介護の心・ネアンデルタール人論41

 人類の「介護」という生態は、ネアンデルタール人のところから本格化してきた。そのような考古学的証拠がたくさんある。介護をされて生きていたに違いない人の骨がたくさん出土している。
 それだけでももう、ネアンデルタール人について考える価値はじゅうぶんにある。
 介護は、医学が発達して高齢化社会になった現代人が直面している問題でもある。今や、そういう問題を抱えた中高年がたくさんいる。それはつまり、戦後の核家族核家族だけでは完結できなくなってきているという問題でもある。
 彼ら中高年が親や配偶者の介護という問題と出会うとき、子供たちはすでに独立している。その崩壊した核家族が、やっかいで新たな「家族」という問題を抱え込む。たいていの場合、その介護対象になった親は、核家族の「闖入者」であって、核家族の一員だったのではない。人びとは、いったん核家族の価値を忘れてその「闖入者」を受け入れる。
 昔の大家族なら、その対象はべつに「闖入者」ではなく、一緒に暮らしてきた相手だから戸惑うことなく介護という段階に移動してゆけたし、複数の人間でその役割を分担できた。さらには、いくらかの隣近所の助けもあった。
 しかし現在では、嫁とか娘一人で介護の仕事を抱え込まなくなる例も多い。精神的にも肉体的にも大変です。その人は、「家族の崩壊」の中で「家族という価値」を生きねばならない。
 たぶん、戦後の核家族ほど「家族という価値」に執着した家族もないのでしょう。その家族が「家族の崩壊」を生きねばならない。夫婦の絆なんて怪しいものだし、子供には裏切られるし、その上で介護対象という「闖入者」を相手にしなければならない。しかもその介護対象はぼけてしまったり寝たきりのままいつまでも生きていたり、そりゃあ介護する側だって気が狂いそうになる。生きた心地がしない。
 現在の介護制度は、介護をするものを救済する制度なのでしょう。介護職があるのは、介護の負担をできるだけ分散しようとしているからでしょう。よく言えば、介護の負担を社会全体で共有してゆこうとする思想。介護をするなんてしんどいばかりだという意識は、当事者であろうとあるまいと、現代人の誰の中にもある。
 人は、介護という行為を放棄することはできない。それはもう、倫理道徳の問題というより、人間としての実存感覚の問題であり、歴史の無意識の問題でもあるのでしょう。人間は、介護をするような存在の仕方をしている。
 まあ介護職が低賃金なのは、それがたんなる経済行為ではなく、本質的には経済を離れた部分で成り立っている行為だからでしょう。人の本能のようなものに依拠しているというか、人は介護をせずにいられない存在であり、だからこそその行為に経済的な価値はない。それは、商品を生産する行為ではなく、すでに売ることができなくなった「人間という商品=ごみ」を消却する行為です。ほったらかしにしておくわけにはいかない、ちゃんと「ごみ」として消却しないといけない。まあ社会制度的には、そういうコンセプトであるはずです。


 人はなぜ「介護」という行為をするのか。
 生きられないことの尊厳というものがある。そこに引き寄せられながら人類は介護をする存在になっていった。
 べつに「かわいそう」と思ったのではない。
 現代人は、自分が生きのびることができる存在のつもりでいるし人間の本性が生きのびようとすることにあると思っているから、上から見下して「かわいそう」と憐れむ。
 しかし、極寒の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人をはじめとして基本的に原始時代の人類は生きられない存在だったのであり、赤ん坊や老人や病人や障害者などの介護を必要とする存在に対しては、いっそう切実な親密感や連帯感を抱いただけであって、「かわいそう」などとは思わなかった。原始時代に「介護をしなければならない」という倫理道徳=規範などなかった。それでも彼らは介護という行為をせずにいられなかった。ネアンデルタール人のような苛酷な環境を生きている人種ほどせずにいられなかった。
 現代の介護に従事している人たちだって、心の奥のどこかしらでそうした親密感や連帯感を持っている。その感慨が、しんどいばかりで見返りの少ない仕事を成り立たせている。
 誰だって死とは何かと思うし、死んでゆくときの気持ちというのはどんなだろうという畏れや不安を持っている。そして生きられないこの世のもっとも弱いものたちは、まさにそのことを体験しながら存在している。
 死の淵に立っていることの尊厳というものがある。それは、生きのびる能力があることよりもずっと貴重であるし、人類は700万年の歴史を生きてもまだ「死とは何か」という問題を解き明かしていない。解き明かしていないかぎり介護をせずにいられない気持ちを持ち続けるし、解き明かせば、その親密感や連帯感もなくなる。
 人類は、介護の対象を通して「死とは何か」という問題をずっと問い続けてきたし、これからもさらに問い続けてゆくしかないのでしょう。
 死んでゆく人の尊厳というものがある。
 そして人はみな死んでゆく存在なのです。そこにおいて、介護の対象に対する親密感や連帯感が生まれる。
 まあ人が死んでゆくということは、厳粛なことでしょう。べつに「かわいそう」というような問題ではない。
 その厳粛さに気づいたときから人類の介護がはじまった。

「人間的な行為の本質は労働にある」とか「人間は生きのびようとする存在である」というような問題設定では原始人の歴史すなわち「起源論」の説明はつかない。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、すでに生きのびることを放棄する体験だった。その姿勢は、きわめて不安定な上に、胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。
 しかしそれは、猿の時代の生きのびようとする観念性から解放されて、生き物としての根源に遡行する体験だった。
 生き物は死ぬべき命を抱えて存在している。
 ある心理学者は「人間は本能が壊れた存在である」といっているが、そうじゃない、人間は猿よりももっと本能的なのです。
 人間が「死にたい」と思ったり「殺したい」と思ったりするのは死ぬべき命を抱えて存在していることを自覚しているからであり、まあほかの生き物は本能に無自覚だが人間は自覚的である、ということでしょうか。
 いや「本能」とは何かということもよくわからないのだが、とにかくわれわれは生き物(=やがて死んでしまう存在)であることを自覚しているわけで、生き物であることの与件から逃れられている人間なんかいまのところひとりもいない。
 生き物としての本能的なところから呼び覚まさせられる感覚を「実存」というのでしょう。その実存感覚から人間的な文化が生まれ育ってきたわけで、それは「生きのびようとする欲望」によるのではなく、われわれはやがて死んでゆく生き物であるという自覚から生まれてくる「かなしみ」や「ときめき」こそが契機になっている。
 われわれはやがて死んでゆく生き物であるという自覚を共有しているのが人と人の関係の基礎であり、究極のかたちでもある。それは「もう死んでもいい」という無意識の感慨であり、心はそこから華やぎときめいてゆく。
「生きのびようとする欲望」から人間的な文化が生まれてきたのではない。それは文化が生まれ育って人間が生きのびる能力を持ってきたことによる必然的な結果であるとしても、それが文化の起源の契機だったのではない。それは、氷河期明けの文明史の問題であって、原始時代の起源の問題でないし、より高度な文化が生まれてくる契機にもなっていない。
 

 原始時代の人類拡散のルートは、二つあるらしい。
 ひとつはアフリカ=中東=インド=東南アジア・オセアニアという南のルート。そしてもうひとつは、アフリカから中東および中央アジアへと拡散してゆき、そこからヨーロッパと蒙古・中国・日本などの東北アジアに分岐していった北のルートです。
 南のルートは、比較的アフリカと気候風土が似ていて、あまり「寒さ」という「住みにくさ」の圧力を受けなかった。
 それに対してもともとアフリカ中央部の南方種であった人類が北の「寒さ」に遭遇することはかなりの「住みにくさ」の圧力になったはずです。人類最初の本格的な文化が北のネアンデルタールクロマニヨン人のところから生まれ育ってきたとすれば、それは「寒さ」の圧力によるものだったのかもしれない。
 そして彼らがそんな住みにくいところに住み着いていたということは、人間の本性が「生きのびようとする欲望」にあるのではないことを意味している。そこは、生きのびることができない環境だった。
 原始人が新しい土地に住み着いてゆく契機は、「住みやすい=生きのびられる」ことにあったのではない。そんなことが契機になるのなら、その住みやすさにまどろんで(思考停止して)新しい文化など生まれてくるはずがない。その住みにくさ(=生きられなさ)が、人類の脳のはたらきを刺激して新しい文化が生まれ育ってきた。


 人類学の一部では、「クロマニヨン文化の開花は遺伝子の突然変異による」などといわれたりしているが、遺伝子の突然変異は文化が開花したことの「結果」であって、「契機」ではない。そんな遺伝子の突然変異を持った個体が生まれてくることなどいつの時代にも起こっていたことだが、文化が開花する以前はつねに淘汰されてきたはずです。開花したから、それに適合した突然変異の遺伝子が有利になっていった。
 まあその突然変異の遺伝子とは、より生きにくい状況に置かれてしまう遺伝子であり、そういう状況に置かれても生きられる環境が整ったことによってその遺伝子のキャリアの個体が有利になっていっただけです。それが、「進化論」です。遺伝子の突然変異が進化をもたらしたのではない。後天的な環境の進化が突然変異の遺伝子を持った個体を増やしていった。
 遺伝子の突然変異など、いつの時代にも起こっていることです。
 たとえば、二本の足で立って歩きたがる突然変異の遺伝子を持った個体など、人類が直立二足歩行をはじめるずっと前の時代かいくらでも生まれてきていたはずです。しかしそれらの個体はすべて淘汰されていった。なぜならそれは猿よりも弱い猿になることだったからです。でも、みんなが二本の足で立って歩くような環境になれば、そういう遺伝子の個体のほうが有利になってゆく。
 遺伝子の突然変異など、たんなる結果論です。
 ともあれ人間的な文化の進化発展は、より住みにくい環境に身を置くことによって起こってきた。
 より住みにくい環境に置かれるということは、誰もが生きられない存在になるということです。そしてその中に特別な生きられる個体が混じっていたとしても、その個体が生きるためには、ほかの個体と関係してはいけないのです。それは、自分も巻き添えになって生きられなくなる、ということだから。
 その生きられる個体は、繁殖力を持たない。その生きられることが繁殖力の邪魔になる。
 生き物が繁殖することは、生きられなさの中に身を置く行為です。繁殖して命を使い果たして死んでゆく。だから、生きられない個体のほうが繁殖力が豊かです。その生きられなさが、他の個体と関係しようとする衝動を生む。人間でいえば、生きられない個体のほうが他者にときめいている。生きられるかどうかはともかく、生きのびようとする欲望が強ければ、他者にときめかなくなる。その生が、「自分」だけで完結してしまう。完結していない生きられない個体だから、他者と関係してゆく。そうして他者にときめき繁殖することは生きられなくなるということであり、人は生きのびるために他者と関係してゆくのではない。それは、生きられなさの中に飛び込んでゆく行為です。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていったわけで、その結果として猿にはない旺盛な繁殖力を獲得していった。
 人間は、無意識の中に「もう死んでもいい」という感慨を抱えている存在であり、それが旺盛な繁殖力になっている。人類が生き残ってきたのはそういう逆説的な結果であって、「生きのびようとする欲望」によるのではない。


 人類は、二本の足で立ち上がったことによって強い猿になったのでも生きるのが上手な猿になったのでもない。生きられない猿になってしまったのです。しかしそのことによる旺盛な繁殖力によって生き残ってきた。
 生きられる猿になって自分の命を自分だけで完結できる存在になったのではない。完結できなくなってたえず関係している存在になっていったのです。
 つまり、人間を生かしているものというか人間性の基礎とは何かと考えるなら、それは、人と人の関係性の問題であり、人の心はそのことによってつねに左右されている。そのことによって精神を病んだり、ときめく知性や感性が豊かになったりしている。
「生きのびようとする欲望」が人類の歴史をつくってきたのではない。
 人は生きられなさを生きる存在であり、そのためにつねに他者との関係性の中に身を置いている。他者との関係性が、人の心のかたちをつくってゆく。
「生き延びようとする欲望」とは、いわゆる「自我」のことでしょうか。人間性の基礎は、「自我」にあるのではない、「自我」を持て余して人の心は病んでゆく。他者との関係に失敗して自我が肥大化してゆく。自我の肥大化によって社会的に成功することもあれば、失敗して精紳を病むこともある。どちらにしても、それによって人間的な知性や感性が豊かになるわけでもない。
 人と人は、「自分」を忘れてときめき合ってゆく。
 発達心理学でいえば、乳幼児の心の発達は、よくいう「自我に目覚めてゆく」というようなことではなく、「自分」を忘れて世界や他者にときめいてゆくタッチを身につけてゆくことにある。そこのところで失敗すると、本格的な知性や感性は育ってこない。
 心理学者がなぜ「自我の目覚め」を大切なことのように考えたがるかといえば、「生きのびようとする欲望」を人間性の基礎においているからでしょう。そしてそれはもう世界中の人間観の常識のようになっているから、それを否定して人間や原始人についての考察を進めようとすると、ここでの書きざまがとても回りくどくなってしまう。「それは違う」といわねばならない問題が次から次に出てきてしまう。
 ともあれ、原始人の知能や文化の起源について考える際の中心的な問題は、人と人の関係性にあるのであって、石器の発達のレベルがどうのというような問題ではない。
 ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスのどちらの知能が発達していたかとか、その知能の質がどのように違っていたかというような問題は、まず彼らの生態や歴史における「人と人の関係性」が問われなければならない。そこから人間的な文化が生まれ育ってきた。人の心は、それによって華やいでいったり病んでいったりする。
「生きのびようとする欲望=自我」で知能が発達したり新しい文化が生まれてきたりするわけではないのです。人類の高度な知能(知性や感性)も原始的なそれも、そんな未来など見ていない。目の前の「今ここ」の世界や他者、すなわちそういう一点に焦点を結んでときめいている。
 

 生きられないこの世のもっとも弱いものは、それだけ「今ここ」に対する意識が切実です。彼らには「今ここ」しかない。意識が「今ここ」の一点に焦点を結んで華やぎときめいている。
 この世のもっとも高度な知性や感性の持ち主も、生きられないこの世のもっとも弱いものも、意識が「今ここ」の一点に焦点を結んで華やぎときめいている。
 人の心の自然・本質、すなわち人間性とは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることにある。そうやって人は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」に親近感と連帯感を抱いてゆく。「介護」をすることは、人と人の関係性の基礎であり究極のかたちでもある。人の心は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になるところから華やぎときめいてゆき、知性や感性が生まれ育ってくる。
 人間は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になろうとしている存在です。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きようとする。そうやって二本の足で立ち上がったのであり、それこそがじつはこの世のもっとも高度な知性や感性のはたらきでもあるのです。人類は、そうやって猿のレベルを超えた知性や感性を獲得していった。
 「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、そうした人間性の形見=根拠として存在している。だから人は「介護」という行為をする。
 介護は人と人の関係性の基礎であり究極のかたちであり、人と人の関係性こそ人間的な知性や感性の基礎であり究極のかたちでもある。
 人は、介護をすることによって生きのびようとする欲望=自我から解放されると同時に、その欲望=自我が阻害される苦痛になったりもする。そのへんのところがやっかいです。現代社会は、しょうがなく介護をしている。だから、介護職の給料が上がらないのでしょうか。
 高齢化社会になって介護の負担が増大し社会経済が衰退してゆく、などともいわれているが、そのときこそ人類は、この生が生きのびようとする欲望=自我だけではすまないことに気づくのかもしれない。それは、けっして悲観的なことではない。そのときこそ心は華やぎときめいてゆく。
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