艱難辛苦の歴史・ネアンデルタール人論37

 氷河期の北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタール人の歴史は、艱難辛苦の歴史だった。それでも彼らは、その地を離れなかった。
 いったいなぜか?
 人類は本能的なレベルでそういう生態を持っているし、人間的な文化は、その艱難辛苦の歴史から劇的に発展進化してきた。
 戦争だって、まあ艱難辛苦の事態ですからね。それによって進化発展してきた文化や文明もある。人間は、あえてそういう事態に飛び込んでいってしまう生態を持っている。
 太平洋戦争の「特攻隊」という作戦がろくでもないものであるのは当然だが、9・11のテロ事件しかり、人間は本能的に死に魅入られている存在であり、そういう愚かな作戦が生まれてくる狂気とそれを受けれてしまうかなしみを、人間であることの宿命として持っている。
 人がこの世に生まれてくることは「何かの間違い」です。われわれの生は本能的なこの感慨の上に成り立っている。「命の尊厳」などといってすむ問題ではない。
 人間の考えることや行動は、人生賛歌とか生命賛歌とか幸せ願望とか、そんなことでは説明がつかない。ここでは、そんなことに何の興味もない。ただもう人間性の本質・自然はどのようになっているのかと問うているだけです。
 そしてその基準を「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のところに置いている。生き物が生きてあることは何かの間違いで、ネアンデルタール人は、人類史においてもっとも純粋に「間違いの存在」として生きた人々だった。つまり「生きられないこの世のもっとも弱い存在として生きた」ということです。
 ろくな文明を持たない原始人が氷河期の北の果てで生きているなんて、何かの間違いとして生きているということでしょう。そこはもう、どんどん人が死んでゆく社会だった。しかしそこから、言葉や埋葬や火の使用や壁画や彫刻の芸術など、人類史の画期的な文化が生まれてきた。最終氷河期のクロマニヨンの文化は、ネアンデルタール人としてのそうした艱難辛苦の歴史の上に成り立っている。


 人類は、存在そのものにおいて、艱難辛苦の上に立っている。この生の受苦性……だからこそ幸せを欲しがるのだが、幸せからは人類史のイノベーションは生まれてこない。イノベーションによって幸せになることはあっても、幸せそのものはただの停滞でありまどろみにすぎない。そうして、また新たなイノベーションが起きてくる。イノベーションは、「これは違う」という思考から生まれてくるのであって、べつに「世界の調和=幸せ」を目指して起きてくるのではない。イノベーションに「目的」はない。「これは違う」というところに立っているだけです。進化論も、そういう問題かも知れない。生き物が生きてあることは「何かの間違い」なのです。
 たとえば、芋を食べたことがない時代の人類は、誰もそれを食べようとしなかった。だがある日、誰か(おそらく若者や子供たち)がそれを食べはじめた。それは、「きっと美味しいはずだ」と思ったからではない。「食べられないなどということがあるものか」と思っただけでしょう。そうやって「これは違う」と否定されることがイノベーションの本質なのではないでしょうか。


 同様に、言葉の起源において、言葉を生み出そうとする「目的」などなかった。ただもう「この気持ちはいったいなんなのだ」という驚きとときめきがあった。そうやってそれまでの予定調和的にはたらいていた気持ちが否定され新しい気持ちが起きてくる体験だった。
 いつも食べているりんごはただのりんごに過ぎないが、飢餓状態の空腹に陥っているときに出会ったりんごは、格別の輝きを持って目に映る。それはりんごという「意味」が否定される体験だった。そうやってりんごに対する「ときめき=感動」が言葉になっていった。それまでのたんなる「赤くて丸い木の実」という「意味」が否定され、「きれいだ」とか「食べたくてしょうがない」とか、そのような「感動=ときめき」から思わずこぼれでた音声が言葉になっていった。
「意味」を共有しながら言葉が生まれ育ってきたのではない。そのとき集団は言葉とともに「感動=ときめき」を共有していったのであり、そこから人間的な、集団の団結や連携が生まれてきた。
 これは、現代社会においても成り立つ問題です。人間的な集団の団結や連携のダイナミズムは、「意味=規範」を共有してゆくことによってではなく、「感動=ときめき」を共有しながら生まれてくる。会社であれサークル活動であれ市民運動であれ軍隊であれ、たとえばリーダーの人間的な魅力に対する「感動=ときめき」が共有されているところからより豊かな集団の団結や連携が生まれてきたりするのであって、規範・規則という「意味」で縛られているだけの集団の団結や連携などたかが知れている。
 集団の規範・規則という「意味」は、団結や連携を目的にしてつくられる。しかしさらに豊かな団結や連携を持っている集団は、そんな目的はない。なぜなら、人と人がときめき合いながらすでに団結し連携しているからです。
 もしも人間の集団が言葉によって団結や連携をつくっているとすれば、それは言葉の本質的な機能が「意味の伝達」にあるからではなく、「感動=ときめき」を共有してゆくことにあるからです。言葉の起源における人類集団は、「意味」を共有していったのではない、「感動=ときめき」を共有していった。そしてそのことが、彼らをして艱難辛苦の生を生きさせた。


 人間なら誰だって、生きられなさを生きようとする生態を持っている。生きられなさを生きながら、知性や感性が育ってゆき、技術が向上し、人と人がときめき合う関係が深く豊かになってゆく。
 この生は何かの間違いなのだから、この生(=自分)に対する関心なんかない。しかしそれでもというかだからこそというか、世界は輝いているから、世界や他者に関心を持ち、世界や他者に反応してゆく。人生賛歌や生命賛歌や幸せ賛歌をしていると、どうしてもそうした「関心」や「反応」が希薄になってくる。
 人の心模様は、ややこしくやっかいです。他者への関心や反応のようでいて、じつは自分を見せびらかしながら他者の自分への関心や反応を吸収しているだけの場合もある。それはまあ一種の権力欲であり共生願望でもある。今どきの社会は、なんだかそんな欲望が渦巻きもつれ合っているようにも見える。
 しかしそれでも人は、根源の無意識において生きられなさを生きている。世界や他者は、そこから輝いて立ちあらわれてくる。誰もがどこかしらでこの生に幻滅している。しかし心はそこから華やいでくる。いやな人間も多い世の中だが、それでも世界や他者は輝いている。人間というのはそういう生き物なのだなあ、としみじみ思うことがある。
 このページは、そうした生きられなさを生きている人とそこはかとない連帯を結べるものであればと願っています。
 

 人類の知能は、生きのびようとする目的(欲望=自己意識)とともに進化発展してきたのではない。いまどきはそんな欲望とともに進化発展するという合意に覆われていて、人類学の起源論も、そんな問題設定で語ることばかりしている。
 もちろん人は、観念的表層的には生きやすさや生きのびることを希求する存在ではあるが、心の底の無意識は、生き物の根源・本質に沿ってこの生に幻滅しこの生からはぐれてしまっているし、だからこそ心は華やぎ世界や他者に深く豊かに反応しながら生きてしまっている。
 人を生かしているのは、生きようとする意欲・欲望ではなく、そんなことを忘れた世界や他者に対する「ときめき」という関心や反応であり、そうやって人はすでに生きてしまっている。その「世界の輝き」が人を生かしている。
 ネアンデルタール人は、すでに生きてしまっていたのであって、生きようとする欲望でがんばっていたのではない。ただもう他愛なく世界や他者にときめいていただけです。そうってすでに生きてしまっている生を生きていたから、ほかのところに移住しようとしなかった。もうそこ以上に生きられなさを生きることができる場所はなかった。そこは、人類拡散の行き止まりの地だった。
 人間は、生きられなさを生きようとする生態を持っている。人の心は、そこからときめき華やいでゆく。


 まあ、人にちやほやされる自分の輝きを持たないと生きられないとがんばっている人もいるみたいだが、それは人間性の自然・本質ではない。そういう欲望の実現に失敗して精神を病む人も多い。
 ちやほやされたがる人がちやほやされるとはかぎらない。仲間内でそんな関係を持つことができたとしても、その外の第三者は冷ややかに見ている。みんなでちやほやしあっていれば平和で幸せかもしれないが、生きていればいろんなことがある。自分がこの世の「ひとりぼっち」の存在になってしまったような心地になるときがあるし、その心地が人間として不自然というわけではない。人は、その心地を携えて世界や他者にときめいてゆく。なのに現代社会では、ちやほやされないと生きていられなくて精神を病んでゆく人も少なからずいる。だから、現代人は「ネットワーク」をつくってそこで生きてゆこうとする。もともと人は、見ず知らずの人間にだってときめいてゆくことができる存在だったわけで、そこから「どこからともなく人が集まってきてときめき合う」という人間特有の「祭り=イベント」の生態が生まれてきた。
 そのとき人は、ちやほやされなくても勝手にときめいていっている。
 人間性の自然・本質は、ちやほやされたがる自己意識にあるのではない。生きてあることも自分も忘れて世界や他者にときめいてゆくのがほんらいの人間性であり、そんなふうにして人類は歴史を歩んできたのだし、そこから人間的な知能が進化発展してきた。
 たとえば人類学者や言語学者が、言葉は意味の伝達のための道具として生まれてきた、というとき、伝達しようとする自己意識=自我が想定されている。しかしその意識は自分に張り付いて世界や他者に反応していないのだから、対象についてのイメージや感慨もない。したがってそこから対象についての言葉が生まれてくることはありえないし、そのような意図を持つことが知性や感性の本質ともいえない。すでに存在する言葉を伝達することはできるでしょう。しかし、世界を表現する言葉が生まれてくるためには、まず世界に対する反応がなければならない。それは、自分を忘れて世界にときめいてゆく体験から生まれてくる。伝達しようとする自己意識=自我で言葉を生み出すことは原理的に不可能です。
 目的に向かう意識は、目的を生み出す意識ではない。目的がすでに存在しているから向かおうとする。言葉を発しようとする目的があるということは、言葉がすでに存在しているということであり、それは言葉の起源のかたちではない。
「感動=ときめき」とは、「これは違う」と「飛躍」してゆくこと、脳のはたらきが組み換わること。
 なんの目的もなく思わず音声を発してしまったのが言葉の起源であり、そこにこそ言葉の本質がある。
 そしてこれは、「労働」と「遊び」の違いでもある。前者はすでに存在する予定調和の世界を目指すルーティンワークであり、後者は未知の新しい世界に出てゆく行為です。言葉は、世界をつくる「労働」としてではなく、世界に「反応」する「遊び」として生まれてきた。
 言葉の起源は、「意味」を共有してゆく「労働」だったのではなく、「感動=ときめき」を共有してゆく「遊び」だった。
 人の心の基礎は、世界をつくろうとするのではなく、世界に反応しときめいてゆくことにある。人類の文化の起源は、そこから考えはじめるしかない。
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