なんとかなるか?・ネアンデルタール人論70

原初の人類が二本の足で立ち上がることは、身体能力を大幅に後退させる体験だった。その姿勢はとても不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもなかった。それは「生きられない」姿勢だった。なのに人類は自然界で生き残ってゆき、さらにそこから進化発展していった。進化発展してゆかなければ生き残れなかったともいえる。つまりそうやって猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめた原初の人類が生き残ってくることができたのはその社会(集団)が無能であってもなんとか生きてゆけるような仕組みになっていったからであり、そのとき誰もが「生きられない無能なもの」になってゆき、誰もが「生きられない無能なもの」である他者を生かそうとしていった。彼らが二本の足で立って向き合うことには、そういういわば介護し合う関係になってゆく体験をはらんでいた。
生きられない無能なものは、生き延びることができるための合理的な思考や感性を持っていない。「もう死んでもいい」と命を懸けて飛躍してゆく。そうやって人類史にイノベーションが起きてきた。猿の方が人間よりもずっと生き延びるための合理的な思考や感性を持っている。猿の社会は、そうやって生き延びる能力を持った強いものから順番に生き残ってゆく仕組みになっている。それが彼らの社会の「順位性」です。
しかし二本の足で立ち上がって誰もが生きられない弱いものになってしまった人類は、「弱いものを生かす」というかたちでしか社会が成り立たなかった。そのとき人と人は、生きられない弱いものである他者を生かそうとし、みずからが生きられない弱いものとして他者から生かされるという関係になっていった。そこではもう猿社会のような「順位性」は成り立たなかったし、しかしそれゆえにこそ人間的な高度な連携プレーが育っていった。その基本的なコンセプトは、他者を生かそうとし、他者から生かされる関係になる、ということにある。


人間社会はほんらい無能であってもあってもなんとか生きてゆけるような仕組みになっているし、無能なものの方が豊かな知性や感性を持っている。そこから人類史の進化発展のさまざまなイノベーションが起きてきた。つまり、無能であっても生きられるというかたちで進化発展が起きてきた。空を飛べない無能な存在なのに空を飛べる飛行機を生み出した。幸せ(リア充)なんか望まなければ、なんとか生きてゆける。また、幸せ(リア充)なんか望んでいないのが人間の本性・自然です。
原初の人類は「もう死んでもいい」と思い定めて二本の足で立ち上がった。
現在の直立二足歩行の起源仮説はすべて、それが生き延びるために有効だったという合理的な論理の筋道を立てるようにして提出されているが、そうじゃない、それは生き延びることができない姿勢であり、「もう死んでもいい」と思い定めてゆく体験だった。
人は、その本性・自然において生き延びることができる幸せ(リア充)なんか望んでいない。人類にとって生きることはもともと「もう死んでもいい」と命を懸けてゆく体験だった。そしてそれは、他者を生かし他者から生かされるという、生きられないものが生きられる社会になってゆく体験でもあった。
人と人がときめき合うことは、たがいに生きられない弱いものになってゆく体験である。そうやって人は「もらい泣き」をするし、悲劇に感動する。人は泣ける話が好きだ。
生き延びることができる幸せを共有してゆくといっても、生きられないものが生き延びることに感動があるのであって、生き延びる能力を持つことが感動=ときめきを担保しているのではない。
おそらく、生き延びる能力を共有してゆくことが人類の理想の社会であるのではない。どのようなかたちであれ生きられない存在になってゆくのが直立二足歩行の開始以来の人間性の自然であり、生き延びる能力を持ってしまえば世界や他者に対する反応が希薄になってゆき、知性や感性は停滞し衰弱してゆく。つまりそうやって生命賛歌をしながら仲良くなっているが、ときめき合っているのではない。仲良くしている夫婦や恋人同士があんがいセックスレスの関係だったり、生き延びるために仲良く一緒に働いてきた仕事の仲間が会社を離れたとたんに疎遠な関係になってしまうのはよくあることで、今どきの「リア充」という言葉にも人々はすでにそんな不自然でネガティブなニュアンスを感じている。
生き延びる能力を共有していってもときめき合う関係にはなれない。生き延びる能力を持つこと自体が知性や感性の不調だからです。
人と人の関係の基礎=自然は、生きられない「嘆き」を共有してゆくことにある。そうやって人類は生き残ってきたのだし、そこにおいて人はときめき感動している。


人類の歴史は、無能であってもなんとか生きてゆけるような社会の仕組みをつくってきた。それが人間的な「介護」という生態であり、人間の赤ん坊はほかのどんな動物よりも生きることに無力な存在なのになんとか生きていけるわけで、それが文化的にも生物学的にも人類史の進化発展の基礎になっている。
戦前までのこの国の社会は、働かなくてもなんとか生きてゆけるような仕組みがあった。まあ「乞食」という職業が存在したのはその典型だといえるかもしれない。乞食は世界中にいるし、乞食でもなんとか生きてゆける仕組みを持っているのが普遍的な人間社会の自然だともいえる。
ヘーゲル人間性の基礎・本質は労働にあるといったが、人類の歴史は生き延びるための労働として進化発展してきたのではない。それは、生き延びることに無能な「もう死んでもいい」と命を懸けてときめき感動してゆく飛躍によってもたらされてきた。
まあ人の世の中は、働くのがいやなものの方が命を懸けて夢中になってゆくことの醍醐味をよく知っている。「もう死んでもいい」と思い定めてゆく度胸を持っている、と言い換えてもよい。人類は人間性の基礎としてそういう度胸を持っているから進化発展の歴史を歩んできた。
人類史に「労働」とか「職業」という概念が生まれてきたのは、とても新しいことのはずです。人類が肉食を覚えたのは、生き延びるための労働ではなく、ひとつの祝祭=遊びの体験だった。そうして、祝祭=遊びとして農耕牧畜を覚えていった。それは、生き延びるための労働だったのではない。
縄文人が稲作を覚えたのはひとつの遊びだったのであり、収穫したそれをお祭りの食べ物にしていただけで、生き延びるための主食にしていたのではない。日本人の誰もがいつでも米を食べられるようになったのは、げんみつには戦後のここ数十年のことだともいえる。そして今でも米は、祭りのときの神への捧げものになっている。
世界中が、祭りのときには食い物を神に捧げる。人類にとって生きることはひとつの「祝祭」だったのであって、労働だったのではない。
人類史において労働としての「職業」が生まれてきたのは共同体=国家の発生以降のことであり、同時に職業を捨てた浮浪民も現れてきた。そうやって共同体の制度から逸脱した乞食や芸能民や職人や宗教者や娼婦といった階層が生まれてきた。彼らは、共同体の労働という制度から逸脱した「祭り=遊び」の行事を盛り上げる存在になっていった。
人は「祭り=遊び」の体験がないと生きられない。原初の人類の直立二足歩行の開始そのものがすでに「祭り=遊び」の体験だったのであり、「祭り=遊び」として生きる歴史を歩んできた。
だから、労働の発生は、必然的に労働しない階層を生み出すし、人間的な文化はそういうものたちによってリードされてきたともいえる。
日本列島古代の巨大前方後円墳づくりは、もともと支配者が権力を誇示ために民衆を使役したというものではなく、民衆自身の祝祭の行事だった。彼らはそれをつくって天皇という神の墓として捧げた。だからそれは「みささぎ」といったし、実在の天皇ではなくヤマトタケルのような伝説中の架空の人物の墓として伝承されている例も多い。
人類の「祝祭」の本質は、死者を弔うことにある。そうやって埋葬という葬送儀礼が生まれてきたわけだが、二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になった人類は、一年中発情して猿以上に繁殖しつつ、猿以上にたくさんの死者を見送る歴史を歩んできた。そうやって死を意識する存在になり、死を意識しつつ心が華やいでゆきながら死者を弔う作法を覚えていった。おそらくこれが「祝祭」の起源であり、その歴史は原初の人類が二本の足で立ち上がったところからすでにはじまっていたともいえる。
死者を弔いつつ「もう死んでもいい」という心地になってゆく「祝祭=遊び」が人類の歴史をつくってきたのであって、生き延びるための「労働」の歴史だったのではない。
文明社会の歴史は、つねに「労働」から逸脱してゆく階層を生み出してきた。学者や芸術家やスポーツ選手や芸能人や宗教者や娼婦や働きたくないニートや働けない障害者たちはすべて「労働」から逸脱している存在だし、その中間にいるわれわれだっていやいやしょうがなく働いているだけであり、その嘆きを共有しながらときめき合っている。そうして現代社会では、仕事の生き甲斐とか幸せの「リア充」とかを共有しながら生き延びる能力を称揚しているものたちから順番に認知症鬱病やインポテンツになってゆく。彼らは仲が良いが、ときめき合っているのではない。ときめく心を失っているから、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
働かないと生きてゆけないなんて嫌なことだが、ひとまず平和で豊かな社会だから働きさえすればなんとか生きてゆける。最低の人間には最低の仕事が与えられるし、最低の仕事なんかいやだ、といわなければなんとか生きてゆける。それでも働けない障害者や病人や老人や赤ん坊や子供もひとまず介護して生かされている。無能な人間が生きていられる社会でなければ、文化の進化発展はない。人類は、ひとまずそういう社会をつくって歴史を歩んできた。
生活保護というシステムもあるし、まあいろいろ「まぎれ」はあるにせよ、たとえばインドの最下層のカーストの人間もなんとか生きているし、乞食に施しをするメンタリティは普遍的な人間性のひとつとしての「介護」であると同時にひとつの「祝祭」だといえる。


人類は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生かそうとする歴史を歩んできたし、人が生きてあることそれ自体が「生きられないこの世のもっとも弱いもの」という位相の上に成り立っている。人は、生きられなさを生きる。そこから文化のイノベーションという進化が起きてきた。
 生きられなさを生きることによって、思考の「飛躍」が生まれる。人間的なその傾向はもう、700万年前に二本の足で立ち上がったときからはじまっている。人類史の半分は同類の猿と見かけも知能(脳容量)も変わるところはなかったが、明らかに生態は異質だった。そのとき人類は、猿よりももっと無能で無防備な猿だった。したがってそこから一気に猿のレベルを超えて進化発展してゆくことはなかったが、その無能で無防備な猿として生きられなさを生きる歴史が、その後の爆発的な進化発展につながっていった。
 生き物の進化に「目的」などない、それは、無能で無防備であることによって起きる。無能な個体のほうがたくさん子孫を残し、その層のレベルが「底上げ」されていっただけなのです。
 有能といっても相対的に有能だというだけで、絶対的に有能な個体など存在しない。生き物は、必ず死ぬ。そして相対的に有利だということは、他の個体を押しのけるというか競争に勝っているだけのこと。競争に勝っていれば、他の個体に対する関心は薄くなる。自分の横にも前にも他の個体はいないから、他の個体との関係の意識が希薄になる。
 猿山のようにボスが生殖の権利を独占しているといっても、べつに有能なメスを選んで生殖しているわけではない。無能なメスのほうがボスの庇護を必要としているから、それだけ生殖の機会も増え、無能なメスの遺伝子がたくさん残ってゆく。なんのかのといっても子を産むのはメスであり、無能なメスのほうが繁殖の機会は多いのです。
 ボスの遺伝子だけが残ってゆくということは、オスの遺伝子の優劣はないということを意味するだけです。ボスよりも有能な遺伝子は残らない、したがって進化は起こらない。ボスが生殖の権利を独占している場合のほうが進化の契機は少ないのです。
 人類に比べて猿はほとんど進化していない。人類は、一年中発情して誰もが生殖する乱婚の関係で歴史を歩んできた。そうして種全体としても猿よりも無能で、猿よりももっとたくさん無能な最下層のレベルの個体が生き残っていったが、あるときを境にしてその層の能力がどんどん底上げされていった。
 無能な個体のほうが進化の契機を多くはらんでいる。そして人類は、どんなに能力が上がってもなお「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きる生態を持っている。それが、人が生きてあることの根源・自然のかたちであるはずです。


 だいたい、生きる能力がないと生きられないのなら、赤ん坊が生き残って成長してゆく余地などないことになる。
 生きる能力のない個体が生き残ってゆかないことには、種が存続することはできない。種が存続するためには、生きることに有能であることなんかたいして重要ではない。ほとんどの高等生物の世界では、すべての個体が「赤ん坊」という生きることに無能であるところから生きはじめる。その「無能」である状態を生きることができる生態を持っていなければ、種の存続はない。
キリンの進化史のはじめは首の短い個体のほうが多く生き残っていった。つまり、生きることに無能な個体のほうが多く生き残っていったということです。そしてそういう無能な個体群の首が長くなっていったのがキリンの進化史です。ボスのいる猿山の猿があまり進化しないのと同じで、首の長い個体ばかりが生き残ってゆくのなら、もうそれ以上は長くならないのです。あんなにも際限なく長くなっていったのは、その進化史において、より首の短い個体のほうが多く生き残ってきたからです。どんなに長くなっても、まだ長さにおいて「無能」だったから、さらに長くなっていった。どんなに長くなっても、樹木の上のほうの毒性が少なく美味しい若葉ばかり食べて生きてゆくには、まだ足りなく、まだ無能だった。
草食動物にとって、もともと木の葉は有毒なものであるらしい。キリンは、その毒を食べながら、解毒する体質や長い首を獲得していった。その「無能」であることの艱難辛苦がキリンの首を長くしていった。もしかしたら木の葉に毒性がなかったら、キリンの首はあんなにも長くならなかったのかもしれない。
そしてこのことには、ネアンデルタール人が生きられない氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったこととの共通点を見出すことができる。彼らの体型や体質があんなにも変わっていったのもひとつの「進化」であり、そこにいたるまでには、生きられない弱いものが辛うじて生き残ってゆくという艱難辛苦の歴史があり、それによって生まれてきた彼らならではの生態=文化があった。彼らの体型や体質は生きてきたことの「結果」であって、それによって生きてきたのではない。彼らの先祖がはじめてそこに住み着くようになったのはおよそ50万年前で、そのときの体型や体質が5万年前の完成されたネアンデルタール人と同じであったはずがない。考古学においても分子生物学においても、50万年前はヨーロッパもアフリカもほとんど同じような体型や体質だったという証拠が提出されている。それでも彼らの先祖がそこに住み着いてゆくことができたのは、数百万年かけてアフリカからそこまで拡散してきた歴史によって培われてきたメンタリティや生態を持っていたからです。
人類は、「無能」を生きる、という生態を持っている。人類が「無能」を生きる存在である限り、進化し続ける。まあこの先の人類がどうなってゆくのかということはよくわからないが、個人の人生において、進化し続けることができる人はきっと、生きることに有能なのではなく、「生きられなさを生きる」というタッチを持っているのでしょう。進化の過程にあったキリンの首がどんなに長くなっても木の上の若葉だけを食べて生きるにはまだまだ無能であったように、生きることに無能であることの艱難辛苦から進化が起きてくる。
ネアンデルタール人だって、どんなに頑丈な体型になってもまだ、子供の半分以上は大人になる前に死んでいったし、大人だっていつ死ぬかわからない不安定な生存の状態に置かれていたのです。しかし、だからこそ、その生きてあることに無能であるという心の位相から文化のイノベーションが起きてくる。


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集団的置換説の研究者たちは、最終氷河期のヨーロッパで原始人の文化を花開かせたクロマニヨン人はアフリカから移住してきた人々だったと決めつけているが、その文化は、ネアンデルタール人とその祖先たちによるそこに住み着いてきた艱難辛苦の歴史がなければ生まれてこなかったはずです。
生きることに有能であることが文化のイノベーションを生み出すなどという思考は、「進化論」の問題として間違っている。それは、生きることに無能であるという状況から生まれてくる。
 生きることに無能であることこそ生き物の生のいとなみの根源のかたちであり、無能であるからこそ「いとなみ」という行為が生まれてくる。まあ、有能であればあるほど、命のはたらきも知性や感性も鈍くなってゆくのです。進化論において、有能な個体が子孫を増やしながら進化してきたということなどありえないのです。有能な個体は、進化しないのです。無能な個体でなければ進化は起きない。
 遺伝子の突然変異によって進化が起きる、などという単純な問題ではない。首が長くなる遺伝子の突然変異など、キリンだけでなくすべての生き物で起きているし、首の短いキリンばかりの中からでも起きてくる。なにも首の長い個体に子孫を増やしてもらわなくとも、首の短い個体どうしの交配でもキリンの首が長くなってゆくという進化は起きる。首の長い個体はつねに選別的に淘汰されてゆくという状況でも、種として首が長くなってゆくという進化は起きるのです。
 首が長くなる遺伝子の突然変異など、牛や馬でも犬や猫でも起きている。それでもそれ以上長くならないのは、長くなっても無意味だからでしょう。キリンは、首が長くなるほかない生態を持っていたから長くなっていった。そういう生態を持っていたら、牛や馬でも犬や猫でも長くなってゆく。そういう生態を持っていなければ、たとえ遺伝子の突然変異が何度起きても長くなってゆかない。そうしてキリンは、どんなに長くなっても「まだまだ短すぎて生きられない」という状況の歴史を歩み続けたからあんなにも際限なく長くなっていった。その「生きられない」という状況が、キリンの首を長くした。
 首が長くなる遺伝子の突然変異など、すべての生き物のすべての時代で起きている。それは、息をするのと同じような生き物にそなわったとうぜん起きてくる与件のようなもので、それによって長くなっていったというだけでは進化論にならない。
「遺伝子の突然変異で進化が起きた」と何か鬼の首でも取ったような言い方してすませるなんて、思考停止もいいとこだと思う。遺伝子の突然変異で首の長い個体が生まれてくることなどキリンの長い進化史のいつの時代にもあったことだし、馬や牛の歴史でもいつでも起きてきた。突然変異などしょっちゅう起きている進化史の必然であって、一回きりの偶然でも何でもない。それでもキリンの首だけが長くなっていったのは、そうなってゆく契機が生態としてあっただけのこと。それはいつでも起こりうることだが、そういう契機が熟さないと起こらない。
「生きられない」という「無能性」こそ進化の契機になる。こんないい方をすると非科学的な文科系の思考にすぎないといわれそうだが、しかしたとえば、赤ん坊が成長してゆくのは生きられない無能な存在だからなのではないのか。キリンの赤ん坊の首は、大人ほどは長くないのです。首が短い個体でも生き残ってゆかないことには種の存続にならないし、首が長くなる契機は首が長い個体よりも首が短い個体のほうが持っている。首が短い個体のほうがたくさん生き残らないことには種として首が長くなってゆくという進化は起こらない……科学的なシュミレーションで計算をすればそういう結果になるのだそうで、その計算値を今、世界中の生物学者が進化論の問題として注目しているのだとか。
 草食動物にとって木の葉は有毒なものらしいのだが、キリンやコアラはそれを解毒する体のシステムを持っている。キリンにとっても、最初は有毒なものだった。が、首の長い個体は、高いところに生える毒性の弱い若芽ばかり食うことができた。だから、いつまでたっても解毒の体質が進化せず、そのぶん寿命も短かった。しかし、下の方の毒性の強い木の葉を食べるしかない首の短い個体群はいち早く解毒の体質になっていった。キリンは、解毒の体質が整ってから首が長くなりはじめた、ということもあるのかもしれない。
 進化論においては、「適者」が生き残ってゆくとはかぎらない。
 チンパンジーやゴリラはいちばん強い個体の遺伝子しか残らないからいつまでも進化が起きないで今や絶滅危惧種になっている、ともいえる。
「適者生存」という概念では進化論の説明はつかない。「不適合者生存」でなければ進化は起きない。「不適合者」こそ進化の契機を持っている。生き物はかならず死ぬということは、生き物はすべて「不適合者」であるということであり、「不適合者」であることが生きるいとなみ(=命のはたらき)が生まれてくる契機になっている。
 物理学のことはよくわからないが、ものが動くということは、「応力」がはたらくから起きることであり、基本的には自動的に動くということはありえないはずです。生き物の「生きる」という動きだって、「生きられない」という応力がはたらいて起きていることでしょう。
「生きられない」ということこそ、「生きる」ことの契機=応力になっている。生きられない個体群が進化を生み出す。
 われわれ生き物は、生きられない赤ん坊であるところから生きはじめる。そして、生きられない赤ん坊こそ、もっともダイナミックに成長・進化する。生き物が生きはじめるところを問えば、「適者生存」などという進化論は成り立たない。


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 個人史だけでなく種全体の歴史においても、「生きられない」という状況の中で進化してゆく。
 生きられる「適者」が進化を生み出すわけではない。生きられる「適者」になることは、進化の契機を失うことなのです。
 人の心だって、生きられる「適者」になることによって停滞し、病んでゆく。人の心は、生きられる「世界の調和」という概念=観念に浸されながら病んでゆく。自閉症スペクトラム統合失調症鬱病認知症も、つまるところ「世界の調和」という概念=観念に執着し、そこから追い詰められながら病んでいっている。それはつまり「適者生存」という幻想でもある。近代合理主義の現代社会は、人々がそういう幻想に浸されてしまうような構造を持っている。
 そしてそれでも人は、無意識という人間性の自然において、みずからを「不適合者」と思い定めながら、そうした自分を忘れ自分から解放されながら今ここの目の前の世界や他者にときめきながら生きている。
「進化」とは「ときめき」の別名であり、心を病むとは「ときめき」を失うということです。まあ現代人は、「ときめき=進化」の代わりに「リア充=幸せ」という「停滞」に浸ってゆく。
 ここで考えている「進化」は、何もキリンの首が長くなってゆくことだけを問題にしているのではありません。人の心模様や文化の起源の問題でもあると考えています。
 人の心模様としての「ときめき」は、「不適合者=無能」であるという自覚から生まれてくる。人類は、「不適合者=無能」であり続ける「歴史=進化」のいとなみとして、地球の隅々まで拡散していった。その「歴史=進化」の果てに、ネアンデルタール人とその祖先たちは生きられない氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。ネアンデルタール人こそ、人類史上もっとも豊かな「ときめき」の心模様を持っている人々だった。人類史のさまざまな文化の起源がそこになかったとどうしていえるのか。なかったといい切ってはばからない置換説の研究者たちの思考は、どうしようもなく低俗で病んでいる。ネアンデルタール人は頑丈な体型だけでその地に住み着いていてどんな文化も知能も持たなかったんだってさ。同じころのアフリカ人のほうがずっと知能も文化も進んでいたんだってさ。しかしそんなことは、「進化論」の問題として成り立たないのです。ほんとに置換説の論者たちの考えることはくだらない。人類の知能や感性に対する想像力や思考力が、まるでなっていない。
「適者生存」という概念で考えても進化論の説明はつかない。
 進化論においては、適者だから淘汰されるとか、不適合者がなんとか生き残りながら進化してゆく、ということも起きている。
 ネアンデルタール人は、その苛酷な環境のもとで、生きられない「不適合者」として生きながらクロマニヨン人に進化していった。
 進化の逆説、とでもいうのだろうか、人類の歴史も、まさにそのようにして流れてきた。
 まあ、人が生きられない無能な存在になってゆくことは否定できない。誰もが生き延びる能力をそなえた存在になることなどありえないし、そなえねばならないともいえない。無能であることこそ人間性の自然なのだから。
 無能な存在として「もう死んでもいい」と思い定めたところから心が華やいでゆく。人は「命を懸けて」生きている。ときめくとは「命を懸ける」心模様であり、そうやって人と人は「命のやりとりをする」ようにときめき合っている。
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