漂泊者は時の流れを知らない・ネアンデルタール人論26
1
自閉症スペクトラムとかアスペルガー症候群などといっても、そのことの健常者と非健常者の線引きはとても難しい。誰にだってそうした自閉症的な一面はある。ただ、内田樹氏のようにその傾向を人間の本性のようにいわれると困る、それは違うんじゃないか、といいたいだけです。彼らの中にはたとえばスティーブン・スピルバーグのようにひといちばい知能の高い人もいるし、そういう人たちによって世の中の人間観がリードされている一面がたしかにあるのです。
まあ現に、軽度ではあるのだろうがまぎれもなく自閉症スペクトラムであるに違いない内田樹が人気者の作家になっていて、多くの人がその倒錯した言説に引きずられてしまっている。もともと同じ穴のムジナなのかもしれないが。
文明社会に生きていれば、誰もが避けがたくどこかしらに自閉症スペクトラム的な傾向を抱えてしまっていて、みずからのその傾向を肯定し正当化したい人が内田樹の言説に飛びついてゆく。
彼らの心は、世界や他者に対する警戒心で絶えず緊張している。だから内田樹は、「武道や能のすり足の真髄は四方八方に意識を張り巡らしていることにある」などという。しかしそんなふうに警戒心で緊張ばかりしていたら、体の動きがぎこちなくなってしまう。彼がもともとひといちばい運動神経が鈍いことは自分でも認めていて、それはそうやって警戒心と緊張を生きているからです。
武道の達人は、ふだんはぼんやりしていて、自分の身体に危機が迫ってきたときだけその一点に意識を集中させることができる。それは、瞬間的に意識が世界に焦点を結ぶ反射神経であって、自意識過剰の絶えざる緊張によってもたらされるのではない。しかし内田樹の意識は、つねにまわりの世界のすべてに意識が向いてしまっていて、一点に焦点を結ぶことがない。だから体の動きが硬く鈍くさいのです。それに対して武道の達人の身体の構えは、つねに自然で無防備です。シマウマは、ライオンが攻撃してこないかぎり、平然とライオンのそばで草を食んでいる。そうして、いったんライオンが攻撃してくれば、素早く逃げてしまう。それと同じことです。
武道の達人は、心も体も脱力している。そんなことくらい、いくらでも武道の本に書いてあるし、多くの武道家がいっていることなのに、内田樹はそれを、自分の警戒心と緊張を正当化するために勝手にそんな理屈を捏造している。
そのときシマウマの意識は、四方八方に張り巡らされているのではない。四方八方のことなど忘れている。
2
能のすり足にしても、それは体が勝手に動いてしまっていることの表現であり、心理的にはいわば「無」の状態です。能には、場面転換のための背景はありません。そのとき舞台の役者は、歩いているようないないようなそのすり足によって、その体が九州から奈良へと瞬間移動したことを表現している。そうやって九州を歩いていることをいったん無にして、いつの間にか奈良を歩いている身体になっている。中世の無常感は、こういう舞台設定を役者も観客も当たり前のように合意してゆくことができた。わざわざ舞台装置などつくらなくても、誰もがそういう「飛躍」を共有していた。まあ、漢字をひらがなにつくり変えてしまうことだってひとつの「飛躍」であり、それが日本文化の伝統だった。
そのとき能のすり足は、「歩いている」という意識を消去してゆく作法なのです。歩いているんじゃない、「いつの間にか」というかたちで瞬間移動してしているのです。まあこの「飛躍」のセンスは、鈍くさい内田樹にいってもわかるまいが。
心はいつの間にか自分を忘れてべつの(非日常の)世界に入り込んでいる……この「飛躍」こそが人間的な「祭り=遊び」のタッチであり、能のすり足はそういう人間性の自然の上に成り立っている。
いつの間にか時は流れてわれわれは老いて死んでゆく。人は、根源的には時の流れを意識しているのではない、時の流れを忘れている存在なのです。ほんとにわれわれは「いつの間にか老いで死んでゆく」のであり、この「いつの間にか」という感覚が日本的な無常感です。
「いつの間にか」という時の流れの表現が、そのころの日本人の感覚にはいちばんしっくりきたらしい。
小林秀雄は「無常ということ」の中で、無常とは永遠を知ることだ、というようなことをいっているのだが、いかにも知識人らしい持ってまわったへりくつで、ただの観念的な言葉遊びにすぎない。
無常とは、時間のことなんか忘れてしまうことであり、その感覚はすべての人間の無意識の中に宿っている。人間は、もともとそういう存在だった。
もしかしたら小林秀雄自身が、「鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていない」のでないのか。
人の無意識の中に、「永遠」などという概念はない。「いつの間にか」というときの流れに対する感慨があるだけです。「いつの間にか」というかたちで「今ここ」に気づかされているだけです。
そうやって人の心は漂泊している。
無常とは、漂泊することであり、おそらくそこにこそ普遍的な人間性の自然がある。
「永遠」なんかどうでもいい。
われわれは生きようとして生きているのではない、「すでに生きてしまっている」のです。だから、時の流れはいつだって後から知らされる。「いつの間にか」と。
人は、時の流れを忘れてしまう。何かに夢中になっているときは、時の流れなど忘れている。
「季節によって時の流れを知る」ということは、季節によってしか知ることができないということです。人の脳が時の流れを知ることができるのなら、時計なんかいらない。人間は、時計を生み出してしまうくらい時の流れに対する感覚が不正確なのです。時計がないと、時の流れを知ることができない。
3
時の流れは、たぶん猿や犬猫のほうがよく知っている。
人間はけっきょく、死ぬまぎわになって自分の人生を振り返るとき、誰もが「あっという間だった」という感慨を抱く。「光陰矢のごとし」などともいう。
時の流れを知らないから「永遠」を夢見るのでしょうか。しかし時の流れを知らないものが、永遠など知ることができるはずがない。どんなに死後の世界の永遠を思い描こうとしても、どこかあやふやで実感がともなっていない。
人間の時間の感覚は、「今ここ」の一点に焦点を合わせてゆく。だから、時の流れを正確に知ることができない。
言い換えれば、「今ここ」の一点に焦点を結べない自閉症スペクトラムの人には時の流れがわかるのでしょうか。彼らは、永遠を知っているのでしょうか。彼らの中には、死後の世界の永遠への旅立ちというかたちで自殺する人が多いらしい。
しかしわれわれ定型発達者にはなかなかそれがわからない。われわれの時間の感覚は、いつの間にか「今ここ」という一点に焦点を結んでゆき、そのまま消えてゆく。われわれにとっての死後の世界は、「今ここの中に消えてゆく」というかたちでしか実感できない。つまりそれが、「無常ということ」です。
日本列島には、死を厭わないメンタリティの伝統がある。因果なことに、そこから「腹切り」や「特攻隊」の習俗が生まれてきた。日本人は死後の世界の「永遠」をうまくイメージすることができるから「無常」という死を厭わない文化を持っているのではない。生きるにせよ死んでゆくにせよ、「今ここの中に消えてゆく」というかたちで心が華やいでゆくタッチを持っていたから昔の日本人は死を厭わなかったのです。
心は、一瞬一瞬生起し消えてゆく。人類は「消えてゆく」というかたちで死と向き合ってきた。
漂泊とは、「今ここ」の一瞬一瞬を生きることであって、永遠を生きることではない。人が死ぬことは、死後の世界の「永遠」を生きることではなく、「今ここ」に消えてゆくことである。おそらく人間性の自然においては、世界中の誰もがそのように死をとらえている。
今ここに消えてゆくことの華やぎというものがある。たぶん死んでゆく人はみんな、そうやって死と和解してゆくのではないでしょうか。
人間は、永遠を知らない、神を知らない。知らないから、神や永遠を夢見る。
われわれは、「永遠」どころか、「時の流れ」そのものをうまく実感することができない。人間はそれほどに「今ここ」の一点に憑依している(焦点を合わせている)存在であり、それが「無常ということ」です。
4
この銀河系の宇宙だって、やがては消えてしまう。存在するものはすべて消えてゆく。人は、「存在している」という意識を持っているからこそ、「消えてゆく」という意識も持つことができる。
存在している(生きている)ことのいたたまれなさは誰の中にもある。だからこそ、「消えてゆく」という感覚に華やぎががもたらされる。なんのかのといっても能という芸能には、「消えてゆく」という感覚(無常感)が高度に洗練されて表現されているのであり、中世の人びとは名もない庶民にいたるまでその表現を感受することができたらしい。なぜ名もない無知蒙昧な庶民でも感受できたかというと、それこそがまさに人類700万年の歴史の無意識だからです。
漂泊とは、消えてゆくこと。この生が消えてゆくこと。人の心は、そこから華やいでゆく。
どんなに社会的な成功をおさめ幸せに生きようと、人の心が華やいでゆく知性や感性は、「消えてゆく」というタッチのもとにある。そうやって「この世のもっとも弱いもの」として生きるのが人間性の自然なのです。人類史において、人間的な知性や感性は、生きのびようとあくせくする「生存戦略」から生まれてきたのではなく、「この世のもっとも弱いもの」としての「消えてゆく」心模様の華やぎから生まれ育ってきたのです。その「祭り=遊び」のタッチにこそ原始人の心模様があり、それこそが人間性の自然であり、そこから人類の文化が進化発展してきた。
内田樹がいうように、生きのびようとして「四方八方に意識を張りめぐらせる」ことによってではない。そんな意識は、たんなる自閉症スペクトラムの傾向にすぎない。彼らがどんなに高い知能を持っていようと心や体の動きが鈍くなってしまうのは、生きのびるための生存戦略にばかり執着して「消えてゆく」というタッチを持っていないからです。人類の歴史は、「生存戦略」で知性や感性を進化発展させてきたのではない。
まあ自閉症スペクトラムの人は文明社会の生け贄としての悲劇的で傷ましい存在ではあるが、彼らがこの社会の動きをリードしてのさばるのはあまり愉快なことではない。それによって、ますます人間性の自然が見失われてゆく。
人の心や体の動きは、「生きのびるための生存戦略」から豊かになってくるのではなく、「もう死んでもいい」という感慨とともに自分を忘れて、すなわち自分が「消えてゆく」心地とともに世界にときめいてゆくところから豊かにも敏捷にもなってくる。
なのに今どきの人類学では、「生きのびるための生存戦略」という問題設定で人類史を語ることばかりしている。そういう自閉症スペクトラム的な考え方に染められてしまっている。
マルクスやヘーゲルの労働史観なんてまさに自閉症スペクトラム的な思考であり、人類学者も世の中も、誰もがその問題設定を踏襲している。われわれはそれが不満だし、しかしこの壁はとても厚くて、今のところびくともしない。
自閉症スペクトラムの人は、あらかじめ決定されている世界を生きようとする。しかし人の世はそのようにはなっていない。誰もが決定されていない世界を生きる漂泊の心をやりくりしながら暮らしている。そこで両者が対立するのだが、なんといってもあらかじめ決定された世界を生きるほうが生きやすいし、その流儀で社会的な成功をおさめた人がいるのなら、われわれ凡人もいつの間にかその論理に染められてゆく。
なんといっても人類学では、人類の歴史は「生存戦略」で進化発展してきたと考えられている。それが気に入らない。多くの人がそれに同意しているが、その自閉症スペクトラム的論理は変です。人間性の自然にかなっていない。
人類の知性や感性は、そんなことなど忘れた「祭り=遊び」の華やぎから生まれ育ってきた。
5
心の「華やぎ」とは、心が「飛躍」することです。そうやって人類史のイノベーションが生まれてきた。「飛躍」とは、「ときめく」ことです。
世界があらかじめ決定されているのなら、イノベーションなど起きない。「すべてはお釈迦さまの手のひらの内なのです」などとわかったようなことをいう。こういう言い方をされると、僕はむかむかする。僕の思考や行動を決定しているのは、「今ここ」の目の前の世界や「あなた(他者)」であって、わけのわからない神や仏などという存在によってあらかじめ決定されているのではない。
神や仏の決定にしたがうことが人の生の根源・自然のかたちであるのか。僕はそうは思わない。僕の生を成り立たせているのは、「今ここ」の目の前の「世界」や「あなた(他者)」との「出会いのときめき」という「なりゆき」であって、神や仏というすでに決定された世界に対する信憑ではない。
人の心は、何も決定されていない状況を漂泊している。途方に暮れながら漂泊している。そこから心は華やぎときめいてゆく。われわれの思考や行動は、「生存戦略」としてあらかじめ決定されているのではないし、「生存戦略」など忘れているところから華やいでゆく。「もう死んでもいい」という感慨とともに生きられない生を生きながら華やいでゆく。
まあ、セックスアピールを持っている人は、生きられない生を生きている。生きられない生を生きるこることの華やぎを、セックスアピールという。
生きられない生を生きることこそ、人間性の基礎であり究極なのです。そうやって人は生きられない弱いものを介護し、セックスアピールを持った人にときめきあこがれてゆく。
人間性の自然は、生きられない生を生きることの漂泊にある。
原始人は、「生存戦略」で歴史を歩んでいたのではない。「生存戦略」など忘れて、ひたすら「漂泊者」として生きていた。彼らは、生きにくさも死をも厭わなかった。
そしてわれわれ現代人だって、世界に感動し他者を想いして生きてあるかぎりにおいて、誰もが原初以来の「漂泊者の系譜」に連なって存在しているのです。
この世に生まれ出て生きてあることは、漂泊の旅です。それはひとつの悲劇であり、人の心はそこからときめき華やいでゆく。人類は、そういう歴史を歩んできた。
人類の歴史は、この生からはぐれた漂泊の旅の歴史だったのであって、「生存戦略」の歴史だったのではない。そこのところで多くの歴史家が人間を見誤っている。
人が旅をするのはどういうことかと、もっと深く問い直してみる必要がある。
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