人類史のエリート、そして人類の娼婦性・ネアンデルタール人論29

 人類拡散の波は、およそ50万年前に氷河期の北ヨーロッパにたどり着いた。ネアンデルタール人の歴史はここからはじまっている。
 ネアンデルタール人の遺伝子とアフリカ中央部のホモ・サピエンスのそれは50万年前に分岐したといわれています。つまりそれまでは南ヨーロッパ北アフリカの遺伝子=血は混じり合っていたということで、じっさい50万年以前の両地域からは同じような形質の骨が出土している。
 人類の遺伝子は、たちまち世界中に伝播していってしまう。それは、人類が旅をしていたからではなく、どの地域においてもまわりの集団と遺伝子=血の交換をしていたからです。
 しかし人類が氷河期の北ヨーロッパに住み着いてその環境に特化した形質になってゆけばもう、南の遺伝子はどんどん淘汰されていってしまう。そうしてやがて、ヨーロッパ全土が北のネアンデルタール人の形質になっていったらしい。それほどに北に特化した遺伝子の生存率は高かった。
 そして南のアフリカでは、南の暮らしに特化したホモ・サピエンスの遺伝子の生存率が高くなってゆき、50万年前以降はもう、北のネアンデルタール人の遺伝子と南のホモ・サピエンスの遺伝子が混じり合うことはなかった。
 両者の中間の地域である中近東あたりでは、氷河期にはネアンデルタール人の遺伝子ばかりになってゆき、温暖期にはホモ・サピエンスの遺伝子の個体ばかりになっていった。まあ中には混じりあった遺伝子の個体もいたようだが、10万年以前の骨の遺伝子を調べる技術はまだ開発されていない。
 とにかく氷河期になれば、中近東あたりでもネアンデルタール人の遺伝子の個体のほうが生存率は高かったのです。だったら北ヨーロッパならなおさらのことで、3万5千年前以降の北ヨーロッパホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアのクロマニヨンが登場してきたといっても、それはネアンデルタール人ホモ・サピエンスの遺伝子も混じった個体になっても生きられるようになっていっただけだと解釈しないとつじつまが合わないのです。


 問題は、3万年前の氷河期の北ヨーロッパでアフリカの純粋ホモ・サピエンスが生き残れたかどうかということではなく、ネアンデルタール人のほうがはるかに生存率は高かったのは当然のことだし、そのころアフリカの純粋ホモ・サピエンス北ヨーロッパに移住していったという状況証拠など何もないのです。
 アフリカ中央部の純粋ホモ・サピエンスは拡散してゆくようなメンタリティを持っていなかった。それは、けっして人類普遍のメンタリティではない。人類は、直立二足歩行の開始直後の数百万年前からすでに拡散をはじめていた。そうして、ほんの一部の選ばれたものだけが、アフリカのサバンナにとどまり続けた。彼らは、人類のもうひとつのメンタリティとして拡散してゆかないメンタリティを保持し続けてきた。そうしてそのことがその後の文明発祥の基礎になった。それは人類普遍のメンタリティではないが、人類のもうひとつのメンタリティではある。
 つまりここで考えてきた「予定調和の世界を生きようとする自閉症スペクトラム」は、人類のもうひとつのメンタリティとしてそれもまた直立二足歩行直後からアフリカのサバンナで培われてきたのであり、ただそれは地球の隅々まで拡散していった人間性の普遍・自然ではなかった。それはひとつのミーイズムであり、そういう唯我独尊の心模様は文明社会の病理として誰の中にも潜んでいる。
 アフリカのサバンナの民はいわば人類史のエリートであり、落ちこぼれが拡散していったのです。そしてそういう「ミーイズム=エリート意識=選民意識」は、氷河期明けの文明の発祥とともにユダヤ人や四大文明の地域によって引き継がれてゆき、現代社会の自閉症スペクトラムを生み出す契機になっている。
 ユダヤ人は世界中に離散(ディアスポラ)していったが、その「ミーイズム=エリート意識=選民意識」によって世界中の共同体(国家)に食い込んでいった。このへんがややこしいところで、彼らは世界中に離散(ディアスポラ)しつつ、世界中に誰よりも唯我独尊の拡散しないメンタリティの持ち主だった。そうやって数千年ユダヤ教を守り続けてきたわけで、それは、現在のイスラエルの唯我独尊の拡大主義によくあらわれている。中国の拡大主義だってまあ似たようなもので、その唯我独尊の中華思想ユダヤ人の選民意識とべつのものには見えない。


 自閉症スペクトラムは、ひとつの選民意識です。おそらくそれは、たんなる先天的な脳機能の欠損ではない。われわれ文明人の誰もが共有している病理的な傾向であり、ひとつの「歴史の無意識」に違いない。
 人類は、その歴史のはじめから、アフリカのサバンナにおいて拡散=漂泊しないエリートを生み出してしまったのです。
 サバンナに進出したことが人類の知能の進化発展の契機だったと多くの人類学者はいうのだが、そうじゃない。人類発祥がすでにサバンナの中の小さな森だったのであり、最初からサバンナとかかわっていたのです。そしてサバンナと上手にかかわることができたエリートは拡散してゆかなかったし、落ちこぼれたちはとうとう地球の隅々まで拡散していった。
 人類の病理としての「エリート意識=選民意識=ミーイズム=自閉症スペクトラム」の基礎はアフリカのサバンナで培われてきた。サバンナの民に何の罪もないが、そのミーイズムと人類拡散の普遍的な漂泊の生態とが結びつきながら現代社会の「エリート意識=選民意識=自閉症スペクトラム」を生み出していった。
 自閉症スペクトラムは、エリート一家であることがその温床になっている例は多い。現代のこの国のように平和で豊かな社会であれば、ほとんどの家がエリート一家のようなものかもしれない。そしてそんな社会においては貧乏人だって裏返しのエリートであり、40数年前に連続射殺魔事件を起こした永山則夫の例のように、貧乏な環境でのその「予定調和の世界」を渇望する幼児体験が自閉症スペクトラムを生む場合もある。
 平和で豊かな社会という予定調和の世界、そこから多くの自閉症スペクトラムが生まれてくるし、彼らはときにルーティンワーク(刷り込み学習=記憶力)の天才になる。いまどきはそうした「ルーティンワーク(刷り込み学習=記憶力)」を競い合う社会になっている観もあり、そういう社会の構造が、自閉症スペクトラムを生み出す。ともあれそれは、先天的な脳器質の問題ではなく、後天的な人類の歴史(=無意識)の問題であるはずです。
 

 北ヨーロッパネアンデルタール人は、人類拡散の歴史を背負いながら、「漂泊」の心でそこに住み着いていた。
 それに対してアフリカ中央部の純粋ホモ・サピエンスは、人類のもうひとつのメンタリティとして、「漂泊」の心とは逆の予定調和の秩序を持った世界観による「共生関係=一体感」でその地にとどまり続けていた。そして人類最初の国家文明を生み出したエジプトメソポタミアは、その予定調和の世界観や共生関係を取り入れながらその大きくなりすぎた集団を運営してゆき、国家文明へと発展していったわけです。
 エジプト・メソポタミアは、アフリカ中央部と隣接していたことがいち早く文明を生み出すアドバンテージになった。しかしその予定調和の世界観や共生関係は、あくまでドメスティックな人類の「もうひとつのメンタリティ」にすぎないわけで、人類の普遍ではなかった。けっきょくアフリカ中央部も四大文明の地も、そのメンタリティを強くしてゆくことによって、その後の世界史の動きから置き去りにされてゆくことになった。
 原始時代であれ、現代であれ、人類普遍のメンタリティというなら、予定調和の世界観や共生関係の一体感ではなく、未知のものにときめいてゆく「漂泊」の心にある。知らないものどうしがときめき合って人類拡散が起きてきたのです。


 現代社会においては、社会が望むとおりの人間にならなければ生きてあることを許してくれない。この社会が定めた予定調和の世界観を信奉する人間にならないと許してもらえない。
 たとえば、この国は日本であり自分は日本人であるという自覚を持たねばならない。まあそのような予定調和の秩序の中に自分の身を浸してゆければ幸せだろうが、人間はそれだけではすまない存在の仕方をしている。
 人と人の根源的な「連帯感のような」心の動きは、そんな予定調和の世界を共有したところから生まれてくるのではない。同じ日本人だからこそ、わざわざ日本人であることを意識しなくても、純粋に人と人として向き合うことができる。
 外国人と向き合ったときにはじめて「日本人」という自覚が起きてくる。
 男と女の関係だって、すでに男と女の関係であることが意識されていれば、その先のさらなる関係の深まりというかセックスの関係になる契機は、多くの場合、人と人としてときめき合うことができるかどうかが決め手になる。 
 人の心はもう、男(オス)であることや女(メス)であることからもはぐれていってしまう。人類の男のペニスは、じつはそうやって勃起している。つまり、そういう生き物としての根源的実存的な契機で勃起している、ということです。人間といえども、そういう制度的な予定調和の世界に浸った「共生関係=一体感」という観念のはたらきで勃起しているのではない。
 われわれが同じ日本人どうしとして関係を持つということは、たがいに日本人であることからはぐれて純粋な人と人の関係になるということです。
 文明社会は予定調和の世界を持とうとするが、ひとりひとりの心はそこからはぐれて華やいでゆく。そうやって学問や芸術や恋が生まれてくる。人は、予定調和の世界からはぐれてゆく華やぎとともに、予定調和の世界(共同体=国家)の存在を許している。共同体=国家という予定調和の世界があるからこそ、そこからはぐれてよりラディカルに華やいでゆくことができる。
 おそらく共同体=国家の起源においてそういう体験をしたからこそ、共同体=国家という制度が定着していったのでしょう。そのとき人類にとって共同体=国家は、「目的」ではなく、より豊かに心が華やいでゆく「契機」だった。つまり、そうやって生きにくさを生きようとしていった。
 まあ日本人にとって共同体=国家は、いつの時代においても「憂き世」であり、「理想の社会」という「予定調和の世界」など願っていない。よい国になろうと悪い国になろうと「なりゆき」にまかせるだけだ、と思っている。どこかしらそういう無防備で不埒な文化風土がある。
 日本列島の民衆は、古代から現在まで、ずっと支配者(権力者)からいいように搾取/圧迫される歴史を歩んできたが、人と人はそれなりにときめき合ってきた歴史でもあった。「憂き世」と嘆きつつ、そこから心が華やいでときめき合ってきた。そういう「漂泊」の心の歴史風土がある。


 日本人どうしは、他愛なくときめき合って、男と女はかんたんにセックスしてしまう習性を持っているらしい。それはもう、縄文時代以来、ずっとそうだった。ただそれは、男と女の関係として「予定調和の世界」をつくってゆく、ということではない。日本人にとって男と女の関係であることは、あくまで「前提」であって「目的」ではない。すでに男と女の関係になっていて、そこから人と人の関係を紡いで(ときめき合って)セックスしてゆく。
 人は、セックスをすることによって相手が男(女)であることを確認するのではない。すでに男と女の関係であるという前提から出発して、人と人としてときめき合ってゆく。それがたんなる「性交」ではない日本的な「情交」というものであり、日本人どうしなら、「憂き世」というこの世に生まれてきてしまったことのかなしみを共有している。
 日本人でなくても、人間なら誰の無意識の中にもこの生からはぐれてしまった「漂泊」の心模様がはたらいている。そしてそれはもう原初の人類がそうやって二本の足で立ち上がっていったことだから、たんなる日本文化だけの問題ではない。
 人間として二本の足で立って存在していることの居心地の悪さは男も女もないし、人の心はそこから華やいでゆく。日本的な「憂き世」という世界観は、おそらくそういうことなのです。そこから日本の男と女は「情交」してゆく。そのとき、相手のおっぱいや尻のかたちがどうのとか、ちんちんの大きさがどうのとか、そういう「エロス」の問題から飛躍して、人と人として抱きしめ合うことの情感が汲み上げられている。
 日本人の女と西洋人の女の裸を比べたら後者のほうが圧倒的にエロチックだし、男だっても西洋人の体のほうがはるかに男らしく隆々としている。それでも日本の男と女のほうがずっと他愛なくセックスしてゆく歴史を歩んできた。西洋には女の裸のエロチシズムを表現したものがたくさんあるが、日本人のセックスに対する感性はもう、そういう予定調和の世界から飛躍してしまっている。はぐれてしまっている、というか。
 エロビデオにしても、日本人の女のあえぎ声や表情はとてもパセティックで、そこがいやらしいといわれている。それが、日本的な「情交」のタッチです。そのとき男と女は、男と女としてではなく、人と人として抱き合いときめき合っている。人としてこの世に生まれ出てきてしまったことのいたたまれなさを共有しながら抱き合っている。まあそれは、「憂き世」の気分です。それが日本列島の女あえぎ方をいやが上にもなやましくエロチックなものにしている。そんな「憂き世」の気分を共有しながら日本的な「情交」の文化風土が育ってきたのです。


 人は「許されない存在」としてこの世界に生まれてくる。そこから心は「漂泊」し、華やいでゆく。
 人の心は、避けがたくこの生からはぐれていってしまう。「生命の尊厳」などといわれても、われわれはよくわからない。
 心がこの生からはぐれてゆかなければ、原始人が氷河期の北ヨーロッパというこの上なく苛酷な環境の地に住み着いてゆくことなどできるはずがない。人類史のその生態は、どんなに驚いても驚き過ぎることにはならない。なのに多くの人類学者は、何も驚いていない。氷河期の北ヨーロッパ出50万年のあいだ生き残ってきたネアンデルタール人は、同じころのアフリカ人がいきなりやってきて取って代わってしまえるていどの凡庸な生態だったんだってさ。まったく、人をなめるのもいいかげんにしてくれ、といいたい。
 その生きにくさを生きたネアンデルタール人の感慨の歴史がその後の人類の歴史にどれほど多くのものをもたらしたかということを、あなたたちも少しは考えてみろよ。まあ、その薄っぺらな脳みそで考えても何も浮かんでこないのかもしれないが。
 ネアンデルタール人は、男と女が他愛なくときめき合って毎晩のようにセックスしていた。彼らは、この上ない生きにくさに身を浸しながら生きていて、そこから心が華やいでいった。日本列島の「憂き世」という感慨は、人類の普遍的な無意識としてネアンデルタール人のその歴史を引き継いでいるのです。
 まあ、現在の西洋人はネアンデルタール人以来の伝統として夫婦が毎晩のようにセックスする習慣を維持しようとする習性を持っているのだが、ネアンデルタール人ほどの過激な「生きにくさを生きる」という生態を持っていないから、どうしても男の勃起したペニスがあまり堅くならないという限界を抱えてしまっている。つまり、西洋的な「予定調和の世界を統御する神」のもとで「生命の尊厳」やら「理想の社会」やらを止揚してゆくスローガンによってはちんちんは堅くならない、ということです。
 ネアンデルタール人は「憂き世」という感慨を生きていた。だから男と女が他愛なくときめき合い毎晩のようにセックスしてゆくことができたのです。そうやってこの生からはぐれていったところから人類の男のペニスが勃起してくる。それは、「男=オス」としての能力ではなく、人としてこの生からはぐれてしまっている「漂泊」の感慨とともに起きている。
 男と女の関係だって、基本は人と人の関係であり、そこでこそペニスは他愛なくダイナミックに勃起するのです。


 人間性の自然・根源において、「生命の尊厳」などということはない。人は、許されない生を生きようとする存在であり、そこから人間的なダイナミズムが生まれてくる。たちまち勃起する「飛躍」の感性、と言い換えてもよい。それによって猿にはない旺盛な繁殖力を獲得していった。
 何はともあれ生き物が死ぬ存在だということは、生きてあることが許されていない存在だということです。人類はその生き物としての本質・自然を生きて歴史を歩んできた。原始時代はもちろんのこと、文明社会になっても、「生命の尊厳」という予定調和の世界観を持ちつつ、その一方でそこから逸脱して「生きられない=許されない」生のさなかに飛び込んでゆく「祭り=遊び=飛躍」の文化を育ててきた。学問も芸術も人間的なセックスの文化も、じつはそういう生命の根源に遡行してゆくかたちで生まれてきたわけで、それらは「予定調和の世界」を生きるいとなみではない。
 現代人は、セックスという「祭り=遊び」まで観念的な予定調和の行為(=ルーティンワーク)にしようとしてインポテンツに陥ったりしている。
 セックスは、生きのびようとする「生命賛歌」ではない。「もう死んでもいい」という心地になってゆく行為です。心は、そこから華やいでゆく。学問や芸術が花開いてゆくことだって、ようするにそういうことでしょう。人の心は、「生きられない=許されない」生を生きることによって華やいでゆく。
 人は、生きられない弱いものの介護をすることによって、死と和解してゆく。何はともあれ人類の心はそこから華やぎ、やがて学問や芸術という文化が花開いていった。
 氷河期の北ヨーロッパに棲息していたネアンデルタール人は、人類史上もっともラディカルに「生きられない=許されない」生を生きていた人々です。彼らの寿命はとても短く、しかも乳幼児の死亡率はそのころの地球上でもっとも高かった。それでも、だれかれかまわず毎晩セックスしながら大いに繁殖し、その受難を克服していった。それは、生きのびようとする「生命賛歌」の文化を持っていたからではない。「もう死んでもいい」という感慨とともにそこから心が華やいでゆき、だれかれかまわず他愛なくときめき合いセックスしていったからです。
 そうして彼らは、生きられない乳幼児や老人や障害者をけんめいに介護していった。人類は、そのようにして死と和解していった。人が死んでゆく存在だということに、彼らと健常者の区別はない。人は、そこにおいて避けがたく「そこはかとない連帯感」を持ってしまう。そしてそれは、たとえ見知らぬ他者であってもそうした感慨を抱いてしまう、ということでもある。自閉症的「憎しみ」が人の心の本質・自然にあるとはいえない。それはあくまで文明社会の病理です。そういうことを、ネアンデルタール人が教えてくれている。
 つまり原初の人類がそんなところに住み着けば誰もが「この世のもっとも弱いもの」になるほかなかったのであり、彼らの心はそこから華やいでいった。
「この世のもっとも弱いもの」であるという自覚において、「憎しみ」は存在しない。それはあくまで「生き延びることのできる強いものであらねばならない」と文明社会の強迫観念として醸成されている。われわれはそうやって心の華やぎを喪失してゆく。
 ネアンデルタール人は、誰もが生きられない「この世のもっとも弱いもの」として存在していたからこそ、誰の心も華やいでいた。心が華やいでゆかないことには、原始人がそんな苛酷な環境の地に住み着いてゆけるはずがないじゃないですか。
 フロイトに反論していうなら、そこには分裂病自閉症スペクトラムもなかった。
 彼らは「この世のもっとも弱いもの」として生き、そして心はもっとも華やぎときめき合っていた。
 われわれ現代人だって、心が華やいでゆかないことには生きられない。そしてそれは、生きのびることのできる能力を得るという「政治・経済」の問題ではない。生きられない「この世のもっとも弱いもの」の「もう死んでもいい」という感慨の位相をどこかしらに持っていないと心は華やいでゆかない。そういう感慨を与えられる体験として人類は「介護」という行為や他愛なくときめき合って知らない相手とでもセックスするという行為を見出していった。すくなくともネアンデルタール人は、そうやってその苛酷な地に住み着いていた。
 おそらく「娼婦性」は普遍的な人間性であり、娼婦の仕事だって「介護」みたいなものでしょう。介護の仕事なんか、娼婦になるようなことでしょう。つきつめていえばそれは、自分よりも他人のほうがえらい、他人のほうが生きるに値する、という精紳です。
自分がどれほど正しく美しくすてきな人間であろうと、この世に他者が生きて存在することはもっと正しく美しくすてきなことだ、ということです。
 人間にとって「自分」は「生きてあることが許されていない存在」であり、われわれはそこから生きはじめ、そこから心は華やいでゆく。
 文明人は誰もがどこかしらに「憎しみ」を持ってしまうほかない存在の仕方をしているが、そこに人間性の普遍・真実があるわけではない。
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