警戒心と緊張・ネアンデルタール人論28

 予定調和の世界を生きようとする自閉症スペクトラムに対する人間性の自然としての「漂泊」の心模様、このことをもう少し考えてみたいと思います。
 人類史において、自閉症スペクトラムはいつから登場してきたのだろうか。
 それはたぶん、氷河期明け1万年前から5千年前ころの共同体(国家)や宗教の発生の時期と重なっているのだろうと思えます。
 そのとき人類は、生きてゆくためや大きくなりすぎた集団をいとなむための基本原理として「共生関係=一体感」の世界観をつくっていった。
 まず宗教という「共生関係=一体感」のための世界観が生まれ、それを基礎にして共同体(国家)がいとなまれていった。大きくなりすぎた集団をいとなむためには、みんなが同じ世界観を共有してゆく必要があった。というか、その大きくなりすぎた集団の鬱陶しさをやりくりしようとしていつの間にか同じ世界観になっていった。
 共同体(国家)は、良くも悪くも「共生関係=一体感」の上にしか成り立たない。
 まあ、はじめに宗教という世界観が共有されていったのでしょう。そしてそれは、それぞれの地域の気候風土の違い、すなわち言葉の違いによって微妙な違いが生まれ、それによって共同体(国家)どうしが対立するようになっていった。
 はじめに「神によって統御された予定調和の世界」が見出されていった。
「神」という概念は、おそらく氷河期明けに発見されたものです。その大きくなりすぎた集団は「神によって統御された予定調和の世界」であるという信憑を持たなければ成り立たなかったし、ひとりひとりの個人もまた、そういう世界の中に置かれているという信憑を持たなければ生きられなかった。
 宗教とは自閉症スペクトラムの世界観である、ということでしょうか。自閉症スペクトラムの人はみな、「神によって統御された予定調和の世界」の「共生関係=一体感」を生きている。
 人類が宗教という世界観を持ったことによって、自閉症スペクトラムが生まれてきた。その「神によって統御された予定調和の世界」の「共生関係=一体感」を生きる作法は、共同体(国家)を生きるのにもっとも有効な方法であると同時に、個人的な生のいとなみをひどくギクシャクさせてしまう原因にもなっている。それによって身体の動きがぎこちなくなり、世界や他者に対する「ときめき」を失って人と人の関係をうまく結べなくなったりもする。
 彼らの意識は「神によって統御された予定調和の世界」の「共生関係=一体感」を生きているために、「今ここ」の目の前の対象に焦点を結ぶことができない。じっさいに自閉症スペクトラムの子供は、授業中にじっとして先生の話を聞いていることができないのだそうです。近ごろはそういう子供や歩いたり走ったりすることがうまくできない子供が増えていて「発達障害」などと診断されたりしているのだが、それは、意識が目の前の世界の一点に焦点に結んでゆくことができなくて、まわりのすべてのものに焦点を結んでいるからです。彼らの意識はぼやけているのではない、まわりのすべてに焦点を結んで、むしろ緊張しているのです。そうやって外を歩けなくなって「引きこもり」になったりする。
 まわりのすべてが等価にクリアに見えているなんて、きっと気味悪い眺めでしょう。しかしそれが「神によって統御された予定調和の世界」であり、「共生関係=一体感」を生きている状態でもあります。そういう世界観で生きて社会的に出世してゆく場合もあれば、出世できなかったり人間関係に失敗したりして精神を病んでゆく場合もある。
 その自閉症的な世界観は現代人の誰もがどこかしらに持っているわけで、そういう世界観に偏ってゆくことを自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)といっているだけです。だから、高い知能の自閉症スペクトラムの人の言説に世の中がリードされてそういう世界観を持つのが人間の本性だという合意になってしまうことはとても危険なことであるわけです。
 現代社会には「神によって統御された予定調和の世界」の「共生関係=一体感」を生きている人はたくさんいるし、スピリチュアルだとかなんとかといって、近ごろはそれが人間性の真実だと合意されていたりする。
 いや、直接宗教とかかわろうとかかわるまいと、現代人の世界観は自閉症スペクトラムによってリードされ、自閉症スペクトラム的になってゆくことによって精神を病んだりしている。
 自閉症スペクトラムは社会の構造の問題であって、先天的な脳の機能の欠陥だというような問題ではない。後天的に(世界や他者にときめく)オキシトシンの分泌の機能が衰弱してゆくだけでしょう。そのことだけでかんたんに「先天的だ」といってもらいたくはない。それがいいたいのなら、徹底的に人体実験をしてきちとしたデータを出してからにしてくれ。「先天的だ」という推測が成り立つのなら、「先天的ではない」という推測だって成り立つのですよ。「先天的だ」といいたいのなら、「先天的ではない」という推測が成り立たないあらゆる根拠を証明してみせてからにしてくれ、といいたい。
 たとえば自閉症スペクトラムの発症の数は、男と女とでは大きな違いがあって、男4に対して女1くらいの割合なのだそうです。では、男と女の脳にどんな先天的遺伝的な違いがあるというのか?胎児の初期の段階ではすべてがメス=女だといわれています。それは、先天的遺伝的には同じ脳だということでしょう。男と女の心模様の差異は、社会的な立場や生まれつきの身体の構造の違いによって決定されるのであって、脳そのものに先天的遺伝的な違いがあるわけではない。その「4対1」が先天的遺伝的に決定されているというわけですか。冗談じゃない。先天的遺伝的には男の脳も女の脳も同じのはずです。そこから後天的につくりかえられてゆくだけでしょう。脳のはたらきは、乳幼児体験として後天的にどんどんつくりかえられてゆく。それが問題であり、その問題を人類はすべて解決しているわけではない。「先天的だ」といいたいのなら、その問題をすべて解決してからにしてくれ。
 現代のこの社会は、高い知能の自閉症スペクトラムによってなんだかゆがんだ世界観を持たされてしまっている。そのことに対する驚きや怖れが、あなたたちにはなさすぎる。だから、マルクスヘーゲルの労働史観をかんたんに信じ込んで「人類は生きのびるための生存戦略としてして知能を発達させてきた」などという倒錯した歴史認識に陥ってしまうし、「共生関係=一体感」が人と人の関係の本質だと言い出したり、「自閉症スペクトラムは先天的な脳のはたらきの欠陥だ」と決め付けたりする。
 あなたたちは、社会の構造の問題に過ぎないことを人間の本性であるかのように決め付けている。子供の乳幼児体験という発達段階がどれほど親や社会の構造によって左右されているかということの驚きや怖れがなさすぎる。
 まあ現代人は、「自分」という存在のアイデンティティとして、先天的に「自分らしい」何かをそなえて生まれてきたと思いたいのでしょう。しかしそんな「自分」なんか何もないのです。「自分」なんか、後天的につくられるだけです。そのことの驚きや怖れが、あなたたちにはなさ過ぎる。
 だから平気で「先天的だ」といいたがる。
 人類が共同体(国家)や宗教を持ったことだって、歴史の必然であったとしても、「後天的に」あらわれてきた現象であって、そこに人間性の本質・自然があるわけではない。
 そのとき、「共生関係=一体感」の人間関係や世界観が生まれてくるような歴史的な状況があったわけで、それはむしろ原始時代から培ってきた人間性の本質・自然から逸脱してゆくことだった。
 フロイトは、「原始人はみな分裂病(あるいは自閉症スペクトラム)だった」というようなことをいっていて、だから原始時代にはそれが病理として露出することはなかったしそこに人間性の本質・自然があるといいたいらしいのだが、それは違う。
 たとえば人類史の「貨幣」は、分裂病自閉症スペクトラムのような「共生関係=一体感の予定調和の世界観」を原始人も持っていてその延長として生まれてきたのではなく、もともとはたんなる一方的な「贈り物」だったものが共同体(国家)や宗教の発生とともにそのような世界観(等価交換という予定調和)を実現する機能に変質していっただけです。このことはすでにここで書いたからこれ以上くだくだしくいわないが、とにかく原始人はそんな「共生関係=一体感の予定調和の世界観」を生きていたのではなく、誰もがこの生やこの世界からはぐれた「ひとりぼっち」の「漂泊者」としてときめき合って集団をいとなんでいたのです。そうでなければ、人類の一年中発情している生態も旅をする習性も生まれてくるはずがないのであり、その「契機」を想定しないことには「言葉」や「貨幣」の起源は説明がつかないのです。


 現代社会の「貨幣」は明らかに自閉症スペクトラム的な存在であり、その機能の上に資本主義社会が成り立っている。そうやってわれわれの社会は、高い知能の自閉症スペクトラム的傾向の強い人たちの思考に引きずられてしまっている。
 分裂病統合失調症)や自閉症スペクトラムといってもこの社会の構造が生み出しているのであって、先天的遺伝的な脳の欠陥の問題ではない。まともな脳を持って生まれてきても、後天的な生育環境によってそうなってしまう可能性があることを、もっとちゃんと考える必要がある。
 将来、生まれた赤ん坊の脳のはたらきを精密に調べる方法が確立されたとき、オキシトシンの分泌のはたらきになんの異常もないのに後天的な生育環境によって分泌のはたらきが衰弱してくるということがわかってくるのかもしれない。そのはたらきに先天的な個体差は当然あるだろうが、先天的に分泌が少なくてもならない人はならないし、最初は多くてもやがて少なくなっていって分裂病自閉症スペクトラムになってゆく人もいるのでしょう。
 生育環境によってつくられる気質、という問題の解明に対して、われわれ人類はまだああでもないこうでもないと試行錯誤している段階じゃないですか。そういう問題はたしかにあるし、フロイトラカンマルクスヘーゲルのいうことが「決定」というわけではない。それなのに、いきなり「先天的だ」といって解決しまおうとするなんて、考えることが横着ですよ。そんなことがいいたいのなら、徹底的に人体実験してデータを提出してみせろよ、といいたい。人体実験できないことを隠れ蓑にしてそういう結論に走ってしまうなんて、考えることが姑息ですよ。そんな思考態度は、科学でもなんでもない。
 言い換えれば、後天的な問題をちゃんと考えることができない者たちが、科学という錦の御旗を振りかざしながら安易に人体実験をしたがる。
 科学でなんでも解決するのなら、人文学なんて存在する必要はない。しかしその脳科学だって、人文学(哲学)のおこぼれをちょうだいしながら新しい発見をすることもある。
 人類は、人間性の本質・自然という問題を解き明かしたわけではない。
 人類の歴史の本質・自然は、「生きのびるための生存戦略」という問題設定で解き明かせるわけではない。人類は、生きのびることのできる予定調和の世界をつくろうとして歴史を歩んできたわけではない。起源としての共同体(国家)や宗教がそういう契機から生まれてきたとしても、人類はそれだけではすまない「漂泊」の心を持っており、原始人はその心模様とともに歴史を歩んできたし、そこにこそ人間性の本質・自然があるのかもしれない。
 そのとき人類は、ひとまず原初以来たずさえてきた人間性の本質・自然としての「漂泊」の心から逸脱して、生きのびることのできる予定調和の世界をつくろうとしていった。それが、起源としての宗教が持っている「共生関係=一体感」の世界観だった。
 フロイトがいうように原始人はみな分裂病だったのではなく、文明社会になってそのような傾向が生まれてきた。


 ユダヤ教は、現代にも残っているもっとも古い宗教のひとつでしょう。おそらくその起源は、7千年から1万年近くさかのぼることができる。
 そのときユダヤ人は、メソポタミア中流域の肥沃な土地で暮らしていた。
 だから、よその地域から移住してくるものも多く、いつの間にか大きな集団になっていった。その大きな集団をいとなむために、いち早く「共生関係=一体感」の世界に目覚めていった。すなわち、予定調和の世界を統御する「神」という概念を持つようになっていった。
 もしかしたら彼らによる「神」という概念によって大きな集団をいとなんでゆくという観念性がまわりに伝播してゆき、あちこちに共同体(国家)が生まれてきたのかもしれない。そうしてそれぞれの地域に根付いていった「神」は、それぞれ言葉が違うようにその姿や教えも違っていった。
 聖書のいう「はじめに言葉ありき」というフレーズは、なかなか意味深長です。それぞれの地域の言葉の違いが神の姿の違いになっていった。そうしてそれが、戦争になっていった。それぞれがそれほどに「予定調和の共生関係=一体感」を守ろうとして対立し、排除し合っていった。
 そういう歴史の状況があった。氷河期が明けて温暖な気候になり、一挙に地球上の人口が増え、しかも人の往来もいっそう活発になってきた。そんな状況から、「共生関係=一体感」の心模様とともに、「神」という予定調和の世界を統御するシンボルを共有していった。
 そして、これこそまさに、現代の自閉症スペクトラムの心の世界であるはずです。
 なんのかのといっても現在の世界はユダヤ人によってリードされているし、ユダヤ教を研究すれば自閉症スペクトラムの正味のかたちがわかるのかもしれない。
 人類は、共同体(国家)の発生とともに「神」という概念を持ったことによって、予定調和の関係にある他者との「共生関係=一体感」にまどろみながら、同時にたえずその外の世界に対する緊張と警戒心で生きねばならなくなった。ユダヤ人は、そういう緊張と警戒心を生きようとして世界に散らばってゆき、そういう緊張と警戒心を生きながら世界中を洗脳してゆく能力を身につけていった。
 彼らは、はたして漂泊の旅人か?彼らこそ、世界中の誰よりも予定調和の神との関係に居座りまどろんでいる。
 そうして彼らに洗脳された現在の世界においてはもう、その緊張と警戒心で生きることがなんだか人間や生き物の本性であるかのような合意がつくられている。この国でも子供のうちからせっせと塾通いをさせるようになってしまったことだってそういう緊張と警戒心のさなかに身を置きながら成功者になって生きてゆこうとするコンセプトだし、また、俗流生物学者は、外敵に対する警戒心が生き物の本能というか生存原理のひとつのように考えてしまっている。
 しかしこの世の弱い生き物は、もちろん外敵と遭遇すればただちに反応して逃げるが、ふだんはそんなことなど忘れて生きている。忘れていなければ生きられるものじゃないし、忘れているからライオンよりも俊敏なシマウマがたまにはライオンに捕まってしまうわけで、忘れていなければ弱肉強食という生物サイクルなんか起きない。
 ふだんは警戒心や緊張など忘れて生きているのが生き物の基本的な生態です。だから、あんな大津波に襲われた三陸海岸の多くの人が、なおもそこに住み着こうとしている。
 緊張と警戒心の自閉症スペクトラムはけっして「先天的な」人間性の本質・自然ではないし、あくまで「後天的な」歴史のなりゆきから生まれてきた文明の病であるはずです。
 「先天的な」人間性の本質・自然は、警戒心や緊張など忘れた「漂泊」の心模様にある。まあ、生き物はみんなそうやって生きている。
 生き物がこの世に生まれ出てくることはひとつの「漂泊の旅」であって、予定調和の世界に身を浸して生きることではない。
 まあ自閉症スペクトラムという傾向の気質は、乳幼児体験として予定調和の世界に身を浸してしまったか、あるいは渇望してしまったところから育ってくるのでしょう。現代社会は、そういう体験をさせてしまうような構造がある。
 自閉症スペクトラムと診断されようとされるまいと、現代社会には、「夢はかなう」などといいつつ生きるいとなみを予定調和のルーティンワークにしてしまわないと生きられない人がたくさんいる。
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