が安直すぎる。意味も価値もあるから消えていったのだ。

山本太郎が「国債を発行してでも困窮している民衆の暮らしを底上げしなければならない」と訴えるのは、彼の中の「他者に対する他愛ないときめき」であり「他者に手を差しのべたいという衝動」であり、それはそのまま人類普遍の「贈与=ギフトの衝動」でもある。そしてそういうことは子を産み育てる存在である女たちにはとてもよくわかるらしく、先日の神奈川県海老名の街宣では、幼い子を連れたお母さんがたくさん聞きに来ていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。