現代社会の閉塞感・ネアンデルタール人論42

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、自然の摂理において生きてあることが許されていない存在であり、しかしそういう存在の仕方の尊厳というものがある。ネアンデルタール人は、そのことを最初に気づいた人類であったともいえる。そうやって彼らは生きられない弱いものを介護していた。
「憎しみ」は、その相手が永遠に生きてゆくように見えてしまうところから起きてくる。それがめざわりで、許せなくて、殺したくなるし、戦争が起きる。
 その世界観に「世界の調和」という基準値を持っているから憎しみが生まれてくる。
 世界からはぐれてあるものにとっての世界は、調和でも混乱でもない。世界はぼやけていてよくわからない対象であり、その中の「一点」が確かに見えているだけです。そうやって世界からはぐれてしまっている。
 ろくな文明を持たない原始人が生きられるはずがない苛酷な環境の中を生きていたネアンデルタール人の世界観に、「世界の調和」などというものはなかった。原始時代の氷河期の真冬の荒涼とした原野を前にして、どうして「世界の調和」などというものを実感したり希求したりすることができよう。
 心は世界からはぐれていたから、そんな苛酷な環境の世界を生きることができた。そんな苛酷な環境のすべてに心や視覚の焦点を結んでいたら、発狂してしまう。彼らの心は、そこからはぐれつつ、世界の一点に焦点を結んでときめいていた。たとえばそれは、世界はよくわからないけど世界の中の一点である「あなた」という他者の存在は深く確かに実感している、ということであり、「あなた」がこの世界に存在するのならほかのことはすべてどうでもいい、という心模様です。そういう「一点に焦点を結んでゆく」心模様で彼らは、氷河期の北の原野を生きていた。
 生きられないこの世のもっとも弱いものは、世界をまるごと感じてゆくことなんかできない。彼らは、世界をまるごと感じてしまうことから逃れて世界の一点に焦点を結んでゆく。
 世界と向き合っていたら、世界を見ないですむはずがない。その苛酷な環境である世界と向き合うためには、世界の一点に焦点を結んでゆく以外にすべはない。ネアンデルタール人の心は、世界の一点に焦点を結んでゆくというかたちで世界と向き合い、そして世界からはぐれていた。


 現代社会の閉塞感……などという。
 都市は繁栄しているが、地方は疲弊している。富の寡占状態が進み、金持ちのふところはさらに潤い、貧乏人はいつまでたっても貧乏人であるしかない。若者のあいだでは、働かないニートやメンヘラがどんどん増えている。閉塞感が募って、やる気が起きない。ますますだめ人間になってゆく……そんなところから彼らはどうやって立ち上がってゆくのか。
 社会に関心を持て、社会のあらゆる情報にアンテナを張りめぐらせてゆけ……などといっても説得力はない。そんなことをしていたらかえって自分の置かれた環境の閉塞状態が骨身にしみて、なおみじめになってしまう。
 よく考えたらこれは、氷河期の北ヨーロッパという環境に置かれていたネアンデルタール人の立場と似ているところがある。彼らもまた、氷河期の北の原野に閉じ込められていたわけで、そこでどのようにその閉塞感を克服していったかといえば、冬の原野そのものに関心を持っていったわけではないでしょう。冬の原野と向き合うほかない暮らしだったが、冬の原野そのものではなく、その中の一点である鹿やマンモスや牛や馬などの草食獣の狩に熱中していった。そういう「一点」に意識の焦点を合わせ、ときめいていった。そこから心は華やいでいった。
 現在のニートやメンヘラの若者が立ち上がることがあるとしたら、社会の中の「一点」に焦点を結んでゆくときであって、社会そのものに広く関心を向けてゆくことではない。自分の人生を展望することではなく、「今ここ」という「一点」を生き切ろうとすることにある。
「今ここ」という「一点」である「あなた」にときめいてゆくとか、何かの趣味や遊びに夢中になるとか、そういう体験が彼らの心に華やぎを持たせる。
 彼らが、「政治が悪い」だの「社会の状況が間違っている」だのと叫びだすことはおそらくないだろうし、「自分の人生に夢や計画を持つ」ということもない。
 ネアンデルタール人は、意識の焦点を「一点」に結んでゆくことによって、その閉塞感を克服していった。その閉塞感から解放されていった、というべきか。まあそうやって男と女がときめき合って旺盛な繁殖力を持つことによってその苛酷な環境を潜り抜けていった。そういう苛酷な環境に置かれていたからこそ、夜になって抱き合えば、この世に存在するのは「あなた」だけだという心地になっていったのです。家族を持たない乱婚の習俗であった彼らはもう、毎晩そういう心地になっていったし、相手が誰であってもそういう心地になっていった。
 彼らの意識に、予定調和の世界観などなかった。そんな世界観は、持ちたくても持てなかった。そうして意識は「今ここ」の一点に焦点が結ばれていった。
 閉塞感から解き放たれる体験は、「「今ここ」の一点に意識の焦点が結ばれて「消えてゆく」ことにある。「消えてゆく」ことの華やぎがあり、ダイナミズムがある。
 それは、「世界の調和」や「人生の調和」に向けて自我が拡大してゆくことにあるのではない。そうやって人生の成功者になることを夢見るとか、社会の平和と安定を構想するとか、死んだら天国や極楽浄土に行けると信じるとか、そういうことではない。そんな自我の拡大でこの閉塞感から解放されるわけではない。
 世界や他者にときめくとは、自我=自分が消えてゆく体験です。我を忘れて夢中になるとは、「消えてゆく」体験です。
 現代社会の閉塞感にあえぐ「弱いもの」たちは今、「ときめく」という「(自我の)消失点」を模索している。人生の成功者になることを夢見るとか、社会の平和と安定を構想するとか、死んだら天国や極楽浄土に行けると信じるとか、そんなことを煽動するのは、よけいに彼らを追いつめてしまうことになる。そんな「自我の拡大」が解決になるわけではない。
 自我の消失点にこそ、解放がある。


 人間なんか、誰だって世界からはぐれた「ひとりぼっち」の存在です。そして「ひとりぼっち」の存在は「ひとりぼっち」で生きているかというと、そうではなく、世界からはぐれてしまった「ひとりぼっち」だからこそ世界の中の「あなた」という一点に焦点を結んでときめいているのです。そのつどそのつどの出会いのさまざまな「あなた」にときめいてゆくのです。そのとき意識は、時間としての「今」や空間としての「ここ」という一点に焦点を結んでゆく。
 人の心は、根源的には、過去から未来に向かう飴のように延びた「人生」という名の世界の調和をつくろうとしているのではなく、「今ここ」という一点を生ききろうとしている。そうやって心は、ときめきながら漂泊している。おそらくこれが、人間の基本的な生のかたちなのでしょう。
 人間の意識は、一点に焦点を結んでゆく。
「この世のもっとも弱いもの」の意識こそ、もっとも世界からはぐれて漂泊し、もっとも鮮やかに一点に焦点を結んでときめいている。
 われわれの視覚は、世界の全体に焦点を合わせて見ることはできない。
 それに対して「自分」は、ひとつの「全体」です。頭、胴体、手、足……という全体。皮膚、肉、内臓、骨……という全体。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚……という全体。意識が「自分」にフォーカスしているとき、それらの全体をひとつの「世界」として統合し、調和させてゆこうとしている。
 と同時に、それらはすべて独立した「一点」のはたらきでもある。怪我をすれば、怪我した部分だけが痛いのであって、全体が痛いのではない。それらをすべて「部分=一点」として意識の焦点を合わせてゆくことができなければ、生のいとなみにならない。
 梅干を見れば酸っぱい心地がして唾が出てくるが、その梅干の正味の酸っぱさは舌でしか味わえない。味覚が発達しているということは、舌の感覚が発達しているということでしょう。それは、舌という一点に対する集中力(焦点を合わせる力)が発達しているということです。
 全体の統合調和の意識が強すぎると、かえって部分部分の感覚が鈍くなる。意識が一点に焦点を結ばない。そうして環境世界と自分の身体との境目もわからなくなったりして、それを統合失調症という。環境世界に対しても自分に対しても「一点に焦点を合わせる」ということができなくなっている状態です。
 自分の身体を「一点」と認識することによって、環境世界との境目もたしかになる。つまり、「ひとりぼっち」の存在になる、ということ。そこではじめて世界=他者にときめいてゆくことができる。そしてこの「一点」は「消失点」でもあり、自分を忘れてときめいている。
 意識が自分にフォーカスして自分をひとつの世界として統合調和させようとばかりしていると「一点に焦点を結ぶ」というはたらきが鈍くなって、体の動きも、物の味に対する感覚も、人の気持ちに対する想像力も鈍くなる。世界を統合しようとするから、統合失調になってしまう。環境世界と自分の身体との境目がわからないというのは、世界が統合調和している状態です。唯我独尊=自閉症の境地、そのとき自分に対しても世界に対しても、すべてに焦点が結ばれている。統合失調症は、世界がぼやけているのではない。世界のすべてに焦点が結ばれているからこそ、「あの人たちが自分の悪口をいっている」という「幻聴」が聞こえてきたりする。
 世界がぼやけて見えているのは、むしろ自然な状態であり、そうやって一点に焦点が結ばれている。


 世の中には怠惰でどうしようもない人間がたくさんいる。しかしそこにこそ人間性の自然があり、人間社会は不可避的にそういう存在を生み出してしまう。現代社会は、生きのびることが人類の理想で生きのびるための「労働」こそ人間性の本質だと合唱しているが、その一方で怠惰なニートやフリーターの若者がどんどん増えてきている。
 彼らは、ぼんやりして生きている。しかしそのぼんやりしていることこそが、意識が一点に集中して焦点が結ばれてゆく契機になる。
 緊張して自分のあれこれ世界のあれこれを気にしてばかりいると、意識が一点に焦点を結ばなくなり、かえって鈍感になってしまう。
 現代人は、自分のあれこれを語り世界のあれこれを語りながら鈍感になってゆく。意識が一点に焦点を結ぶことがないから、世界や他者に対する「反応」が鈍くなって抑うつ状態に陥ってしまったりする。
 ニートやフリーターたちは、自分のあれこれも世界のあれこれも見ていない。ただもうぼんやりして、ぐうたらで、だめな若者たちなのでしょう。しかしその緊張感のない気だるさの中にこそ、意識が一点に焦点を結び華やぎときめいてゆく契機が潜んでいる。
 彼らは、この世はウザッタイことばかりだと嘆いている。それも一種の閉塞感でしょうか。その圧力を受けて意識が一点に焦点を結んで華やぎときめいてゆく。
 彼らは、自分の人生の行く末なんか想い描かないし、夢見ない。バブル経済の恩恵に浴して生きてきた大人たちと違って、衣食住に関する欲望も薄い。世界はぼやけている。しかしだからこそそれは、何か一点に向かって華やぎときめいていることの証しである。何か一点に向かって華やぎときめいているからこそ、世界がぼやけて見える。
 いったい彼らは、何にときめいているのだろう。もちろん「世界の調和」ではない。彼らにとって世界はわけがわからなくうざったい。その閉塞感やわけのわからなさに押されて一点に焦点を結んでゆく。
 たとえば今どきのギャルのかわいい系ファッションは、破天荒な色やかたちを組み合わせながら、彼女らなりにそれ以上でも以下でもない「これがかわいい!」という一点を心得ている。その混沌の中からその一点を見つけ出すセンスを持っていて、それはもう、外国のギャルにはどうしても真似できないらしい。それは、日本列島の着物の色や柄の組み合わせの伝統の上に成り立っているセンスなのです。
 日本の着物の色や柄の組み合わせは、ヨーロッパの常識からすると、そうとう変則的らしい。
 ヨーロッパ人は、最終的な調和を目指して最初から弁証法的に色や柄の組み合わせを構築してゆく。それに対して日本列島では、いったん「混沌」の中に身を置き、その困惑に身もだえしながら「これだ!」という一点を見出してゆく。前者が世界の調和を構築しながら自我の充足にまどろんでゆくとすれば、後者は自我を捨てて一点にときめいてゆく。美の流儀、思考の流儀が、ちょっと違う。ギャルのファッションだって伝統的な着物の色や柄だって、そういう美意識の上に成り立っている。そしてそれは、とても原始的な感覚なのです。
 ネアンデルタール人だって、その氷河期の極寒の原野という苛酷な環境の圧力にさらされながら、その中の他者や動物などのその「一点」に焦点を結び、華やぎときめいていった。世界の調和を構築して生きのびようとするなら、とっくに住みよい南の地に移住していっている。苛酷な環境であることそれ自体が、彼らの心に華やぎとときめきをもたらした。
 日本列島の伝統=歴史は、そういう原始性を引き継いでいる。


 一点に焦点を結んでゆく意識のはたらきが、人間を生かしている。その「ときめき」から人類史の文化が生まれてきた。
 一点とは、「今ここ」ということです。
 今どきのニートやフリーターたちは、「今ここ」の何にときめいているのだろう。この世界がどんなに閉塞感に満ち、わけがわからない息苦しい世界であったとしても、人の心はそこから世界の一点に焦点を結びときめいてゆく。そういう「今ここ」という一点に憑依してゆくのが人の心です。
 人の心は、世界=世間を嘆きつつ、世界=世間の一点に焦点を結んでゆく。
「広い世界に出る」ことが人の心の解放であるのではない。現在のグローバル資本主義はまさに広い世界に出て活躍しているが、一部の成功者をのぞいた多くの人々にとってそれは「嘆き」の対象でしかない。貧富の差を大きくしていっている元凶だと、さかんにいわれている。
 だから貧富の差をなくせといったって、その試みであったはずのマルクス主義社会がつぎつぎに挫折していったのが20世紀だった。貧富の差をなくして「世界の調和」を構築しようとしたが失敗に終わった。
 そして多くの知識人が、その主義思想は悪くなかったがやり方が間違っていた、という。
 そうじゃない、その「貧富の差をなくす」という主義思想が不自然だったのです。
 貧富の差が存在することは、文明社会というか経済社会の与件のようなものでしょう。
 いまさら人間の社会から「お金=貨幣」をなくしてしまうことはできない。「お金=貨幣」で動いている社会であるかぎり、貧富の差はどうしてもできてしまう。貧富の差など、どこの社会にも、どの時代にもある。


 この世のもっとも豊かなときめきは、この世のもっとも弱いもののもとにある。人間は、誰の中にも「この世のもっとも弱いもの」としてときめいてゆく心の位相を持っている。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、そういう体験だった。そこから人類の歴史がはじまった。
 この世界の一点に焦点を結んでときめいているものは、不可避的に「貧しいもの」になってしまう。この世の中は金持ちが少しで貧乏人がたくさんいるというのなら、人間性の自然が貧乏人のもとにあるからでしょう。貧乏人になんかなりたくないが、人の心の自然は世界=世間を嘆くようにできているし、そこから華やぎときめいてゆくようにできている。
 生きられない弱いものとして生きてしまうのが人間性の自然です。心はそこから華やいでゆく。
 冒険家とは、あえて生きられない状況に身を置いてそこで生きようとする存在です。そうやって「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になっている。
 人が「何・なぜ?」と問うことだって、本質的には「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の心の動きです。だから、乳幼児はさかんにそういう質問をして大人を困らせている。
 そうやって意識は目の前の一点に焦点を結びながら、「何・なぜ?」と問うてゆく。
 生きられないこの世のもっとも弱いものの意識は、「今ここ」の目の前の一点に焦点を結んでゆく。
 現代社会の閉塞状態は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の心の動きを生み出してしまう。そしてそこから「今ここ」の一点に焦点を結んで華やぎときめいてゆくことこそ、人間性のダイナミズムです。
 この国ではひとまずそのようにして「かわいい=ジャパンクール」の文化が花開いていったし、この世のもっとも弱いものとして生きようとするニートやフリーターの若者を多く生み出してもいる。彼らはほんとうにぐうたらでだめな若者たちかもしれないが、彼らの心だって目の前の「今ここ」の一点に焦点を結んで華やぎときめいているはずです。その一点はまあ、たいして社会的価値もないくだらないことかもしれない。社会的な価値から追いつめられているのだから、とうぜんそういうところに焦点を結んでゆく。「かわいい」の美意識だって、そのようなものです。それは「世界の調和」を構築しようとする社会的な価値から逸脱している。超越している、というべきか、あるいは落ちこぼれてしまってもいる。そこを、外国人に「クール」といわれている。
 意識が一点に焦点を結んでときめいてゆくことを「かわいい」という。「かわいい」ものは、この世のもっとも小さなものであり、もっともはかないものです。だから、赤ん坊はかわいい。思いきり「かわいい」とときめいてゆけば、そのとき「自分=自我」は消失している。
「かわいいもの」は、ひとつの「消失点」です。
 現在の若者たちは「自我の消失点」を模索している。そうやって引きこもりのニートになったりフリーターになったり、いわゆるジモピーになったりしている。自我を拡大するためなら、都会に出てゆく。会社に入って働く。
 現在は、自我を拡大してゆくことが塞がれている社会なのでしょう。そしてそれは、必ずしも不幸なことではない。心はそこから華やぎときめいてゆく。どんなつまらないことにもときめいてゆく。「今ここ」の目の前の一点に向かってときめいてゆく。


 人の心は、目の前の一点に向かって焦点を結んでゆく。このことには「人間とは何か?」と問う上での大きな問題が隠されているように思えます。それは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になってゆくタッチなのです。
 現在のこの国には、ニートやフリーターやジモピーなど、自我を薄くして「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になってゆく若者たちがたくさんあらわれてきている。そういう状況から「かわいい=ジャパンクール」の文化が生まれてきた。「草食系」というのも、そういうことでしょうか。野放図に自我を肥大化させていたら生きられない世の中になってきている。それができるのは一部の選ばれたものたちだけで、庶民がそんなことをしていたらもう、メンヘラか犯罪者になるしかない。
 まあ、限りなく自我を拡大させてゆくというかたちで現在のグローバル資本主義の活動が成されているとすれば、イスラム国や秋葉原通り魔事件の加藤君による狂気のテロ行為もまたその裏返しの自我の拡大から起きてきた現象なのでしょう。世界中が自我の拡大を争っている。しかしそういう表面的な現象の一方で、自我を希薄にしながら「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きてゆこうとしているものたちもいる。なぜなら人の心はそこから華やぎときめいてゆくからです。
「かわいいもの」とは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のことです。かわいい系ファッションのその不均衡で混沌としたアンサンブルは、「生きられなさを生きる」表現です。
 人の心は「生きられなさ」の中に身を置いて、そこから華やぎときめいてゆく。その「生きられなさ」の圧力によって、意識は「今ここ」の一点に焦点を結んでゆく。そうして、まわりがぼやけてゆく。世界がぼやけて見えている「おバカな」若者が増えている。しかし彼らの心は、同時にこの世界の一点に焦点を結びながら華やぎときめいている。彼らは彼らなりに人間であることの普遍・自然を生きている。
 それは、人類の文化の起源は、「ときめき」から生まれてきたのであって生きのびようとする経済行為だったのではない、という問題でもある。
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