沈黙交易と、等価交換という幻想と、現代貨幣理論

原始時代のきらきら光る貝殻や石粒の貨幣は、「交換の道具」ではなく、「贈与=捧げもの」の形見だった。

それは、衣食住のものよりももっと大切なものだった。というか、大切さの質が決定的に違っていた。前者は異次元的超越的な存在で、後者は現世的地上的な存在だった。だから「交換」の道具にはならなかったが、だからこそ「贈与=捧げもの」の形見としてはとても有効だった。だれも、ダイヤモンドとリンゴを交換しないだろう。それは、価値の大きさだけの問題ではない。価値の質が違うのだ。原始人にとっての貨幣は、あくまで天上的で異次元的で超越的な存在だった。

そもそも「交換」という行為自体が、一般的に考えられているほどかんたんなことではない。猿は、けっしてそんなことはしない。原始人だって自給自足が基本の暮らしをしていたから、「交換」というような発想は生まれてこない。自給自足が基本だからこそ、持たない者には無償で分け与えていた。みんなぎりぎりのところで生きていたのだから、「交換」をする余裕なんかなかった。親から食料を与えられる子供には、「交換」できる品物など何も持っていない。

大震災ときの現場に「交換」という行為などなかった。みんなが生きられるように工夫していただけだ。生きられないものを生きさせようとするのは生きものの本能であり、人間はとくにそういうことをする。原始時代なんて毎日が災害現場の体育館のようなレベルの暮らしだったのだし、それでも生き残ってきたのは、生きられない弱いものをけんめいに生かそうとしてきたからだ。

生きられない弱い者は、「死」のそばに立っている。「死」のそばに立っている者ほど尊い存在はない。人は、「死」のそばに立っている者を祀り上げようとする。そうやって介護や看護や子育てをする。生きられない弱いものはこの世界の「生贄」であり、神にもっとも近い存在なのだ。もちろん原始時代に「神」などという概念はなかったが、なんとなくの「崇高」とか「聖性」とか「超越性」というような気配は感じていたはずだ。おそらく人類は、原初の二本の足で立ち上がったときから超越的異次元的な世界に対する視線に目覚めていた。そういう「メタ思考」こそ人が人であることの証しであり、その「超越的異次元的な世界」に対する遠いあこがれとともに「きらきら光るもの」にときめき、貨幣を生み出していった。

貨幣は、交換できないものを交換させてしまうというひとつの「飛躍」をもたらす道具であり、そういう「異次元性=超越性」を持っている。

人類の歴史には、たくさんの「飛躍」がある。それは一瞬で起きることもあれば、長い長い歴史の時間を要することもあれば、「今ここ」が永遠に続く「飛躍の過程」だということもある。まあ、現れ出たものが消えてゆくということがひとつの「飛躍」であり、われわれは生まれ出て死んでゆくという「飛躍の過程」を生きている。

人類の歴史だって、最終的には「滅亡」する。それがいつになるかわからないが、とにかくわれわれは「滅亡の過程」を生きているのだし、「もう死んでもいい」という勢いの「滅亡=飛躍の過程」を生きることがこの生やこの社会やこの世界の活性化になっている。

 

現在のこの世界は、貨幣と商品というもともと交換できるはずのない二つのものを交換させながら動いており、貨幣の「超越性=異次元性」がそれを成り立たせている。

とすれば、起源について考えようとするわれわれにとってここで問題になるのは、貨幣による交換と「物々交換」とではどちらが先にはじまったのかということである。

原始人は「交換」などしなかった。それでも貝殻や石粒などの「きらきら光るもの」である起源としての貨幣は存在した。そしてそれは一方的な「贈与=捧げもの」の形見として機能していたし、衣食住のものだって、持たない者すなわち生きられない弱い者に贈与し捧げていた。

「捧げもの」をすることはいわば人類の本能であり、そうかんたんには「交換」という関係は起きてこない。一方的な「捧げもの」をするのが嫌だから「交換」ということをするのだろう。したがってその関係は、人類が余剰のものを持って搾取とか収奪というようなことをするようになってから生まれてきた。つまり「物々交換」は、原始時代にはなく、文明国家において生まれてきた習俗なのだ。搾取や収奪はしないという約束として、そういう関係が生まれてきた。

最初は「捧げもの」ばかりの社会だったから、そこに付け込んで搾取・収奪の関係が生まれてきた。その後に、その関係を消去しようとして「交換」が生まれてきた。人間性の基礎は「捧げもの」にあるから、消去しようとする。搾取・収奪の関係を知らなければ、それを消去しようとする「交換」などという関係は生まれてこない。

搾取・収奪の関係を知らない者たちが「交換」をしようとすると、「捧げ合う」という関係になる。

はじめに「捧げもの」としての「貨幣」があった。「捧げもの」をするのが本能である人類はそうかんたんに「物々交換」などできない歴史を歩んできたのであり、文明国家における物々交換は、おそらく両方をいったん貨幣価値に換算してなされていたのだろう。そしてこの習俗=観念が貨幣を持たない地域に伝播してゆく過程において、物々交換ともいえないような物々交換としての「沈黙交易」が生まれてきた。

それは、たとえば海の民が山の村に行っていくぶんかの魚を黙って村の入り口に置いて帰ってゆく。そして次の日そこに行くと、魚が消えて代わりにいくぶんかの木の実が置いてあり、海の民はそれを黙って持ち帰ってゆく。

これは、「交換」といえるだろうか。少なくとも、魚と木の実が「等価」であるという確認合意はまったくしていない。どちらも一方的な「贈与=捧げもの」をしただけではないのか。

貨幣が存在しない社会には、「等価」ということを認識する観念のはたらきがない。したがって、「交換」することができない。だから、そういうまだるっこしいことをして「交換」する。

文明国家の人間が文明社会の製品を手土産に未開の地にやってきて、未開人の「捧げもの」をもらって帰ってゆく。未開人からしたらそれは、おたがいに「捧げもの」を差し出し合っただけの体験であるが、「自給自足」の外に一歩踏み出す体験でもあった。そのとき彼らは、「等価交換」を知らないまま「交易=交換」ということを知った。

交換という手続きのない交換……たがいに一方的に「捧げもの」を差し出し合う……それが「沈黙交易」だ。このことは、原始人は「捧げ合う」ということはしても「交換」はしなかった、ということを意味している。

貨幣を知らない未開人の地域では、現在でも「沈黙交易」がなされていたりするらしい。それは、物々交換のように見えるが、厳密には物々交換ではない。人類にとって、物々交換はけっしてかんたんな行為ではないし、原始時代は「捧げ合う」関係が豊かに機能していたから、物々交換は存在しなかった。そういう意味で「沈黙交易」をする未開人は、原始人であると同時に文明人でもある。「贈与=捧げもの」によって動いている原始社会に「交換」という文明が持ち込まれることによって、そういう変則的な経済形態が生まれてきた。

 

日本列島でも、明治のころまでは、村と村の境界である「峠」の茶店や神社などを介して「沈黙交易」がなされていたらしい。それは「交換」ができない者たちによる「交換」であり、彼らには「貨幣」を「交換の道具」として使いたくないという無意識があった。彼らにとって貨幣は、あくまで「捧げもの=浄財」として使うものであった。

「捧げもの」は人類の本能というか歴史の無意識であり、現在の貨幣だってそこを基礎=本質にして流通している。

「捧げもの」をすることは「消えてゆく」ことであり、そういう「喪失感」を抱きすくめてゆくことによって「快楽」が汲み上げられる。「消えてゆく」ことは「滅んでゆく」こと、人類の歴史は「人類滅亡」に向かう「飛躍」の過程として動いている。

「消えてゆく」ことはひとつの「飛躍」であり、そのようにして貨幣の「超越性=異次元性」が成り立っている。

貨幣は、もっとも「大切なもの」であるがゆえに、もっとも鮮やかに「消えてゆくもの」でもある。「消えてゆく」とは「終わる」こと、終わらなければはじまらない。はじまるということが、世界が続いてゆくということであり、人生が続いてゆくということだ。

朝目覚めるということは、この生がはじまるということであり、そうやって人は「おはよう」という。続くとは、はじまり続けることだ。命のはたらきはそのように続いているのであって、飴の棒のように切れ目なく伸びていっているのではない。言い換えれば、生きるとは終わり続けることであり滅び続けることだ。

「捧げる」ことは「消えてゆく=滅びる」こと。沈黙交易は、文明社会の制度としての「等価交換」になじめない者たちによって続けられてきた。貨幣やこの生のはたらきの本質が「捧げる=消えてゆく=滅びる」ことにあるかぎり、おそらくこの先もずっと続いてゆくにちがいない。

ギャンブルは、勝てば突然お金が膨れ上がって、負ければすっからかんになる。人間の社会は、どうしてこんなことを続けているのだろう。沈黙交易だって、ひとつのギャンブルである。そこに魚を置いておけば、魚が消えて突然木の実が現れ出る。彼らは「等価交換」を知らないが、貨幣の本質はよく知っている。彼らは、現代の文明人よりももっとラディカルに貨幣の本質に殉じている。沈黙交易は、もっとも原始的な交換であると同時に、もっとも未来的な交換でもある。

給料が銀行に振り込まれ、キャッシュカードでそれを引き出す。これだってまあ、沈黙交易のようなものかもしれない。「沈黙」もまた、貨幣の属性のひとつかもしれない。沈黙の上に関係を成り立たせるという「超越性」……権力者の支配は民衆の沈黙によって強化されてゆくし、恋人どうしは抱き合う前に一瞬の沈黙が流れる。沈黙には、「飛躍」を生む超越的な力がある。人は「もう死んでもいい」という勢いで飛躍し成長してゆく存在で、それは「沈黙」と「かなしみ」から生まれてくる。

向き合い言葉を交わして交換をすれば、駆け引きが生まれる。等価交換をするということは、「飛躍」がない、ということだ。それに対して沈黙交易は、けっして後ろ向きの停滞した習俗ではない。魚を受け取った山の民は、魚の価値に見合う木の実を返したのではない。彼らは、等価交換など知らない。というか、交換することそれ自体を知らない。ときには、村にありったけの木の実を差し出した。そこには「もう死んでもいい」という勢いで「飛躍」してゆく関係のダイナミズムがはたらいている。

 

貨幣が「交換の道具」として流通するようになった契機は、おそらく「文明国家」の発祥にある。

人がたくさん集まってきて、都市になる。その都市が「国家」になっていった。

人は、集落をつくる。人恋しさで一か所に集まってくる。べつに衣食住の便利のために集まってくるのではない。その便利はあくまで「結果」のことであり、「原因」は「人恋しさ」なのだ。

9000年前のメソポタミアには、8000人の大集落があった。これが人類最初の都市であるのかもしれない。そこは全体が平屋建ての巨大な集合住宅になっていて、みんなは屋上から出入りをしていた。つまり家は私有財産ではなかったということで、おそらく原始共産制の社会だった。したがってこれは「都市」ではあったが、支配者のいる「国家」ではなかった。

自分ひとり生きてゆくためなら、それほどあくせく働く必要はない。しかしそこには女も子供も老人も病人も障害者もたくさんいるのだから、働ける者はたくさん働かなければならない。それでも、そこで暮らしたかった。なぜならそこには、生きてあることの深いカタルシス=快楽があったからだ。それを求める「人恋しさ」で集まってきたのだ。衣食住のために集まってきたのではないし、衣食住のために働いたのではない。生きられない弱いもののために働いたのだし、その「捧げもの」の行為に深いカタルシス=快楽があった。

そこには人と人が他愛なくときめき合い助け合って生きることのカタルシス=快楽があったし、貨幣はもともとそのカタルシス=快楽の形見として生まれてきたのだ。

貨幣は生きるための衣食住のものよりも価値があるからこそ「交換の道具」になっていった。そのカタルシス=快楽は、「もう死んでもいい」という勢いとともに生まれてくる。すなわち彼らは「もう死んでもいい」という勢いで都市に集まってきたのであり、人類が地球の隅々まで拡散していったのもつまりはそういうことであって、けっして衣食住のためであったのではない。

この命には、意味も価値もない。貨幣にこそ、意味も価値もある。かつて貨幣は、すべて「捧げもの=浄財」であった。

人は生きるために生きているのではない。世界や他者が輝いているから、「結果」として生きているだけだ。貨幣は、その「輝き」の形見なのだ。

 

原始社会に、余剰の食糧などなかった。みんなかつかつで生きていた。だから、みんなで分け合っていた。それが原始共産制であり、やがて人がたくさん集まってきて都市という大集落が形成されると、分け合ってもまだ足りない事態が起きてきたために農業が発達し、余剰の食糧が生産できるようになっていった。

その余剰の食糧を吸い上げる装置として文明国家が生まれてきた。そうして、弱いものに対する「捧げもの」の分まで吸い上げていった。そしてその吸い上げるために有効な道具だったのが因果なことに「貨幣」だったのであり、貨幣と物を交換するという習俗は、文明国家とともにはじまった。

農業が発達して余剰の食糧が生産されるようになったとき、その余剰の食糧は、貨幣と交換されていった。

6~7千年前ころのメソポタミアは、チグリス・ユーフラテス川の北側は砂漠化が進み、南側は肥沃な穀倉地帯だった。しかし大きな都市集落は、北側に多く点在していた。なぜならそこには銀の鉱山があり、銀の精錬技術が発達していたからだ。それを求めて、あちこちから人が集まってきた。すなわち銀の「貨幣」によって、人も物もどんどんそこに集められていった。

メソポタミアの都市のほとんどは砂漠につくられている。それは、人が衣食住のために都市に集まってくるわけではないことを意味している。

川の南側の穀倉地帯の民は衣食住のさまざまなものを持って北側の都市国家に行き、それをきらきら光る銀に代えて持ち帰ったり、あるいは都市の賑わいの中の娼婦や音楽やギャンブル等のさまざまな娯楽に溺れて銀=貨幣を使い果たし、すっからかんになって帰って行ったり、そこに住み着いて自分も銀で商売をしようと志したりする。都市の経済的な仕組みはまあ、現在と大して変わりはない。良くも悪くも人間にとっての貨幣は、衣食住のものより価値があるのだ。

人は、生きるために生きるのではない。

都市は、人と人が出会ってときめき合う場所だ。それがあれば人は生きられるし、それがなければ生きられない。衣食住は必要だが、衣食住が最終的な目的になるわけではない。人によっては貨幣が最終的な目的になりうるのは、それが衣食住と交換できる道具だからではなく、貨幣であることそれ自体がこの生のよりどころになりえているからだ。

貨幣の本質は「捧げるもの」であることにあり、資本家は、「投資」という名の「捧げもの」によって「利潤」を吸い上げることの免罪符にしている。そういうややこしい貨幣経済のシステムは、メソポタミア都市国家の発生のときからすでにはじまっている。そのときから貨幣は、純粋な「捧げもの」であることに加えて「搾取・収奪」という機能も持つようになった。

 

ともあれ貨幣について考えることは、「都市=まち」について考えることでもある。

文明国家の出現によって、「都市=まち」も「貨幣」も変質していった。「支配=被支配」の関係性や「私有財産」という観念が生まれてきたからだろう。

「都市=まち」が変質したから、「貨幣」も変質していったのだろうか。それは、人と人の関係が変わっていった、ということだ。助け合わないと集団が維持できないのなら助け合うだろうが、助け合ってがんばった結果として余剰の生産物が生まれてくれば、それに対する奪い合いも起きてくるし、助けようとするモチベーションも落ちてくる。また、外部からそれを奪いに来る集団もやってくる。そうして人々のあいだに不安が広がってくれば、それに乗じて軍隊を組織したり呪術を生み出したりして、みんなを支配し搾取・収奪するものが現れてくる。

みんなが他愛なくときめき合い助け合っている社会であるのなら、たとえ貧しくても不安は生まれてこないし、死の恐怖も和らげられる。人と人の関係が不安定だから不安になるし、死の恐怖も肥大化する。

「搾取・収奪」する関係も「交換」する関係も根は同じで、人と人の関係に対する不安や死に対する恐怖があるからだ。

「等価交換」という観念の上に成り立った物々交換や貨幣経済は、文明国家における不安と恐怖から生まれてきたのであり、とくにメソポタミア地方は世界中のどの地域よりも早く文明国家を生み出したそのぶんだけ、そうした観念に染まりやすい風土なのだろう。だから、その後は停滞した歴史を歩むほかなかった。そのとき社会は、「等価交換」の観念によって原始的な「捧げもの」の習俗が失われていった。

現在であれ古代であれ原始時代であれ、「捧げもの」こそが人間社会の活性化を担保している。

ヨーロッパであれ日本列島であれ、「捧げもの」という原始的な関係性や集団性を残しながら文明国家へと移行していったから進化発展してくることができた。

「等価交換」というたてまえの損得勘定ばかりしていたら、人と人の関係も社会も停滞していってしまう。中東地域の女たちが黒い布で顔を隠している風俗はおそらくその象徴であり、そういう社会には「飛躍=イノベーション」がない。

 

いつの時代も貨幣とは「等価交換の道具」ではなく、「等価交換を超えてゆく道具」なのだ。そういうかたちで人は「捧げもの」をするのだし、100円のものを1000円で売ったりもする。

社会の経済は、「捧げもの」というかたちで貨幣が「消えてゆく」現象を組み込みながら活性化してゆく。「等価交換」ばかりしていたら、社会は停滞してゆく。終わらなければ始まらない。人類の歴史もこの生も、「もう死んでもいい」という勢いで終わり続け始まり続けることによって進化発展するのだし、成長もする。

現在においても、「等価交換」という旧来の認識にこだわる経済政策においては、「プライマリー・バランス」などといって税収の範囲内で予算を組もうとし、「もう死んでもいい」という勢いで国債発行してゆくことをとても嫌がる。

国債発行をすれば国の経済が破綻するというのなら、そういう可能性がないともいえない。しかしそれでも「もう死んでもいい」という勢いで発行してゆかなければ社会の経済は活性化しないのだ。

生きることは死に続けることであり、そうやってたえず「生きはじめる」ということを繰り返してゆくことだ。そうやって朝に目覚めれば「おはよう」という。終わらなければ、何もはじまらないし、続いてゆくこともない。

国債はまあ、本質的には国民に対するひとつの「浄財=捧げもの」であり、民衆だって大震災のときなどには「募金」という名の「浄財=捧げもの」をする。

たとえ現代であろうと、原始的な「捧げもの」の習俗が豊かに生成している社会でなければ人と人の関係も貨幣経済も活性化しない。

「捧げもの」の関係は、親が子育てをするように、恋人どうしがプレゼントを差し出し合うように、社会の片隅においてもっとも活性化している。その「片隅」が集まって「まち」になり、「まち」の外縁が国家の権力社会と民衆社会の境界になっている。「まち」は、国家に支配されつつ、国家から独立した治外法権の社会集団でもある。

しかし現在は、「まち」も「家族」も国家権力の制度に洗脳されすぎている。いまや「等価交換」の幻想は、「コスパ主義」というかたちで個人の心の中にも及んでいる。そうやって「まち」のいとなみが停滞してしまっている。

「まち」は、「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆく「お祭り」によって活性化してゆく。

 

「まち」に「お祭り」を……上述の「沈黙交易」だって、見知らぬ土地から捧げられた「新しいもの」との出会いのときめきの形見として村の木の実を捧げ返したのであって、彼らの暮らしに魚が必要だったのではない。したがって魚の価値など測りようがないわけで、それは「等価交換」ではなかった。

沈黙交易」は、経済活動というより、たんなる「お祭り」なのだ。だからこそそれが大切な生のいとなみなっていた。なんのかのといってもこの習俗は、文明国家の歴史と同じだけ何千年も続いてきたのだ。

死者が生き残った者に何かを遺す。遺言は、なぜ死んだ後にしか見ることができないのか。生き残った者たちは死者の棺にさまざまな副葬品を捧げる。そしておいおい泣いて涙を捧げる……これらのことだってまぎれもなく「沈黙交易」なのだ。

人の世は「もう死んでもいい」という勢いで「等価交換」を超えてゆく……そこにこそMMTの思考の基礎があるのだろうし、人と人の関係や人類の集団性の本質がある。人類は根源において「死(=沈黙)に対する親密さ」を共有している。「消えてゆく」ことのカタルシス、メタ思考……現実的な経済の動きがどうのこうのとえらそげに御高説を垂れている現在の経済学者よりも、「沈黙交易」をしていた未開人のほうがずっと高度でアクロバティックな思考をしている。

昔の中国の銅銭は、真ん中の四角い穴が現実の世界で、本体の部分は超越的な天上世界をあらわしていた。つまり彼らは、現実の世界なんてただの虚無だという認識というか感慨があった。現実の世界を語っているだけでは貨幣経済の謎は解けない。人は、天上世界に対する遠いあこがれを生きている。自分もこの生も現実の世界もたんなる虚無で、天上世界だけがリアルな存在だ。色即是空……東洋思想は、だいたいそのような認識になっているし、「虚無=非存在」を認識することこそが現在の世界の最先端の哲学や物理学の潮流でもある。MMTだって、そういう時代意識を背負って登場してきた。

人は、自分の生を否定しつつ、他者の生存を願っている。他者だけが確かな存在なのだ。自分の生は、他者の生が前提になければ成り立たない。人類の集団性は、そうやってときめき合い助け合ってゆくことによって進化発展してきた。

「自我の尊重」や「生命賛歌」が叫ばれる時代だが、そんなところに人間性の自然・本質があるのではない。それは、近代合理主義の大きな誤謬だ。そんな愚にもつかないことを合唱しながら現在のこの世界は、さまざまな混乱や理不尽を引き起こしている。

自分や自分の命を否定することを否定するべきではない。生きてあることのいたたまれなさは、だれの中にも疼いている。何か嫌なことがあると人は、すぐに「生きることなんか面倒くさい」とか「死んでしまいたい」などと思ってしまう。「死」を知ってしまった存在である人類の集団は、そういう死に対する親密さを共有しながら活性化してゆく。そうやって「もう死んでもいい」という勢いの「祭りの賑わい」が生まれてくる。

自己否定しつつ「消えてゆく」カタルシスを抱きすくめてゆくということ、そこにこそこの生のダイナミズムがあり、おそらくそうやって人は死んでゆく。そういう原初以来の普遍的な生のサイクルの上に「貨幣」が成り立っている。

僕は、「幸せ」というのがどんなものであるかということはよくわからない。しかし、この世に生まれ出てきて死んでゆくこの過程が「祭りの賑わい」であればと願っている。この社会この「まち」が、だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく集団=場であるということ……「一期は夢よ、ただ狂え」……それが日本列島の民衆社会の伝統であり、原初以来の人類の歴史でもあるのではないだろうか。

 

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