はぐれてゆく・ネアンデルタール人論27

 心模様としての旅=漂泊について考えています。
 このことは「漂泊論」としてこれまでもさんざん考えてきたテーマだが、死ぬまで考え続けても解き明かせないのかもしれないし、人間存在の普遍的なかたちを問おうとするならどうしても避けて通れない。なんだかきりがない。
 僕は文章を書くのが下手で頭のはたらきも鈍いからけっきょく堂々巡りを繰り返しているだけなのだが、それでも書かないわけにいかないし、考えないわけにいかない。この堂々巡りもひとつの漂泊だといえなくもない。
 数万年前のアフリカのサバンナの民が世界中に拡散していって先住民と入れ替わっただなんて、そんな嘘っぽく空々しい話などとうてい納得できない。しかし世の中ではそれが歴史の真実としてまかり通っている。「おまえらみんなアホか」と叫び出したい気分だが、彼らは基本的な人間観や旅とは何かということに対する解釈があまりにも短絡的で倒錯している。
 彼らは、旅=漂泊の資質はアフリカのサバンナの民がもっとも豊かに持っている、というのだが、そうではない。足が長くて歩くことや走ることが上手だとか、移動生活をしているとか、それがそのまま旅=漂泊の資質になるのではない。なんのかのといってもサバンナの民は人類発生以来の700万年間をそこにとどまって歴史を歩んできた人々であり、もちろんそのことの重みというのはあるわけだが、すくなくとも人間性としての旅=漂泊の資質は、氷河期の北ヨーロッパを生きていたネアンデルタール人のほうがはるかに豊かにそなえていたのです。なぜなら彼らは人類拡散の歴史を背負ってそこに住み着いていたのであり、今でも赤道直下のアフリカ人よりはヨーロッパ人のほうが旅をしたがる生態を持っている。近代ヨーロッパの植民地政策が世界中に進出していったのも、なんのかのといってもけっきょく彼らの旅=漂泊の資質の上に成り立っているのであろうし、それは彼らがネアンデルタール人の末裔だからであって、アフリカのサバンナの末裔だからではない。 
 サバンナの民は、ついにどこへも拡散してゆかない歴史を歩んできた。
 まあ一般的には、旅=漂泊の資質は定住生活をしない「遊牧民ノマド」が豊かにそなえていると考えられているらしいが、彼らは同じ地域内を移動し続けてきただけで、世界のどこへも拡散してゆかなかった。
 ヨーロッパ人は、敢然とアメリカ大陸やオーストラリア大陸に渡っていった。それがいいか悪いかということなどわからないが、とにかく彼らは故郷を捨ててアメリカ人やカナダ人やブラジル人やアルゼンチン人やオーストラリア人になっていった。
 遊牧民は自然と調和しながら同じ地域にとどまり続けるが、人類拡散という生態は、自然=この生からはぐれていったものたちによってもたらされた。
 ネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパ人は、人類拡散の歴史を背負っている。まあ東の果て(=極東)の日本人もそうかもしれない。人類の旅=漂泊の心は、この生という自然からはぐれてゆくことにある。


 遊牧民は、牧草が豊かなより住みよい土地へと移動してゆく。より住みにくい土地へと移動していった人類拡散の図式とは逆の生態です。そしてそこは、人が集まってくるところでもない。そうやって大きな集団になってしまえば、牧草はたちまち食べつくされてしまう。彼らは、けっして大きな集団にはならない。家族的小集団で結束しつつ孤立している。そして家族的小集団の延長としての部族意識が強く、部族世界の外には出てゆかないし、部族の外の人間には興味を持たない。いわば、自閉症的な世界を生きている。
 彼らは、歴史的に予定調和の完結した世界を生きて来て、拡散してゆかなかったし、時が止まったように何千年も同じ世界にとどまってきた。つまり、ルーティンワークの外に出ることができない。
 遊牧民の世界はあくまで自閉症的で、歴史が止まっている。彼らは、結束しつつ、孤立している。現在のアフリカや中近東にはそういう部族がたくさんあるらしい。彼らは、拡散してゆく歴史を歩んでこなかった。彼らが、旅=漂泊の心模様で生きているとはいえない。彼らの心は、けっして漂泊して(はぐれて)ゆかない。あくまで予定調和の世界のルーティンワークで歴史を歩んできた。
 自閉症的な心模様も人間性の一面ではあり、それがいいとか悪いということをここでいうつもりもないのだが、そこに人類の漂泊=拡散の生態があるようにいわれると、それはちょっと違うのではないかといいたくなってしまう。


 原初の人類は、この生からはぐれてゆく漂泊=拡散の生態を持ってしまった。その生きにくさを解消するかたちで予定調和のルーティンワークで生きる遊牧民の生態が生まれてきた。
 これはたぶん、現代社会のとてもややこしくやっかいな問題でもあるのだろうと思えます。
 生きにくさの「漂泊」を生きようとするのも人間だし、生きやすさを求めて予定調和のルーティンワークをつくり上げてしまうのも人間社会なのでしょう。
 遊牧民ノマド)的な予定調和のルーティンワークの人生観や世界観は現代社会の一面ではあるし、それだけではすまないのも人間です。
 予定調和のルーティンワークに徹すればきっと生きやすいのだろうが、それでも人の心はこの生からはぐれて生きにくさを生きてしまうし、そこから心が華やぎときめいてゆきもする。魅力的な人は漂泊の心を持っているし、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
 唯我独尊で予定調和のルーティンワークの生き方にこだわれば、人間関係の摩擦が起きやすい。まあ、遊牧民の社会ではその流儀で生きてゆけるが、それが人間社会の普遍になるわけではない。とくにこの国では、そういう人は嫌われやすい傾向がある。
 自分を忘れた漂泊の心を携えているから、人は人にときめきもする。
 人類の歴史の無意識には、漂泊の心が刻まれてある。


 現代社会の生のいとなみは、生きのびるための予定調和のルーティンワークが第一義になっているのだろうが、それをそのまま原始人の歴史に当てはめることはできないし、われわれ現代人だってじつは予定調和ではすまない漂泊の心を持っている。
 生きのびようとする欲望は、ひとつの自己意識でしょう。近代的自我、と言い換えてもいい。
 しかしそうやって社会や時代に洗脳されながらも、誰だって「自分=生きのびること」など忘れて何かに夢中になったり、自分捨てて他者を助けようとしたりもする。そういう「ときめき」は、誰の中にもある。それは、「生きのびる」というこの生からはぐれてゆく体験です。
 誰の心も、どこかしらでこの生からはぐれている。人類は、そういう歴史の無意識を共有している。
 あなたにとって「この生」はそんなにもすばらしいものか?生きのびようとするに値するほど大切なものか?
 原始人は、そんなもふうには思っていなかった。彼らにとって衣食住はもちろん必要なものではあったが、大切なものではなかった。もの食わないと生きてゆけなかったが、食えりゃなんでもよかった。そうやって人類はどんどん雑食の傾向を濃くしていった。
 食い物の味は、噛み砕いたりしたあとからわかることです。食う前に美味いかどうかは、じつはわからない。つまり、「美味い」という前提などなくても食うことができる、ということです。原始人にとっての食い物は、空腹の鬱陶しさから解放されるのなら、なんでもよかった。
 なんのかのかのといっても、われわれ現代人だって、空腹になったから食う、というのが基本です。そうやって朝昼晩の食事の時間をもうけている。
 トラやライオンは何がなんでも草食獣の肉を食いたいから、それにありつけないときはひたすら空腹に耐える。
 しかし人類は、耐えられなかった。空腹から解放されるのなら、食い物なんかなんでもよかった。なぜ耐えられないかといえば、空腹とは自分の身体を意識することであり、身体(=この生)を忘れて身体(この生)の外の世界に意識を向けてゆくこと、すなわち「非日常のときめき」こそ人間性の自然だったからです。
 人類にとって衣食住という「日常」は、必要なものではあったが、大切なものではなかった。
 直立二足歩行は、身体のことを忘れながら歩いてゆくことができる姿勢です。そうやって原初の人類は、「身体=自分」のことを忘れて世界や他者にときめいてゆく猿になった。ときめくとは、身体=自分を忘れてゆくことの上に起きている心模様です。
 言い換えれば、人は「自分=身体」に対する関心のぶんだけ世界や他者に対するときめきが希薄になっている。意識はつねに「何かについての意識」であり、意識のはたらきの根源においては、二つのものを同時に意識することはできない。したがって、一般的によくいう「自分を愛するように他者を愛する」などということは原理的に成り立たない。心は「我を忘れて」ときめいてゆく。原初の人類はそうやって直立二足歩行を身につけていったのであり、それが二本の足で立っている人類の基礎的な心模様です。
 心が自分=身体を忘れているとき、生きのびようとする欲望ははたらいていない。人の心模様の基礎を世界や他者にときめいてゆくことにあるとするなら、それは、人は生きのびようとする欲望を根源的には持っていないということを意味する。
 空腹状態の身体を忘れるためには食わないといけないが、人間にとってそれは「生きのびるため」ではない。あくまで「身体=自分」を忘れるためであり、「身体=自分」を忘れようとする本性を持っているのが二本の足で立っている人間という存在です。
 そうやって人の心は、この生からはぐれてゆく。
 原始人にとっての「旅をすること=歩くこと」は、「身体=自分」を忘れ、この生からはぐれてゆくことだった。だから、どんなに住みにくい土地でも厭わなかった。その住みにくさ=生きにくさこそがそこに住み着いてゆく理由になった。人の心はそこから華やいでゆく。
 心がこの生からはぐれて華やいでゆくことを「漂泊」という。
 ネアンデルタール人は、地球上でもっとも住みにくいところに住みつきながら、心はそのころの地球上の誰よりも漂泊していた。
 人の心模様の「漂泊」という問題は、じっさいに旅をしているから漂泊者で定住していれば漂泊者ではないというようなことではない。
 数万年前のそのころ、移動生活をしていたホモ・サピエンスというアフリカのサバンナの民よりも、氷河期の北ヨーロッパに定住していたネアンデルタール人の心のほうがずっと「漂泊」していたのです。


 この生に執着していたら、心は停滞してゆく。自閉症的な停滞した心が、予定調和の世界を求める。彼らは、自分に閉じこもっていると同時に、予定調和の世界に閉じこもっている。彼らは、自分に閉じこもりつつ、他者との「共生関係=一体感」を欲しがっている。というか、それがなければ自分に閉じこもれない。そうやって彼らは「共生関係=一体感」でこの世界を規定しようとする。彼らにとって生きることは予定調和のルーティンワークであり、今どきの社会の「夢は叶う」という合言葉だって、この生を予定調和のルーティンワークとして規定しようとする自閉症的な傾向にほかならない。われわれはそうやって知能の高い自閉症スペクトラムに洗脳されてしまっている。
 彼らは、「共生関係=一体感」を求める。それはつまり、彼らは「啓蒙者=扇動者」である、ということです。人が人を啓蒙=煽動しようとするということは、「共生関係=一体感」を求めるというとでしょう。
 高知能の自閉症スペクトラムは、人を啓蒙=煽動しようとする意欲が旺盛で、その能力にも恵まれている。彼らに洗脳されて、いつの間にか「夢は叶う」が合言葉の世の中になってしまった。
 漂泊者は、夢は見ない。いつだってなりゆきまかせで、「今ここ」の目の前の世界や他者にときめき反応し続けている。反応するが、「啓蒙・煽動・洗脳」はしない。啓蒙・煽動・洗脳する「自分」を持っていない。すでに「自分=この生」からはぐれてしまっている。
 まあ、誰の中にも、漂泊者と自閉症スペクトラムが共存している。そうやって「共生関係=一体感」を求めて洗脳したりされたり、たがいにこの生からはぐれた心でときめき合ったりしている。
 まあ、洗脳したりされたりすることと助けたり助けられたりすることとは違うわけじゃないですか。人は根源において「漂泊者」であるから、いわゆる「無償の行為」という、ただもう一方的に助けたり助けられたりということをする。
 介護というのは、本質的には無償の行為であるはずです。介護される人間が金を払っているのだから払っただけのことをしろと要求したり、介護するがわが給料の分だけしか働かないと割り切っていたらもう、その関係は成り立たなくなってしまう。 
 現代社会は、「金(貨幣)」という神によって統御された予定調和の世界であると同時に、それだけではすまなくて、誰もがどこかしらでその予定調和の秩序からはぐれてしまった心を抱えながらときめき合ったり助け合ったりしている構造も持っている。
 どんな時代になろうとも、人間はそれだけではすまない。予定調和の秩序を持った社会をつくればいいといううわけではすまないし、予定調和の秩序を持った人生を生きればいいというものではないし、そんなふうには誰も生きられない。
 人は、そんな予定調和の秩序を持った社会をつくろうとしたり、予定調和の秩序を持った幸せで安楽な人生を生きようとして、「今ここ」の目の前の一点に焦点を結べなくなり、意識を四方八方に張りめぐらせながら絶えず緊張してなければならなくなった。そうやって社会的に成功する人もいれば、そうやって精神を病んでゆく人もいる。
 現代人は、原始人のような「漂泊」の心を失っているし、今なお歴史の無意識として引き継いでもいる。われわれの心は、歴史の無意識としての原始的でニュートラルな「漂泊」の心性と、現代の社会の構造からもたらされる予定調和の秩序を生きようとする「緊張」とに引き裂かれている。
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