介護の精紳と新自由主義・ネアンデルタール人論38

 ネアンデルタール人クロマニヨン人になっていっただけだ、と僕は考えています。
「集団的置換説」なんか、ほんとうにくだらない。
 そのころ、ヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。サバンナの歴史に、そういうことをしたがるメンタリティの伝統はない。彼らにそういう習性=伝統があれば、その後のアフリカが世界の歴史から取り残されることはなかったはずです。
 現在の人類学は、原始人がどのように地球の隅々まで拡散していったかということについて、根底から考え直してみる必要がある。
「住みよい土地を求めて」などという理由ではないのですよ。
 原始人は、より住みにくい土地より住みにくい土地へと拡散していったのです。そうやってこの生からはぐれてゆき、しかし心はそこから華やぎときめいていった。
 この生からはぐれてゆくとは、「この世のもっとも弱いものになってゆく」ということです。心はそこから華やいでゆく。世界はそこから輝いてくる。人間が猿よりもはるかにダイナミックに「ときめく」という心模様を持った生き物だということは、誰もが「この世のもっとも弱いものになってゆく」というタッチを人間性の自然として無意識の底に持っている、ということです。この世のもっとも弱いものこそ、もっとも豊かにときめいている。そうやって人は旅をする生き物になっていった。原始人が旅に出れば衣食住のすべてがままならなくなって、生きられなくなるということです。彼らにとって旅をすることは、「この世のもっとも弱いものになってゆく」行為だった。しかしそれでも、いつの間にか集団からはぐれて漂泊してゆくものがあとを絶たなかった。そうしてそんなはぐれ者たちがあるときある場所で出会ってときめきあい、新しい集団が生まれていった。そこがどんなに住みにくい土地でも、彼らの心は華やぎときめき合っていった。そしてそのときめき合いから人間的な高度な文化や連携が生まれていった。その果てしない繰り返しによって人類は、地球の隅々まで拡散していったのだし、その「この世のもっとも弱いもの」になって「生きられなさを生きる」ところから人間的な高度な文化や連携が生まれ育ってきた。
 現代においても、高度な知性や感性の持ち主は、「この世のもっとも弱いもの」になってゆくタッチを持っている。人の心は、そこから華やいでゆく。


 ともあれ、いつの時代も、旅には出会いのときめきがある。そのはぐれてしまった心がときめいてゆく。
 人間は、心の底で、「この生は何かの間違いだ」と嘆き、「わからない」と嘆き、「うまくできない」と嘆いている存在です。その、この生からはぐれてしまった「嘆き」を契機にして、人間的な進化発展の歴史を歩んできた。心は、そこから華やいでゆく。
 それはつまり、人の心は「予定調和の世界」からはぐれていってしまう、ということです。
 「うまくなりたいという一心で練習する」という。練習してうまくなってゆくという予定調和のストーリー。しかしじつは、練習したってうまくなれる保証なんか誰にもないのです。うまくできなければ、「うまくできない」と嘆くだけです。しかし人の心はそこから華やいでゆき、うまくできないことそれ自体に憑依して(ときめいて)ゆく。嘆くことの心の華やぎというものがある。じつはそうやって練習に熱中しているのであって、うまくなれるという予定調和の確信なんか持てるはずがないのです。誰だって、うまくできなければ、一生へたくそのままであるかのような心地に浸されてしまうものだが、それでも熱中してゆく。人間は、そういう心模様を持っている。そのとき気分はもう「この世のもっとも弱いもの」です。
「この世のもっとも弱いものになってゆく」ことによって人類の文化の進化発展がもたらされた。そこから旅が生まれ、恋愛が生まれ、学問が生まれ、芸術が生まれ、スポーツが生まれ、祭り(遊び)が生まれ、さらには猿にはない人間的な団結や連携が生まれ育っていった。
 この世のもっとも豊かな知性や感性の持ち主は、「この世のもっとも弱いもの」として考えたり感じたりするタッチを持っている。彼らはつねに、「これは違う、ほんとうのことは何もわからない、何も見えない」と身もだえしている。
「予定調和の世界」を捏造してまどろんでいる凡人ばかりが、真実がわかっているつもりでいる。見えているつもりでいる。文明社会はそういう制度的な観念世界が生まれてくる構造を持っているが、それでも人が旅をし、恋愛をし、学問に取り組み、芸術を愛し、祭りや遊びの熱中してゆくその部分においては、すなわち人間として「ときめく」ということにおいては、誰もが「この世のもっとも弱いもの」のタッチで考えたり感じたりしている。そういう原始的な心模様を、われわれ現代人だって持っている。
「この世のもっとも弱いもの」であることは、人間であることのアイデンティティなのです。深層心理というのか、人間は、心の奥の深い部分で「この世のもっとも弱いもの」に対する熱っぽい親しみを持っている。そうやって「介護」という行為に熱中する存在になっていった。
「この世のもっとも弱いもの」になってゆくことによって心は華やいでゆき、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくるし、介護の衝動としてのそういう存在に対する親しみ(シンパシー)も生まれてくる。


 人類史における介護は、ネアンデルタール人の時代に本格化してきた。
 とうぜんです。彼らこそ、人類でもっとも生きにくさを生きた人々だったのであり、その習性を持たなければ生きられなかったし、その習性を持っていたから原始人が生きられるはずのないその環境を生き残ってくることができたのでしょう。
 彼らは、生きてあることができる「予定調和の世界」を持っていなかった。したがって生きのびようと発想することなど原理的に不可能だったし、それを守ろうとして戦争をするという文明人のような生態も持っていなかった。彼らの社会において人間的な介護という行為が本格化していったということは、戦争をしてでも生きのびようとする衝動=欲望など持っていなかったことを意味する。
 シャニダールの洞窟に埋葬されていた体の不自由な老人をはじめとして、彼らが介護の習慣を持っていた証拠はいくらでもある。そしてその習慣を持っていることこそが、人間的な知性や感性が生まれ育ってくる基礎になっているのです。
 4〜3万年前にアフリカ人がヨーロッパに移住していって原住民であるネアンデルタール人を駆逐してしまったという「集団的置換説」を唱える人類学者たちはみな、そのころアフリカ人のほうがはるかに知能が発達していたというのだが、人類の知能がどのように発達してきたかという問題を原理的に考えるなら、そのころの人類でもっとも生きにくさを生きていたネアンデルタール人の知能(知性や感性)が同じころのアフリカ人よりも劣っていたとはいえないのです。
 人間的な知能(知性や感性)は、生きられなさを生きるところから生まれ育ってくる。人間は根源的にそういう存在の仕方をしているし、そのころネアンデルタール人以上にそうした人間性を豊かに持っている人種などいなかったはずです。


 介護といったって、ただ死にそうな老人や病人や障害者や赤ん坊の世話をするというだけの問題ではない。人間はそういう倫理道徳を持っている、などというだけではすまない。人間的な知性や感性の問題でもある。人間がそういう行為をするということは、人間の生きてあることに対する気分(実存感覚)の問題であり、普遍的な人と人の関係の問題でもある。人と人のあいだの親密さの根源の問題でもある。
 ネアンデルタール人こそ、人類史において、人間性のもっとも根源的な問題と向き合っていた人々だったのです。その問題は、もっとも生きられない生を生きているものたちのもとにあらわれるのであって、もっとも上手に生きたものが知っているのではない。
 だから人は、介護をする。
「この世のもっとも弱いものになる」ことこそ、人間的な知性や感性の本質なのではないでしょうか。
 一流の学者とか、知的な人ほど「わからない」という嘆きを深く抱えている。心はそこから華やぎ、さらに深く探求してゆく。未知の世界に分け入ってゆく。
 凡庸なインテリにかぎって「俺はわかっている」という思い込みが強い。そんな思い込みは、ただ予定調和の世界にまどろんでいるだけのことにすぎない。彼らは上手に生きているし、そのぶんみずからの生を正当なものだと思っている。そうやって予定調和の観念世界を構築しようとしている。
 まあ今どきはインターネットをはじめとして多くのことが調べればわかることができる世の中になっており、「わかる」ということが知性であるかのように合意されている。調べることの内容がなんであれ、プロの学者もアマチュアのインテリも「調べる=わかる」という予定調和的な行為が高度な知的作業だと思っている人が多い。
 しかし「わかる」ことなんか、ただの「ゲームオーバー」という事態にすぎない。そこから先は、何もない。そんな予定調和の世界の果ての脱力感(=思考停止)を何度体験したって、その人の思考力=知性の証明にはならないし、考えることの醍醐味を知っているともいえない。
 考えることの醍醐味は、「わからない」といって身もだえすることにある。そこから脳のはたらきが組み換わり、「発見」という思考体験が起きる。それを「知性」という。その手続きを省略して「調べる=わかる」の予定調和の世界に耽溺しているだけなら、知性とはいえない。そうやってすでに思考力を喪失している。
「調べる=わかる」の予定調和の世界には、「発見」というときめきはない。彼らは、何も「発見」していない。すでに何もかもが決定されている「予定調和の世界」には、まどろみとかうぬぼれはあっても、「発見」という思考体験は存在しない。

 

 まあ、「原始人は生きのびようとして知性や感性を進化発展させてきた」などというのは、生きのびようとする欲望が旺盛な現代人の物差しで考えているだけのまどろみやうぬぼれという予定調和の観念世界の話です。彼らは、現代人が人間のスタンダードだと思っているし、自分が人間のスタンダードだとも思っている。
「自分」なんか、人間の範疇の外の存在ですよ。人間のスタンダードは、「この世のもっとも弱いもの」のもとにある。「自分」じゃあない。
 自分には生きる能力も資格もない。原始人はそこから生きはじめたし、それが人類の普遍的な無意識であるはずです。人は、そうやってはぐれてしまっている存在だから人にも世界にもときめいてゆく。たとえ現代社会の善良な市民であっても、人間なら誰だってそういう無意識を持っている。
 現代社会の善良な市民なんて、そうやってまどろみとうぬぼれの予定調和の観念世界に居座っているほんとにいけ好かない存在だと思わせられることもあるが、それでも彼らだって人間だし、人間なら誰だって「この世のもっとも弱いもの」として世界の輝きに生かされてしまっている。
 そういう「ときめき」は、誰の中にもある。
 善良な市民だけじゃなく、俗っぽい政治家や評論家など、ほんとにいけ好かない人種ばかりの世の中だけど、それでもみんな人間だし、人間の無意識においては、自分以外のこの世のすべては許され輝いている。
 自分は何かの間違いでこの世に生まれ出てきた「許されない」だけの存在だが、だからこそ因果なことにこの世界は輝いている。そこが、人間という存在の住処です。


 人間にとっては、たとえただ生きているだけの存在に過ぎない赤ん坊や老人や病人や障害者だって、「目の前の今ここに存在している」というそれだけで輝いている。人間の意識は、そうやって目の前の今ここの一点に焦点を結びときめいてゆく。人間にとっての「自分」は「許されない」存在だから、もうすがりつくようにその一点に焦点を結びときめいてゆく。
 誰だって、胸の奥にそういうこの生からはぐれてしまった心を抱えている。そこから人は、世界や他者にときめいてゆく。 
 一点に焦点を結んでときめいてゆく……それが、ネアンデルタール人の生きる流儀だった。生きてあることができない環境のもとに置かれていた彼らはもう、その圧力に押されて避けがたく一点に焦点を結んでゆく心模様になっていた。
 一方平和と豊かさの中にある現代人は、世界全体の調和の中にまどろんでゆこうとする傾向を避けがたく持たされてしまっているし、それが人間の本性であり人類の理想だと合唱している。 
 人間的な知性や感性とは、「世界の調和」を描くことか?そうじゃない。人間としての「生きられなさ」から押されるようにして「一点に焦点を結んでゆくこと」です。そこにこそ「ときめき=感動」があり、人はそこでしか生きられない。
 人の心は、「世界の調和」からはぐれてしまっている.そこで生きようとするのが人間であり、そうやって人間的な知能(知性や感性)が進化発展してきた。
 

 今どきは「新自由主義」という思想が幅をきかせているのだとか。平和で豊かな暮らしの「予定調和の世界」を生きることが価値だというのなら、とうぜんそのようになってゆく。誰もがたくさん稼いで平和で豊かな暮らしができるようになりましょう、という思想、つまりたくさん稼いで優雅に暮らしている人がお手本になっているアメリカ的ユダヤ的な思想だということでしょうか。まあ、そうやって経済優先の社会になっている。
 しかしたとえば、才能のあるフリーランスの人は年に何千万も稼いで優雅な暮らしをしているといっても、意外に「自分の時間」というのを持っていないのですよね。一日中仕事をしている。だから彼らは、仕事の意義や意味やモチベーションを称揚しようとする。
これは、高度成長の時代の残りかすのような思想というか価値観です。
 そうしてそれをお手本にして、平凡な人の平凡な仕事まで意義や意味やモチベーションを持たせようとする言説も生まれてくる。それだって、ある意味高度成長の時代の余韻から抜け切れない強迫観念のようなものでしょう。
 平凡な人の平凡な仕事は、しょうがなくやっているだけのものです。それはもう認めるしかない。とりあえず仕事をしないと生きてゆけない社会なのだから、それはもうやるしかない。
 問題はそのあとの「自分の時間」をどれだけ夢中になって生ききることができるかにある。あるものは部屋にこもってゲームやネットに夢中になったり、アイドルの追っかけをしたり、夜間照明のグランドで草サッカーに汗を流したり、気の合う仲間と居酒屋でわいわいやったり、まあ人それぞれ「自分の時間」の生き方があるでしょう。
 仕事のあとの「自分の時間」こそが生きる本番だということ、それは、仕事ばかりしているフリーランスの人や大企業の人には味わえない時間であり、この生からはぐれてゆくことです。この生からはぐれてゆくことこそこの生の本番だ、という思想がこの国に生まれつつある。  
 だから今どきの若者は、たとえ給料が安くても、きっちり5時に終わる仕事に就きたがったりする。そうやってせっかく入った大企業を辞めてゆく若者もいる。そうして、車なんかいらない、食い物はコンビニ弁当、着るものはユニクロでけっこう、デートは居酒屋でいい、という。それは「自分の時間」を生ききろうとする思想です。仕事の意味や意義やモチベーションなんて、もう古い。もちろんいまだに仕事の価値を生きようとしている若者もたくさんいるのだろうが、それは時代(世の中)がまだ高度経済長の余韻を引きずっているからでしょう。
 経済優先の政策を声高に叫ぶ政治家がもてはやされ、そういう生き方を称揚する啓蒙書がたくさん売れたりして、「新自由主義の思想」は今をときめいているのかもしれない。しかしそれゆえに、それはもう時代遅れになりつつあるともいえる。その政策はそれほどかんばしい結果をもたらしいていないし、平凡な人たちがそんな思想に洗脳されて精神を病んだりする世の中になっている。
 なぜなら人の無意識すなわち人間性の自然は、そうした「予定調和の世界」からはぐれていってしまう傾向を持っているからです。
 おそらく一部の若者たちは、仕事を離れた「自分の時間」を模索しつつある。そこにおいては、この生の「意味」や「意義」や「モチベーション」などというものに耽溺執着しない分だけ、平凡であることのほうにアドバンテージがあるのです。根源においては、そんな予定調和の価値が人間を生かしているのではない。生きてあることに価値も尊厳もない。生きてあることは「何かの間違い」なのです。その間違いを生ききることを彼らは模索している。それは、自分が輝いていることを目指すのではなく、自分を忘れて世界の輝きにときめいていたいということです。自分が生きてあることなんか何かの間違いだと思っているから、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくという体験ができる。
 まあ新自由主義なんて、タイタニック号みたいなものですからね。その船を捨てるということは、別の「意味」や「意義」や「モチベーション」の船に乗り換えるということじゃない。いろいろ試行錯誤はあるのだろうが、人びとは仕事から離れた「自分の時間=祭り=遊び」を生ききることを模索している。それは、「予定調和の世界」という船になんか乗らない、ということです。
 フリーランスになる必要なんかないし、平凡な自分の生に意義や意味やモチベーションを探す必要もない。自分を忘れてときめいてゆくことができればいいだけです。
「一期(ご)は夢ぞ、ただ狂え」、そういう言葉もあるくらいで、それがこの国の伝統であり、新自由主義よりもそちらのほうがずっと新しいし、普遍的でもある。ネアンデルタール人だってそのように生きていたし、この国の伝統はそういう原始性を引き継ぎながら洗練してきた。
 ネアンデルタール人について考えることは、そういう人間性の普遍・自然について考えることです。
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