ねこのいるまち

カルロス・ゴーンの記者会見は、猛々しく自己正当化の主張をまくしたてるばかりで、世の中にはこんなけったいな人間もいるのかとうんざりするばかりだった。なんだか異星人を眺めているような気分だった。これでゴーンを見直した、という感想を持った人がいるだろうか。

彼はヨーロッパ人だが、ルーツは中東レバノンにあるらしい。ヨーロッパや中東には、こんな人柄や態度が通用するような風土があるのだろうか。あの猛々しい自己主張は、砂漠では自分の命は自分で守らねばならない、という歴史が土台になっているのだろうか。よいか悪いかなんか、わからない。ただ、その人柄や態度は、人間性の自然・本質に照らせばどうなのだろう、という疑問は残る。あれを、人間として正直で本質的だ、という人がいるのだろうか。

中東は、世界で最初に文明国家が出現した地域である。そしてそれは、もともと世界でもっとも肥沃であったはずの土地が爆発的な人口増加とともにどんどん砂漠化してゆき、それとともに人と人の関係や集団と集団の関係が変質していった時期でもあった。そんな中で、いち早く「国家」を打ち立てた地域が覇権を握っていった。これがエジプト・メソポタミア文明で、ゴーンの体の中には、そういう「闘争」の歴史の血が流れているのだろうか、と思った。

あれはあれで、ゴーンの「ジハード」だったのだろうか。

 

人類最初の文明国家は、「都市国家」だった。都市がそのまま国家になった。都市は国家ではないが、国家になることができる。つまり、「原始共産制」の上に成り立った原始的な都市が、「王」による支配制度を持った「文明国家」へと変質していった、ということだ。それはまあ進化といえば進化なのだろうが、人間性の自然・本質が歪んで変質してゆく歴史でもあった。

われわれが人間性の自然・本質を問おうとするなら、最初の文明都市国家ではなく、それ以前の原始的な都市について知る必要がある。人間性の歴史はそこでいったん頂点に達したのであり、文明都市国家はそれを変質させてしまったのだ、

原始共産制の原始的な都市においては、無主・無縁の関係のままに他愛なくときめき合い助け合って集団をいとなんでいたのであり、そこには家族も親族もなく、文明都市国家のような支配=被支配の関係はなかった。

集団の中の順位制や支配=被支配の関係はボスが君臨する猿社会のものであり、王が君臨する文明都市国家もまたそのような構造になっている。であればそれは、「進化」というよりもひとつの「先祖返り=退化」だともいえる。

都市の本質とは何か?

都市の本質が変質して都市国家になった。無主・無縁の混沌とした関係の原始的な都市と、支配=被支配の秩序の上に成り立っている国家の本質は逆立している。そして人類最初の文明都市国家の発生に際して究極の支配者として「神=ゴッド」が見出され、王はその支配の代理人として登場してきた。

おそらくその「神」という概念が見いだされていった契機は、中東地域の砂漠化にともなう人と人や集団と集団の「闘争関係」であり、文明人は今なお人間性の自然・本質は「闘争関係」にあると考えていたりする。そして、原始社会は文明社会よりももっとあからさまな「闘争関係」にあったとする説もある。もちろん文明国家は「闘争関係」を終息させる集団として生まれてきたが、「闘争関係」を終息させるもっとも有効な方法は闘争に勝利することなのだ。「闘争関係」は文明国家の発生の契機になったが、原始社会にそんな関係はなかった。つまり、「闘争関係」こそ文明国家を生み出すエネルギーだったのだ。

人類の歴史は、「闘争関係」が生まれなければ原始的な都市のままでいられたものを、いまだにどのようにしてその関係を克服しようかと四苦八苦している。ともあれ克服しようとしているということは、それが人間の本性ではないということをじつは誰も心の底で知っているからだろう。

 

近ごろ安富歩氏が「まちはだれのもの」というテーマのトークイベントをやっておられた。

「まち」=「都市」。

「まち」の起源と本質は何か?

人類の集団の原型は何か……吉本隆明は「家族」にあるといい、そこから1960年代に発表した『共同幻想論』では人と人の関係意識の原型は家族のあいだの「対幻想=親密さ」にあると唱えていた。そしてこの家族主義の思想は多くの読者の賛同を呼び、一世を風靡した。まあ一見もっともらしい話だが、じつはどうしようもなく陳腐で短絡的な思考である。ちょっと考えたら、すぐわかる。彼は、人類の集団の歴史は初めに「家族」があり、それが大きくなって「親族」になり、「親族」が集まって「まち=都市」になり、最後に「国家」ができた……と説明しているのだが、こんなことはあり得ないのだ。

原始時代に「家族」などという単位があっただろうか。あったはずがない。

原始時代は乱婚の「母系社会」で、女たちはみな、父親がだれであるかわからない子供を産んでいた。「母子関係」はあっても、父親のいる「家族」などというものはなかった。また「母子関係」といっても授乳期だけのことで、ひとりで立って歩けるようになれば集団の子供たちに遊んでもらっていた。

とくにネアンデルタール人の女たちは次々にたくさんの子を産み続けていたから、いつまでも子供の面倒を見ている余裕がなかった。そしてまた、地球上で最も厳しい環境に置かれていたのだから、自分ひとりの手で育て上げるということ自体が不可能だったし、じっさい乳幼児の死亡率がとても高かった。つまりそこでは何人ものわが子が死んでゆくのであり、現代の核家族の母親のように子供を自分の手の中に囲い込んで執着してゆくというような生き方をしていたら、おそらく発狂してしまうだろう。彼女らは、その発狂しそうな「喪失感=かなしみ」と向き合いながら、次々に子供を産み続けた。おそらく彼女らは、現代のこの国の母親ほどには「親」という意識はなく、子供とは自分の体を通過していった自分とは別の生命体、というくらいの認識だったのだろう。つまり自分の産んだ子供であっても「無主・無縁」の対象だったわけで、そう考えるのが原始人の世界観・生命観だったのではないだろうか。

まあ世界中どこでも原始社会における子供の父親は「集団」であり、「集団」で子供を育てていた。とくに乳幼児は、集団のみんなで面倒を見ないと生きさせることができないほどに、すぐ死んでしまう存在だった。

私有財産」のない「原始共産制」は、「家族」とか「親族」という単位のない「無主・無縁」の関係の上に成り立っていた。

人類の集団の歴史は、最初に「まち」があったに決まっているではないか。そこから父親のいる「家族」という単位に細分化されていったのは、ずっと後の時代のことだ。

 

人類はもともとチンパンジーのような猿であったわけで、その中の一集団が二本の足で立ち上がっていった。

人間の先祖とチンパンジーの先祖は違うという説もあって、人間になるべき種類の猿はみな二本の足で立ち上がっていったというが、そうではない。つまり、二本の足で立ち上がるようになるべき特別な遺伝子を持っていた、といいたいらしいのだが、それは「遺伝子」によってではなく、立ち上がるほかないような特殊な「環境」と「集団のかたち」があって起きてきたことだったのだ。

では、どのように特殊だったのか?

ボスが性交の権利を独占している猿の集団は全員が兄弟姉妹のような関係で、ひとまずそれは親族集団だといえる。だからまあ、結束力も強いし、順位関係もはっきりしている。まただからこそ、そうした関係があいまいになってしまうようなむやみに大きな集団にもならない。

それを自覚するにせよしないにせよ、「親族」などという関係は、「家族」を持たない猿の時代から存在していたのだ。

それに対して二本の足で立ち上がっていった人類の祖先の一集団は、いろんな群れからはぐれてきてサバンナの中の小さな森に逃げ込んだというか迷い込んだ者たちの、いわば「無主・無縁」の集団だった。つまり気候が乾燥化してサバンナがジャングルを侵食していった結果、そういう現象が起きてきたのだ。

人類史の最初の集団は、通常の猿のような「親族」ではなく、どこからともなくバラバラに集まってきた「無主・無縁」の集団だった。したがってそこには、ボスもいなければ、順位争いもなかった。

そこでもボス争いは起きるだろう、という意見もあるが、もともとボスという既得権益のない集団なのだから、どんなに強くてもボスになりようがなかったのだ。

オオカミは、集団としては人間に対して敵意や警戒心を持っているが、はぐれオオカミが人間と出会えば、逆になついてきたりする。そのようにしてひとりひとりが孤立している無主・無縁の集団においては、争いではなく、ときめき合う関係になる。

四本足の猿が二本の足で立ち上がれば、俊敏さを失い、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうのだから、戦うことができなくなる。したがって、ときめき合っている関係の集団でなければそのことは起きないし、よりときめき合う関係になるかたちで立ち上がっていったともいえる。

原初の人類の集団は、ほかの猿とは違って支配=被支配のない関係だったから、みんなで二本の足で立ち上がるということが起きた。その集団は、それぞれがどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の関係の上に成り立っていた。

 

「無主・無縁」の関係だからこそ、豊かにときめき合うことができる。それが、どこからともなく人が集まってきてできた「まち=都市」のダイナミズムの源泉である。弥生時代奈良盆地は、まさしくそのようにして列島中から人が集まり人口が密集していった「まち=都市」だった。そうしてそんな「無主・無縁」の「祭りの賑わい」から起源としての天皇が選ばれ祀り上げられていった。

人の集団が「地縁・血縁」で固まっていれば、その中で「順位」すなわち「支配=被支配」の関係が生まれ、集団的にも個人どうしにおいても「闘争」や「競争」や「排除」の衝動が強くなってくる。そうやって集団からはぐれてゆくものが生まれてくるのだし、いつの時代も少年少女は家族という血縁関係の外に出ることによって「恋」や「ときめき」を体験する。

人類の歴史は「無主・無縁」の集団としてはじまっている。そこにこそ人間性の自然・本質があるわけで、「地縁・血縁」の集団だって「無主・無縁」の関係を併せ持っていなければ成り立たない。だから、どこの村にも村はずれの「鎮守の杜の祭り」がある。

「無主・無縁」の関係の中でときめき合ってゆくのは人間の本能的な生態であり、そうやって「まち」という「祭りの賑わい」が生まれてくる。「鎮守の杜」だって、ひとつの「まち」なのだ。村だって、もともとは人々がどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の集団としてはじまっているのであり、やがて「地縁・血縁」の息苦しい集団になってきたときに、最初の他愛なくときめき合い助け合う関係を取り戻す機会として「鎮守の杜の祭り」が生まれてきた。

集団からはぐれてどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の者たちが新しい「集団=まち」をつくってゆく……このことの無限の繰り返しによって、人類が地球の隅々まで拡散してゆくということが起きた。

はじめに「まち」があった……ということ。「家族」があったのではない。原初の人類は、その「血縁関係」の息苦しさから解き放たれて猿から「人間」になったのだ。したがって、吉本隆明は間違っている。彼のいう「対幻想(=他者との純粋なときめき合い助け合う関係)」は、家族の中ではなく「外」にある。つまりそれは、家族の外の無主・無縁の集まりである「まち」からはじまっているのだ。

そうして「まち」が固定化され大きくなってくれば、「地縁・血縁」の「親族利益集団」があちこちに生まれてきて、やがてそれらの競争・闘争関係を収拾する「国家」という支配権力が生まれてくる。そしてその支配制度を隅々まで行き渡らせるために、片隅の母子関係に「父親」を挿入し「家族」という単位になっていった。つまり「家族」は、人類史においていちばん最後に生まれてきた集団なのだ。

だから、吉本隆明の家族礼賛の思想なんてまったく正しくないし、きわめて胡散臭い。

それに対してれいわ新選組の安富歩は、「現在の<まち>の景観や構造は金のためや車のためのものになってしまっているが、それを人も含めた<生きもの>のためのものとして取り戻さねばならない」といい、その根本原理として「子供を守る」ということを主張しているわけだが、われわれはそれを「家族」の問題として受け取るべきではない。どんな善人の家族だろうと、本質的に「暴力装置」としての側面を必ず持っている。

それはあくまで「まち」の問題であらねばならない。人類の歴史は、「無主・無縁」の人々の集まりである「まち」としてはじまり、集団性の生きものとして永遠にその問題とかかわってゆかねばならない。

 

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