現代の神・ネアンデルタール人論30


 人は、人間性の自然(無意識)において、生きられない状態を生きようとする衝動を持っている。生きられない、すなわち生きてあることを許されていない存在になろうとする。わからない状態に身を置いて「何、なぜ?」と問う。小さな子供が、何度も転びながら自転車に乗る練習をする。それは、生きられない状態すなわち生きてあることが許されていない状態であり、人間はその状態を生きようとするというか生きてしまう生態を持っている。人の心は、そこから華やいでゆく。
 人間性とは試行錯誤する心の華やぎのことである、ともいえる。
 猿は、そうやって生きてあることを危うくさせるようなことはしない。まあ猿は進化の果てまでいってしまった生き物であり、人類はそこから生命の起源に遡行してゆこうとする試みとして生まれてきた。
 おそらく起源としての生命は、「生きていてはいけない存在」として生まれた瞬間に死んでいったはずです。その起源に遡行しようとする試みとして人は「何、なぜ?」と問う。それは、「生きられない存在」になる試みであって、生きのびようとしているのではない。
 命のはたらきは、生きられない状態においてもっとも活発になる。それを、ホメオスタシスというらしい。腹が減れば食おうとするし、息苦しさから逃れて息をするし、体の毒素が入ってくれば排出しようとする。
 人間的なイノベーションは、生きられない状況を生きようとする試行錯誤から生まれてくる。その心の華やぎ=ときめきとともにイノベーション=飛躍が生まれてくる。
 この人間的な華やぎ=ときめき、すなわち とは何かと問うことが、人類史のさまざまな「起源論」に迫れる鍵であり、人間的な知性や感性であるところの「知能」の究極のかたちを問うことでもある。
 まあ、「知能」という言葉は、なんだかいかがわしくて抵抗感があります。そこに人間的な思考(脳のはたらき)のイノベーション=飛躍があるのではない。人類史のイノベーション=飛躍は、あらかじめ脳にインプットされてあるはたらき方をして獲得されていったのではなく、そこで新しいはたらき方が起きたからでしょう。「何、なぜ?」と問うことは、解くことのできない問題に遭遇したことの心の動きであり、既存のデータで解き明かせるという信憑があるのなら、それは不思議でもなんでもない。
 生まれて間もない子供は、つねに生まれてはじめての問題と遭遇し続けている。それは、新しいデータをインプットしないことには解き明かせない。その子が先天的にどれほど優秀な知能を持っていようと、そのキャパシティだけでは解き明かせないのです。新しいデータとともに新しい思考のかたち(脳のはたらき)をつくってゆかないといけない。
 生まれて間もない乳幼児は、つねに新しい脳のはたらきをつくり続けている。
 新しい発見は、蓄積されたデータの上に体験されるのではない。いったん頭の中をからっぽにしてゆくことによって新しいかたちの脳のはたらきが生まれ、そこから発見ということが起きてくる。
 いったん頭の中をからっぽにできることこそ、人間的な脳のはたらきの特徴ではないかと思えます。
 知識自慢がどんなにがんばっても地頭のいい人にはかなわない、などといわれるが、後者はいったん頭の中を空っぽにして「何、なぜ?」と問うてゆくタッチを持っている。そのとき彼は、自分があらかじめ持っている脳のはたらきでは解けないと絶望し、そこから新しい脳のはたらきをつくってゆく。
 新しい思考回路が生まれるということ、そこに人間的な脳のはたらきの起源と究極のかたちがある。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、おそらく、いったん頭の中をからっぽにして新しい発見をしてゆくイノベーションの体験だったはずです。
 あらかじめ持っているデータをどんなに進化発展させても、いったん頭の中をからっぽにして新しい思考回路をつくり新しい発見をしてゆくことにはかなわない。
 人間は生きてあることが許されていない存在です。だから、いったん脳のはたらきがからっぽになり、そこから新しい思考回路が生まれて新しい発見をしてゆく。
 そしてそれはまた「この世のもっとも弱いもの」になるタッチでもある。人間の知能は、脳内にあらかじめおさめられているデータの質や量だけで決定されているのではない。しかし今どきの「知能」という言葉は、蓄積されたデータの質や量ばかり問うている。人間的な知能(脳のはたらき)はそれだけではすまないし、知能という言葉自体が何かいかがわしい。



 現代社会は今、優秀な人工知能をつくろうとしているらしい。
 それは、誰もが優秀な人間になりたがっているからでしょうか。開発者たちは、人類のそうした願いを背負っているという大義名分がある。
 しかし人間とは、ほんとうに優秀な人間になりたがっている存在でしょうか。その欲望で人間の知能が進化発展してきたのでしょうか。
 おそらく人工知能にはその欲望がインプットされるのでしょう。そうして、最初にインプットしたデータをどんどん進化発展させてゆく。
 ほんとうにその欲望だけで優秀な人間的知能に発展してゆくことができるのでしょうか。そしてそうやって獲得された優秀な知能が、ほんとうに人間的な知能だといえるのでしょうか。
 人間とは何か、という問題を問わないと、人工知能はつくれない。その問題は、まだ答えが出ていない。
 人間的な知性や感性の本質とはこういうものであるという答えをちゃんと出さないことには、完璧な人工知能にはならない。「人間とは何か」ということがわかっていない段階で、その人工知能がどんなにすぐれた能力を持とうと、それは人間とはべつのものであるでしょう。
 どんなに優秀でも、「それは人間ではない」という違和感がどうしても残ってしまう。
 その違和感を埋めてゆくには、まだまだ遠い道のりがある。
 埋めないことには、人工知能に支配されることはできない。
 人間の知性や感性の究極のかたちとは、どのようなものであるのか。
 こういう言い方はなんだが、二流の科学者が寄ってたかって人工知能をつくり上げても、たかが知れている。じゃあ、ホーキング博士のような最先端の科学者や芸術家が集まってつくればそれが実現するかというと、それでもまだ足りない。
 問題は、人間の知性や感性はどんな能力を持っているかということではなく、どんな本質を持っているかにある。そこのところで納得できなければ、誰もが人工知能に支配されるということは実現しない。
 人工知能によって解決する問題はもちろんあるだろうが、それが人類の知性や感性の究極のかたちだと誰もが納得してゆくことができるかという問題は、どうしても残る。
 どれほどそれが人間の脳のはたらきそのままの優秀な知性や感性を持っていようと、「それは人間ではない」という違和感は残る。
 たとえば人工知能と自分の脳を連結して自分が優秀な知性や感性を持ったとしても、自分の脳はよけいなはたらきもしてしまう。優秀な知性や感性になりきることはできない。
 どんなに優秀な学者や芸術家でも凡庸な部分は持っているし、その凡庸な部分も加わって優秀たりえている。凡庸な部分によって人間たりえている、ともいえる。
 もしもこの世の学問や芸術がすべて人工知能でまかなえる日が来たとしても、それでも人は、人工知能にたよらないで「何、なぜ?」問うたり、人工知能にたよらないで絵を描いたり音楽とかかわったりすることでしょう。
 人工知能が人間のいとなみのすべてを解決してくれるなんて、ちょっと想像がつかない。 
 インプット=刷り込むということだけで人間の脳のはたらきのすべてがカバーできるわけではない。
 完璧にデータをインプットすれば、そこからそのまま自動的に人間の知能になってゆくことができるかといえば、たぶんそうはならない。
 人間の脳のはたらきは、インプットされた(刷り込まれた)ものの上にだけで成り立っているのではない。
 データをインプットするだけでは人間の脳のはたらきにはならない。
 身体が環境に反応して意識が発生する。そのとき、身体と環境との関係が意識のかたちをつくるのであって、意識が身体の反応のかたちを決定しているのではない。
 人間の身体は、どのような意識のかたちをつくっているのだろうか。そして身体のはたらきは環境に対する反応であり、環境が身体の反応をつくっている。つまり、意識のはたらきは環境によって決定されている。
 たとえば、現代人がイメージする人間の知能と1000年前の人たちがイメージするそれとでは大いに違うことでしょう。
 人工知能は、時代によってそのはたらきがどんどん変わってゆくのか。しかし変わってゆくのは、データの上に成り立っているのではないからです。環境を読み取って反応するのではない。環境が反応のかたちを決定している。それはあくまで「身体の反応」なのだから、意識による反応ではない。身体の反応が意識になる。インプットされたデータをもとに反応するのではない。つまり、「データ」はあくまで環境あるいは環境と身体の関係にあるのであって、意識の中にあるのではない。
 意識が意識のかたちを決定することは根源的原理的に不可能なのです。
 たとえば、ふだんは強気一点張りの人が病気をして「俺ももうだめかな」と思う。まあ、そんなようなことです。どんなに「強気」というデータを持っていても、「俺ももうだめかな」と思ってしまう。そう思うなんてその人のデータにはないことなのに、そう思ってしまう。
 時代の意識だって、そうやって変わってゆく。時代によってデータが変更される、というのではない。データなど持っていないから変更されるのでしょう。
 意識が意識のかたちを決定することなんかできない。そういう問題も、人工知能はクリアしてしまうのだろうか。
「こういう能力を持てればいいなあ」と人は夢見る。頭がいいとか芸術や芸能やスポーツの感性や身体能力が豊かだとか。しかしそれらの能力は、最終的な到達点を夢見ていれば得られるというものではない。それらの能力の持ち主は、到達するためのデータをあらかじめ持っているのではない。
 学問の才能でいうなら、「これは違う」ということがわからなければならない。たくさんの「これは違う」という試行錯誤の中からたった一つの真実を導き出すというか発見する。まあ「理屈と膏薬はなんにでもくっつく」の喩え通り、真実でなくても真実だと思い込むことができるわけで、凡庸な才能はいつもその罠にはまる。「これは違う」と思うことができるかどうかが才能の差です。おそらく本格的な学問というのは、バケツいっぱいの砂の中からたった一つの米粒大の金塊を探し出すような行為なのでしょう。無数の真実らしさを前にして「これは違う」と見抜いてゆかないといけない。
 絵描きだって同じです、その美しい色や線やフォルムは、美しくない色や線やフォルムに対する「これは違う」と思うことができる感性の成り立っているのであり、彼はその試行錯誤の果てに美しい色や線やフォルムにたどり着く。音楽家もしかり、その美しい音が生まれてくるまでには、「これは違う」という体験の積み重ねがある。
 彼らはべつに真実や美をあらかじめ知っていたのではない。「これは違う」と思うことができる思考力や感性を持っていただけです。
そうやって問題を白紙に戻してしまうこと、すなわち「からっぽ」の頭になれれること、それが彼らの才能です。
 われわれ庶民の世界でも、「からっぽ」になれるタッチを持っている人は魅力的です。
 自意識過剰は嫌われる。



 人間とは人間になろうとする存在でも神になろうとする存在でもない。人の心は、生命の根源に遡行してゆく。それはたぶん、限りなく進化発展してゆく人工知能とは違う存在になろうとする、ということだろうと思えます。
 べつに学問も芸術も政治も経済も、ぜんぶ人工知能に任せてもかまわない。それでも、人工知能とはべつの「人間である」という部分は残る。
 人間の体験する快楽とは何かということは、とてもややこしい問題のような気がします。人工知能はそこのところも解決しないといけないし、そうかんたんに解決できるのだろうかという疑問は残る。
 まあ、そんなものをつくりたいのなら勝手にやってくれ、という気分です。つくったらいけないという決まりもないし、つくったからといって「人間とは何か」という問題がすべて解決されるとも思えない。
 人間の知性や感性など「環境」がつくっているのだし、どんな優秀な人工知能だろうと「環境」に動かされるしかない。
 もしかしたら、そのときになって、もっとたしかに「それは人間ではない」という合意がつくられるのかもしれない。
 現在の人類の「人間とは何か」ということの解釈は、まだまだ混沌としている。
 優秀なはたらきをつくることは可能でしょう。しかし、それだけではすまない。だめな人間であることの醍醐味もある。そこに人間の快楽のややこしさがある。それは、たんなる「快感」だけの問題ではない。生きられないことの苦痛や嘆きも快楽になる。そのとき人の心は、生命の根源に遡行していっている。
 現在、人間の知能の究極のかたちをイメージできる人間なんかどこにもいないし、その人工知能がどんなに優秀であっても、人間の知能の究極のかたちであるともいえない。
 人間の知能は優秀になるだけではすまないし、優秀になるだけではすまないからこそ優秀なのだともいえる。
 コンピュータは、蓄積されたデータをぜんぶ消してしまえば、動きようもないでしょう。しかし人の心=脳は、そこから華やぎときめいてゆき、新しい思考回路をつくり出してゆく。
 根源的には、われわれの意識は「今ここ」に焦点を結びながらはたらいているわけで、それはつまり、過去のデータも未来の計画もいったん白紙にしてゆくことであり、心=脳のはたらきはその「からっぽ」になったところから華やいでゆく。そのはたらきに人間的な「快楽」があり、高度な知性や感性が生まれてくる水源にもなっている。
「ときめく」ということなしに人間的な知能(知性や感性)は成り立たない。その「からっぽの頭」は、何によって華やぎときめいてゆくのか。
「からっぽの頭」こそ、人間的な知能の起源であり究極なのです。一流の学者も芸術家もひとつのインスピレーションとしてそういうタッチを豊かに持っているし、われわれだって人間としてそういう脳のはたらきを持っている。そこを、人口知能はどうしつらえるのか?
 それともこの世の中は、やがて中途半端な知識自慢の人種で覆い尽くされてしまうのだろうか?彼らは、そうやって「神」になりたがっている。
 でも、そういう人種は人間としてあまり魅力的ではなく、自分が望むほど人に好かれなくて、けっこう苦労したり悩んだりしている。そういう人間社会の現実がある。
 神になりたがるコンピュータは、人間とはべつのものでしょう。
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