鳥と人間・ネアンデルタール人論39

 鳥と人間は似ている。
 鳥は空を飛べるから、無力であっても比較的天敵に対する警戒心が薄い。だから、ときにあんなにも派手な色をしていても生き残ってくることができたのでしょう。
 原初の人類の場合は、二本の足で立ち上がることによっていったん猿よりも弱い猿になってしまったのだが、どんな住みにくいところにも住み着いてゆける生態を獲得し、それによって天敵から遠く離れてあまり警戒心を持たないメンタリティになっていった。天敵だけじゃなく、同じ人類集団どうしだって、テリトリーを接することなく離れて住み着いていった。そしてその猿にはない警戒心の薄さが、知能の進化発展につながっていった。
 人間的な知能の進化発展は、警戒心による緊張によってではなく、そこから解き放たれた「集中力」によってもたらされた。つまり、意識の焦点が目の前の今ここの一点に結ばれてゆく、ということです。
 鳥は、空の高いところから獲物を見つけ、一直線に降下してくる。そうやって一点に焦点を結ぶ能力が発達している。
 公園の鳩だって、落ち葉や石ころだらけの地面から豆粒ほどのちいさな木の実をすばやく見つけ出してついばんでゆく。彼らがたえず首を前後に動かしているのは、それによって意識が一点に焦点を結んでゆく効果を持っているのかもしれない。
 人間だって、意識が一点に焦点を結ぶと、「えっ」と思わず前のめりになったり、一歩前に身を乗り出したりする。
 試しに鳩を真似て、体を前後に揺らしながら目の前のものを眺めてみればいい。するとそのまわりがどんどんぼやけてゆき、対象の姿がより鮮やかに浮かび上がってくる。
 また鳥は空を飛べるから、渡り鳥のように遠くまで移動していったりする。この生態も、人類が地球の隅々まで拡散していったことと似ている。
 鳥だって、羽をばたつかせながらヘリコプターのように一か所に滞空しているのはしんどいことらしく、そう長くはしていられない。直立二足歩行する人間もまた、立ったままじっとしているのはけっして楽なことじゃない。だから電車やバスには座席があるし、小学校の朝礼で校長先生の話があまりに長くて多くの生徒がばたばたと倒れていったりする。その姿勢は、鳥が空を飛んでいるように、歩いてゆくことによって安定する。
 直立二足歩行は、体の重心を前に倒しながら半ば自動的に歩いてゆける。だから人間は遠くまで歩いてゆけるわけで、それは、鳥が羽を動かさないまま気流に乗って飛んでいることにも通じている。


 ともあれ人間と鳥は、「一点に焦点を結んでゆく」というメンタリティにおいて似たところがある。
 鳥のオスは、メスに対してけんめいに求愛してゆく。それも、人間と似ているのかもしれない。求愛という生態は、人間以外では鳥がもっとも発達しているのでしょう。だからオスの羽は派手な色を持っている。孔雀のオスが羽を広げて求愛ダンスをするとき、天敵に見つかって襲われることなんか忘れている。それくらい意識の焦点がメスという一点に結ばれている。
 鳥のメスは、地味な保護色になっていることが多い。だからといってそれを「生きのびるため」のしつらえだと考えるべきではない。メスだって、オスに見つけてもらわなければ繁殖はできない。そして鳥のメスは、けっこうオスを拒否する。拒否を繰り返して最後にやっと根負けしてやらせてあげるというかたちになる場合が多い。
 メスの羽の色が保護色になっているのは、オスに対する興味が薄いということもあるのかもしれない。空を飛べる鳥なのだから、ほんらいなら天敵に襲われる心配をしてわざわざそんな色になる必要もない。オスが派手な色をしているということは、もともとそんな心配をしている種族ではないということを意味している。ただ、むやみにセックスして身動きできなくなる子育て(卵を温めじっとしている)ばかりしていると、そのときこそ生き残れなくなってしまう。それは、隠れてひっそりとしなければならない。
 とにかく、むやみにセックスしたがらないメスが生き残ってきたし、そのせいでオスはさらにけんめいな求愛行動をするようになっていった。
 そして、この按配も、たぶん人間の男と女の関係と似ているのでしょう。
 二本の足で立っている人類の女の性器は、猿と違って尻の下に隠されている。これはある意味で鳥のメスが地味な保護色になっていることと共通している。人類だって、そのせいで男がけんめいに求愛する存在になっていった。
 人類の女だって、本質的には性衝動の希薄な存在なのでしょう。女がおしゃれをするといっても、それは男に求愛しているのではなない。人類の女は根源において男の視線を受け続けている存在であり、その視線の鬱陶しさをやりくりするための機能として女のおしゃれの作法が洗練発達してきた。このニュアンスについて語ろうとすると話が長くなってしまうからここでは割愛するが、とにかく女のしゃれは男に対する「求愛」ではないのです。男嫌いの女でもおしゃれをする。美人はそれだけで男が寄ってくるからいまさらのようにおしゃれをしなくてもよさそうなものだが、美人のほうが見られることの鬱陶しさをよく知っているからおしゃれをしてその執拗な視線に耐える必要が切実であったりする。
 生き物のメスは、本質的に性衝動などというものを持っていない。それでもメスは根負けして最後にはやらせてあげてしまうし、妊娠出産すればときめいて子育てに夢中になってゆく。
 まあ鳥のメスの羽の色が保護色になっているのは、生きのびることを放棄してでも子育てしてきたことの結果(=自然のなりゆき)なのでしょう。生きのびようとする衝動があったら、子育てなんかしない。
 鳥もまた、人間のような面倒な子育てをする。長い時間をかけて卵をあたためて孵化させ、さらには毎日口移しに餌を与えながら巣立ちまでの面倒をみてやる。そんなことができるのは、一点に焦点を結んでゆく集中力があるからでしょう。そのとき鳥の親は、この生からはぐれた存在として自分が生き延びることなんか忘れている。
 この生からはぐれているものは、一点に焦点を結んでゆく集中力を持っている。
 おそらく原初の鳥は、この生からはぐれるようにして空に飛び立っていった。
 人間も鳥も、この生からはぐれてゆく傾向を色濃く持っている。


 人間の女の出産子育てだって、鳥と同じように命がけです。原始人であればあるほどそうだったに違いない。
 妊娠・出産・子育てをする人間の女は、一時的にオキシトシンというホルモンの分泌がさかんになって、世界に対する警戒心=緊張が薄くなる。そうならなければ、そうした一連の時間を生きることはできない。
 人間はもともと二本の足で立ち上がって世界に対する警戒心=緊張が薄い存在として歴史を歩んできたから、そのように苛酷な妊娠・出産・子育てをするかたちに進化してきたのでしょう。
 そのとき女は、生きのびようとする欲望を捨てて、「もう死んでもいい」という心地になっている。それはもう、そういう心地にならなければできるような体験ではない。
 そしてその「もう死んでもいい」という心地の心の華やぎがある。
 生き物は死に魅入られた存在であり、そのときめきが生き物を生かしているのであって、生きのびようとする本能や欲望を持っているのではない。それはあくまで文明人の観念のはたらきにすぎない。つまり生き物は、根源的には天敵に対する警戒心=緊張で生きているわけではない、ということです。
 最初に空を飛んだ鳥には、天敵などいなかったことでしょう。鳥は、そういう存在として進化してきた。彼らは、地上の生き物の世界からはぐれていった。そうして、天空から地上の一点に焦点を結んでゆく意識のはたらきを発達させてきた。
 原初の人類だって、二本の足で立ち上がって猿の世界からはぐれていった。はぐれながら、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。


 生き物は、この生からはぐれて、「もう死んでもいい」というかたちで生きている。そうやって捕食するとか捕食されるという食物連鎖が起きている。戦争をして人を殺すとか殺されるということも、生き物の生態の根源にまで遡行して考えようとすると、いいとか悪いということもよくわからない。人間のすることや考えることだって、つまりは生き物であることの与件の上に起きている現象にすぎない。
 すべては許されている。
 生きられない障害児として生まれてこようと、英雄や天才になろうと、すべてはこの地球上のたんなる現象にすぎない。
 この地球が消滅しようとするまいと、この宇宙のたんなる現象にすぎない。
 自分が生きてあることは、生きのびねばならない、生きのびたい、と思うほど、そんなにも重大で重要なことか。現代の文明社会に生きているわれわれは、それをそんなにも重大で重要なことに思ってしまう人生のなりゆきに置かれているが、何かのはずみですべてはどうでもいいことのように思えてきたりする。生き物としての根源まで遡行すれば、すべてはどうでもいいことでしょう。われわれがこの世に生まれ出てきたことは「何かの間違い」です。何かの間違いだから、生き物はどんどん進化して現在の「生物多様性」などという様相を呈している。間違いでなければ、進化も変化も起きない。そして人間は、そういう生き物であることの根源に遡行してゆく無意識を持っている。それをたぶん「実存感覚」というのでしょう。
 人間は「生きてある」ということを自覚している。それ自体が、生き物の根源に遡行してゆく意識でしょう。そしてそれは「何かの間違い」だとも思っているから、「自分=生きてあること」を忘れて何かにときめき熱中してゆくということを体験する。
 人間は生きてあることを深く深く実感しているが、無意識=実存間感覚においては、それが重大で重要なことだ思っているのではない。何かの間違いにすぎない、と思っている。 
 間違いそのものであるこの生は、一点に焦点を結んでゆくことによって収拾される。焦点を結びながらやがて消えてゆく。その一点は、この生の消失点でもある。心は、この生の消失点に立って華やぎときめいてゆく。
 輝かしい未来なんかなくてもいい、たとえどんなに悲惨であっても、今ここを生ききることができればそれでいい。今ここを生ききるとは、今ここに消えてゆくということです。人の心は、そうやってときめいている。
 僕は大げさなことをいっているつもりはありません。公園の鳩が地べたの豆粒のような小さな木の実を見つけて素早くついばむことだって、ようするにそういう体験なのだと思う。そのとき鳩は「あ、木の実だ!」とときめいている。何もかも忘れてときめいている。何もかも忘れなければ、気がつきときめくという体験は起こらない。
 意識が一点に焦点を結ぶということは、この生の消失点(=死)に立つという体験です。そうやって生き物は死に魅入られて存在している。それが、生き物としての実存感覚です。


 人は、空を飛ぶ鳥にあこがれる。
 それは、空を飛ぶ鳥が持っている「漂泊」の気配にあこがれるということでもある。
 われわれ現代人は、社会の制度性に閉じ込められて暮らしている。それはつまり、「命の尊厳」などといって、この生は重要で重大だという強迫観念に取り付かれている、ということです。ある人はそれによって「生きがい」やら「自分らしさ」やら「幸せ」やらを獲得し、一方その強迫観念に追いつめられて精神を病む人もいる。どちらにしても、そこに人間としての自然があるわけではない。
 原始人は、どんな思いで空を飛ぶ鳥を眺めていたのでしょうか。
 もしかしたら、現代人のようなあこがれよりももっと親密な感慨を抱いていたのかもしれない。彼らは文明社会の制度性に閉じ込められていたわけではないし、「死にたくない」とか「生きのびたい」という気持ちも希薄だった。「もう(いつ)死んでもいい」というのが、彼らの生きてある感慨だった。すくなくともネアンデルタール人は、そういう感慨で原始人が生きられるはずのない氷河期の北ヨーロッパに住み着いていた。彼らの心も、空を飛ぶ鳥のように漂泊していた。べつに鳥と人間の区別がつかないということもないが、その漂泊の気配に対するそこはかとない連帯感のような感慨はあったのでしょう。
 鳥の捕食行動は視覚が一点に焦点を結んでゆく能力の上に成り立っている。それは、人間の視覚や思考と似ている。多くの哺乳類はそれを嗅覚にたよっているが、人間と鳥はちょっと違う。
 いずれにせよ生き物の生は、意識が一点に焦点を結んでゆくことの上に成り立っている。そうしてそれはみずからの身体の消失点(=死)に立つということでもあり、心はそこから自分を忘れて華やぎときめいてゆく。
 今僕はここで人類の文化の起源の契機になった人間性(あるいは知能)ついて考えようと四苦八苦しているわけだが、とにかくそれは、世の凡庸な人類学者たちが合唱しているような「象徴思考」とか「計画性」などという概念で説明がつく問題ではないのです。
 人類の文化の起源は、「象徴思考」とか「計画性」で「予定調和の世界」をつくるいとなみだったのではない。「予定調和の世界からはぐれて一点に焦点を結んでゆく意識のはたらき」が契機になっている。
 まあ人類の文化の起源として、火との親密な関係を持ったり、死者を埋葬したり、言葉を生み出したり、洞窟壁画や彫刻や音楽などの芸術活動をするようになってきたのは、すべて、この生からはぐれている心模様が契機になっている。原始人だって「知の荒野」をさまよいながらそうした人間的な文化を生み出していったのです。人間的な文化は、そこからしか生まれてこない。だんじて予定調和の世界の「象徴思考」や「計画性」によるのではない。
 人類にとって「漂泊」とは、広い世界に出ることではなく、意識が一点に焦点を結んで消えてゆくことです。人の心は、そうやって「自分=この生」を忘れながら何かに夢中になってゆく。そうやって人類は「知の荒野」をさまよう歴史を歩んできた。
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