知性や感性の源泉・ネアンデルタール人論・43

 このシリーズでは、ネアンデルタール人を通して人間とは何かということを考えようとしています。あるいは、人間とは何かということを通してネアンデルタール人の本当の姿に迫りたいとも考えています。
 いま考えている問題は「意識は一点に焦点を結んでゆく」ということです。人の心は、そうやって華やぎときめいてゆく。このことが人類史の文化の起源における契機になっていったということです。それは、世の多くの人類学者が合唱しているような「象徴思考」とか「生きのびるための計画的な思考」などという概念で解くことができる問題ではない。そういう弁証法でわかったようなことをいわれても、決め付けられても、僕は信用しない。
 生きのびるための知恵を持つことが、そんなにえらいのか?そういう知恵を持っている人の頭脳は優秀なのか?そう思っている人は、そういう知恵から人類史の文化が生まれてきたということにしたいのだろうが、じっさいはそうではないはずです。そんな安直な問題設定で人類史の起源論は解き明かせない。
 人が知的であるとか感性が豊かであるということは、生きのびるための知恵や行動力や体力を持っているということとはちょっと違う。
 昔の人は「佳人薄命」などといった。知性や感性が豊かだということは「生きられなさを生きている」ということであり、どうしても「薄命」の気配をまとってしまう。統計的にどうなのかということなどわかりようもないが、そういう人にはそういう気配がつねにつきまとっているということをわれわれはどこかしらで感じているし、そういう人との別れはいっそう無念でかなしいものになる。それは、人間的な知性や感性が「生きられなさを生きる」はたらきであることに誰もがどこかしらで気づいているからでしょう。
 人間的な知瀬や感性とは、「生きられなさを生きる」はたらきであり、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることです。病弱な人はそれだけで知性や感性が豊かなように見えて、じっさいそうである場合も多く、また体力があるものだってスポーツや冒険をして命のエネルギーを使い果たそうとする。
 人は、「今ここ」でみずからの命を使い果たそうとする。あるいは使い果たしたところから生きはじめる。心は、そこから華やぎときめいてゆく。つまり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。


 現代のこの人間社会で、生きのびるための知恵を持とうとがんばるのは、そうでないと生きられないからであり、それはそれほどに人間が凡庸だということでしょう。凡庸ではない人間はそんな知恵など持たなくてもちゃんと生きているし、そもそも生きのびようという発想も持っていない。
 凡庸とは、生きのびることに執着すること。
 大学とは学問をするところでしょう。しかしどんな高学歴の人でも、社会人になれば、その思考が生きるための能力を持つことに流れていって、生きるとは何か、という問いはしなくなってゆく。つまり、物事の本質を問わなくなってゆく。社会人になるということは生きることの権利と資格を与えられることであり、あとはもうその能力を磨くという問題が残されているだけなのでしょう。
 凡庸な人間ほど生きのびるための知恵を持とうとがんばるし、生きのびるための知恵を持っていることを自慢したがる。しかし、とうぜんのことながら凡庸なところからはイノベーションという進化は生まれてこない。すなわち、生きのびようとする知恵や計画性から人類史の新しい文化が生まれてきたということは論理的にありえない。
 凡庸ではない人間は、生きのびようとがんばってなどいない。それでもちゃんと生きている。それでは生きられないのに、なんとか生きている。生きられなくてもかまわないと思っているが、生きられるときは生きられるし、生きられなくてもそれはもうしょうがないと思って受け入れる。まあ、人生にはそんな局面はいくらでもある。好きな人との別れや入学・入社の試験に失敗するとか、お金をなくすとか、だいいちこの世にうまれてきてしまったこと自体が「しょうがない」とあきらめ受け入れていることです。「しょうがない」とあきらめ受け入れることが生きることだともいえる。みんな、そうやって生きている。
 生きのびようとがんばるなんて、何か人や人生に恨みでもあるのか、という話です。現代では「命の尊厳」などといって生きのびようとがんばることが生き物の本能であり人間的な資質であるかのようにいわれているが、そんなところからイノベーションという進化が生まれてこない。それはただ、それほどに現代人の自我は肥大化してしまっているということを意味しているだけです。自我が肥大化してしまうくらい人や社会や人生に恨みを持ってしまっている。そうして、恨みを持つことが人間の本性だという思想も生まれてきたりしている。
 恨みが強いから生きのびようとがんばっているだけのことで、べつに人間的に知性や感性を豊かにそなえているからではない。
 現代社会は、そういう恨み(=自我の肥大化)を培養してしまう構造を持っている。
 生きのびるための知恵を持っているからといってえらそうにするほどのことでもない。それはもうただ凡庸なだけのことで、そんなところにイノベーションという進化を生む人間性のダイナミズムがあるのではない。そんなところに人間的な知性や感性が宿っているのではない。


 しかしそれでも人間であるかぎり、誰の中にも人間的な知性や感性が宿っている。人間的な世界や他者に対するときめきというものを誰もが持っている。それは、誰もが凡庸ではない部分を持っているということです。生きのびようとがんばることなんかただの凡庸さに過ぎないが、それでも誰の中にもこの生からはぐれてしまっている凡庸ではない部分がある。
 現代社会はすでに高度に出来上がっており、誰もが凡庸になってしまう構造を持っているのだが、それでも人間であるかぎり、誰もが凡庸ではない部分を持っている。社会は、生きのびようとがんばれ、とせかせてくるが、それでも誰の心も、どこかしらでこの生からはぐれてしまっている。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。それが原始人の心であり、人の心の究極のかたちでもあるのでしょう。
 まあ、凡庸ではない人は、生きのびようとがんばってなどいない。がんばる必要がない。がんばらないと生きられない凡庸な人間にかぎってみずからのそんな知恵を吹聴したがり、そんながんばりを人間性の根源・自然のように考えたがる。そうやって凡庸な人間どうしの勝手な思い込みの多数決で人類史の起源論がゆがめられてしまっている。
 ネアンデルタール人は滅んでしまったとか、生きのびようとする計画性が人類史の文化の起源になったとか、そんなふうに倒錯した論理を真実であるかのように決め付けて誰もが平然とした顔をしている。そういう思考で現代社会が動いているのだろうが、それは真実ではない。
 凡庸な人間がえらそうなことをいってのさばっているのが現代社会で、それをまねてその他大勢の凡庸な人間もえらくなったつもりになってゆく。そうやって自我を肥大化させてゆくことが現代人の生きる流儀で、凡庸な人間たちの暴力、それを市民社会というのでしょうか。政治家だろうと実業家だろうと知識人だろうと、誰もが「市民」の代表のつもりでいる。みんなして凡庸な人間に成り果てている。
 しかしそれでも人は、誰もがこの生からはぐれてゆく凡庸ではない部分、すなわち「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の部分を持っている。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。人類史の起源論を解く鍵というか突破口はそこにこそあるはずだし、それは、人間性の自然・普遍というかたちでわれわれ現代人の「今ここ」を知ることでもある。


 猿よりも弱い猿だった原初の人類は、生きのびようとして生き残ってきたのではない。「もう死んでもいい」という感慨から心が華やぎときめいてゆき、それによって圧倒的な繁殖力を獲得していったからです。
 基本的に生き物の生殖は、みずからの死と引き換えになされる行為です。とくに人間においては、「もう死んでもいい」という感慨をどこかに持っていなければその苛酷な妊娠出産という行為などできるはずがないし、セックスのエクスタシーそのものが、「もう死んでもいい」という心地になってゆくことにある。心は、そうやって華やぎときめいてゆく。
 それは、生きのびるための行為ではない。生き物は「もう死んでもいい」という行為をしてしまう。その「結果」として種の存続という事態が起きているだけです。人類は、ことにそういう衝動が強い。だから一年中発情しているし、そもそも原初の人類は「もう死んでもいい」というかたちで二本の足で立ち上がった。そういう感慨が自覚的にあったわけではないだろうが、それはそういうかたちの行為だったのです。「もう死んでもいい」という無意識の感慨が、人間存在の通奏低音になっている。そしてそれは生き物としての本能から逸脱することではなく、本能そのものに遡行してゆく心の動きのはずです。
 生き物は、生きのびようとして生き残ってゆくのではない。「もう死んでもいい」というかたちで「生殖」という現象が起き、あくまで「結果」として生き残ってゆく。
 たぶん誰だって死んでゆくときには「もう死んでもいい」と思うのでしょう。「もう生きられない」と自覚したなら「もう死んでもいい」と思うしかない。「生きられない」のなら、その事態を受け入れるしかないし、受け入れるのが生き物としての自然な心の動きのはずです。
 二本の足で立ち上がった人類は、「生きられない」事態を生きて歴史を歩んできた。つまり生きてあること自体にすでに「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているわけで、そこから心はより豊かに華やぎときめいていった。
 人類拡散の果てに北の極地にたどり着いたネアンデルタール人は、「もう死んでもいい」という感慨とともに、その生きられるはずのない環境に住み着いていった。5万年前のネアンデルタール人が生きることに四苦八苦していたとしたら、最初にその地に住み着いた50万年前の人類はさらに生きられない状態であったはずです。それでもたちまち絶滅してしまうことなく生き残ってこられたのは、そんな環境だったからこそ「もう死んでもいい」という感慨とともに心がいっそう華やぎときめきながら圧倒的な繁殖力を獲得していったからでしょう。
 原初の人類は「繁殖力」で生き残ってきたのであって、生きのびようとする知恵によってではない。そこのところで現在の世界の人類学に流通してる学説のほとんどは倒錯しているし、この国ではプロもアマチュアもそれをそのまま合唱しているだけです。


 ネアンデルタール人は、原始人が生きられるはずのない苛酷な環境の中に身を置いて生きていた。そこでは、誰もが「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だった。生きられなくても、そこから心が華やいでいった。そうして、死んでゆくものの多さを凌駕するほどたくさん繁殖して生き残っていった。そこでは半数以上の子供が大人になる前に死んでゆく環境だったのだが、だからこそ子供の死を悲しみ埋葬する文化が生まれ、そうした子供をはじめとして生きられない弱いものをけんめいに生きさせようとする「介護の文化」をはぐくんでいった。
 そうして男と女は他愛なくときめき合い、だれかれかまわず毎晩のように抱き合ってセックスしていた。
 人類の体の正面である胸・腹・性器等は攻撃されたらひとたまりもない急所(弱点)であるのだが、それなのに二本の足で立ち上がっていった。言い換えれば猿は、だからこそその姿勢を常態にしようとはけっしてしない。その姿勢を常態にすれば、たえずその急所の部分に不安や怖れを抱え込むことになる。そのストレスによって人類の体毛が抜け落ちていった。それは、生きられない弱い猿になることだった。しかしそこから心が華やぎ、一年中発情している圧倒的な繁殖力を持つ猿になっていった。
 人類が正常位で抱き合ってセックスするのは、急所であるところの体の正面をふさぎ合う行為だった。二本の足で立ち上がれば、自然に正常位で抱き合いセックスするようになってゆく。人類の体毛が抜け落ちていったのは、そのことも関係があるのかもしれない。
 ネアンデルタール人などは、ぜったいに体毛を失ってはならない環境に置かれていたのに、いつの間にか失ってしまっていた。それはきっと、正常位で抱き合う文化が豊かになっていったこととも関係があるのだろうし、人類史で起こったことは「生きのびるため」という問題設定では説明がつかない。
 人類が体毛を失ったのはせいぜい数十万年前くらいのごく最近のことだろうといわれている。つまり、文化の発達や社会的な変化がそのことをもたらしたということです。
 人と人は、体の正面をさらした無防備な姿勢で向き合っている。このことの怖れと羞恥とときめきによって体毛が失われていった。生きのびるためではない、「今ここ」でときめき合い消えてゆく心の華やぎを体験したことによって体毛が抜け落ちていった。
 人は、根源において生きのびようとしているのではない。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になって消えてゆくことのカタルシスが生のいとなみになっている。意識は一点に向かって焦点を結んでゆく。そのときめきから人間的な文化が生まれ、圧倒的な繁殖力を持つ存在になっていった。
 人類の文化の起源は、生きのびるためのいとなみだったのではない。このことは何度でもいうつもりだが、何度いっても多くの現代人には受け入れてもらえないだろうというもどかしさがついてまわっている。
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