物々交換の起源(1)・ネアンデルタール人論59

 人類の脳容量はチンパンジーの3倍くらいある。しかしだからといって人類の脳はたらきの自然というか特徴は出力が豊かで頑丈だということにあるのではなく、「省エネ」のはたらきであんがい壊れやすくもある。はたらき過ぎるとかんたんに分裂病自閉症などの発達障害を起こしたり、歳を取れば認知症になる人も多い。
 脳のはたらきが「省エネ」であるということは、人類の身体=命のはたらきが「幼形成熟ネオテニー)」になっていることからもきているのでしょうか。もう命のはたらきそのものが「省エネ」で、少ない出力の壊れやすいかたちのまま成長してゆく。
 氷河期の極北の地に置かれていたネアンデルタール人は早く成長して早く死んでゆく体質だったからネオテニーではなかったといわれているが、それでも猿のように2、3年で成体になれるわけではなく、たくさんの子供が大人になる前に死んでいった。ネアンデルタール人だって「省エネ」でゆっくり成長してゆくネオテニーの体質だったのであり、それが人間であることの与件だった。
 人は、脳のはたらきも体のはたらきも「省エネ」になっている。はたらき過ぎると壊れてしまう。
 たくさんの知識の上にあれこれ分析したり計算したりすることはコンピュータのすることで、人の脳のはたらきの本領は、そういう手続き(労働)をショートカットして一気に気づいてゆくことにある。まあ今のところは、そのためにコンピュータが役立つ社会になっているし、コンピュータが最高の知能だと勘違いしている人もいる。今どきの凡庸な人類学者のように誰もが<人の知性や感性(=知能)の本質は「未来に対する計画性」にある>などといっていたら、いずれ人類はみなコンピュータの奴隷になってしまう。
 頭がいいとか感性が豊かだということは、そういうことではないのですよ。人の心は、この世界や他者が正しいかとか美しいかというようなことをいちいち分析・吟味することなく、一気に世界や他者の存在そのものにときめいてゆく。われわれは人間性の基礎としてそういう「省エネ」の心の動きを持っているし、言い換えれば世界や他者は存在そのものにおいてすでに正しく美しいのです。
 あなたたちみたいな正しく美しいことを自慢している人たちだけが恋をしているのではない。この世の中は、ブスと醜男や愚かなものどうしだって恋をしているし、そういう「無能」なものたちのほうがもっと直接的で豊かな恋心を抱いている場合も多い。人類の脳のはたらきの本質が「省エネ」になっているというのは、そういうことです。
 いいかえれば、あなたたちが自慢する「生き延びる能力」としての正しさや美しさや知性や感性などたかが知れている。


 文明社会では、人を正しいか美しいか味方か敵かと分析・吟味してゆくことによって集団の秩序を成り立たせている。しかしわれわれの個人的な心の世界では、目の前の他者に対してそんなことを問うまでもなく、一気に他者の存在そのものにときめいてゆく体験をしている。そうやって恋愛や友情や親子の関係が成り立っているわけで、誰もがそのようなショートカットしてゆく「省エネ」の心模様を人間性の基礎として持っている。人間的な知性や感性は、そういうはたらきとして育ってくる。そのはたらきのダイナミズムが人類文化の起源の契機になった。
 文明社会の論理で原始社会の人の心模様を決めつけることはできない。人間的な文化の「起源論」を考えることは、猿から分かたれた人間的な集団性の基礎というか人と人の関係性の基礎について考えることです。
 原始人は、生き延びることをスローガンにして集団をいとなんでいたのではない。そんな利害関係の意識で集団が成り立っていたのではないし、原始人にそんな「死にたくない」という強迫観念は希薄だった。彼らは、「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有しながらときめき合ってゆくことによって集団を成り立たせていた。人と人が「ときめき合う」ということなしに集団が成り立つはずがない。われわれ現代人だって、つまりはそうやって集団を成り立たせているし、その体験がなければ集団の中で生きられない。
 人類史の文化の起源の契機は、人と人の関係とともにある。「言葉」の起源も「埋葬」の起源も、そして「貨幣」の起源を考えるに際しても、まず原初の人類の人と人の関係に想像力をはたらかせてゆく必要がある。人類の集団性の基礎、そこに文明社会の生き延びようとするスローガンを当てはめることはできない。


もう一度「貨幣の起源」の契機について考えてみることにします。
 貨幣はもちろん文明の発祥以後に生まれてきたものであるはずだが、それが生まれてきたということは、それ以前の原始時代に何か前兆となる人間的な心模様やいとなみがあったというか、人類の集団性の基礎に貨幣が生まれてくる契機があったはずです。
 それは、「未来に対する計画性」とともに生き延びるための道具として生まれてきたのか?まずは「貨幣は物々交換の代替として生まれてきた」という常識を疑ってみるところか考えてみたい。
 起源としての貨幣はきらきら光る石ころや貝殻だった、ともいわれている。
だったら、物々交換よりも貨幣の起源のほうが先であるのかもしれない。
 きらきら光る石ころや貝殻、人類がそんなものにときめいていったのは10万年以上前からのことで、それらのもので首飾りなどをつくっていた。彼らがそれほどに愛着していたということは、それがすでに「貨幣」であったともいえる。それをプレゼントされたら、きっとうれしかったことでしょう。
 たとえば南洋のある未開の島では、人間の背丈ほどもある丸い石の板を作ってプレゼントする習俗があったらしいが、こんなものを物々交換の代替の道具にしていたわけでもないでしょう。それは、家に立てかけられてあるだけのもので、それで物が買えたわけではない。もしもそれがその家から嫁をもらったことの感謝の形見としてプレゼントされたものだとしたら、それはそれで物々交換の道具だったともいえるのだろうが、それが「貨幣」として社会に流通してゆくわけではない。そんなものでは、魚も塩もヤシの実も買えない。おそらくそのころのその島ではそんな物々交換の習俗はなかった。魚も塩もヤシの実も、一方的にプレゼントされるものだった。そのバカでかい石の板は、むしろ物々交換の習俗がなかったことの証拠なのではないのか。その石は、感謝の気持ちをあらわす、あくまで一方的な「捧げもの」だった。


 物々交換が成り立つためには、「価値」の意識に目覚めていなければならない。その交換される物と物に等しい価値があると、どのように認識するのか。その差し出す物は、自分にとっては必要のないものであり、それがどうしても欲しいと思っている相手から差し出された物と等価であると、どのようにして判断するのか。まあ、おたがいに不要な物を交換しているのだから、価値の意識では交換できない。自分の差し出す物に価値があるとは思えない。相手が欲しがっていることがわかればくれてやることはできても、相手が持っている自分の欲しい物と同じ価値があるとは思えない。おたがいに相手の物が自分の持っている物よりも価値があると思えるから物々交換が成り立つのでしょう。
それは、起源においては、相手が欲しがっている物を差し出し合う行為だった。「等価」だったのではない。
まず、相手の欲しがっている物を差し出す、という行為があった。欲しがっているかどうかわからなくても、差し出さずにいられない相手に対するときめきがあった。相手が欲しがっていると思うのではなく、ときめきの形見として自分の大事なものを差し出す。おそらくこれが「起源」のかたちでしょう。
自分を忘れてときめいてゆく。自分を忘れて自分の大事なものを差し出してゆく。それは、自分を忘れてときめいていることの形見だった。
あるインディアンの部族には、部族の長がみんなの見ている前で自分の財産をすべて壊してしまうという儀礼があって、ときには自分の子供を殺してしまったりもするらしい。それによってみんなが部族の長に捧げものをしようとか支配に従おうとする気持ちが新たになる。まあ、みんなの前で死んでみせる、ということでしょう。そうしてみんなは、埋葬のときに死者に捧げものをするという気分で部族の長に従い新たに捧げものをしてゆく。共同体の秩序の更新の儀礼、ということでしょうか。
自分を忘れて他者にときめき、他者に捧げものをしようとする。そうやって他者を生きさせようとする。これはもう、人間の本能的な衝動であるのかもしれない。
そして、もっとも根源的な他者に対する「ときめき=捧げもの」は「死者の尊厳」に対するものである、ということでしょうか。
その「無能性」の尊厳、そのとき部族の長は、この世でもっとも無能な存在になる。


 人類史は、はじめに「死者の尊厳」があった。それによって猿よりももっと無能な猿になりながら二本の足で立ち上がったのだし、「埋葬」という行為も生まれてきた。べつに「死後の世界」とか「生まれ変わり」ということを信じたからではない。そんなイメージは、文明人の「死にたくない」という強迫観念から生まれてきたにすぎない。
 原始人は「もう死んでもいい」という無意識の感慨で生きていたのであり、それがなければ人間的な文化の起源は起きてこなかった。われわれ現代人だって無意識のそういう感慨とともに心が華やぎときめくという体験をしているわけで、それはもう、未来の人類においても変わることのない人間であることの普遍的な通奏低音であるに違いない。
 人間が死ななくなりそれによって「死者の尊厳」もなくなれば、おそらく心が華やぎときめくということもなくなってしまう。人類史の「死者の尊厳」を思う心模様は、「この生=自分」を忘れてときめいてゆく体験とともに生まれてきた。そこにこそ人間性の基礎と究極のかたちがある。
人間性の基礎は自己意識にある」といったのは、いったい誰だ。現代人はそんなことばかりいっているからときめきが希薄になり、発達障害を起こしたり鬱病になったりボケ老人になったりしなければならない。「自分=この生」なんか忘れてときめいてゆくところにこそ、人間性の基礎と究極のかたちがある。
 まあ、良くも悪くも、人類の「価値意識」は、「死者の尊厳」を思うところから芽生えてきた。死に対する親密な感慨が、人間性の基礎と究極にある。死とは「消えてゆく」ことであり、消えてゆくものはきらきら輝いている。燃えながら消えてゆく。自分を忘れて世界や他者にときめいているとき、心はきらきら輝いている。人類の死に対する愛着は、きらきら輝いているものに対する愛着でもある。それはもう、生き延びるための衣食住の「物」に対する愛着よりももっと深く豊かな愛着だった。きらきら光る石ころや貝殻は生き延びるための「物」よりももっと「価値」があったのです。そうやってきらきら光る石や貝殻すなわち「貨幣」と衣食住のための「物」との交換が生まれてきた。原初においては、物々交換はできなくても、そういう「交換」は成り立った。人類史においては、物々交換よりも貨幣による交換のほうが先にあったのです。そしてそれは、厳密には「交換」というよりも、たがいに生き延びることを忘れた「もう死んでもいい」という感慨とともに、相手に対する「ときめき」の形見として一方的に差し出し合う(捧げ合う)行為だった。
 現在においても金銀宝石がもっとも価値あるものとして流通しているということは、人間にとっては生き延びるための衣食住の「物」よりも、「死に対する親密さ」すなわち「世界や他者に対するときめき」のほうがさらに大切なこの生の根拠になっているということを意味する。
 人類のきらきら光るものに対する愛着は死に対する愛着であり、人間的な「知性」や「感性」や「快楽」の源泉は、「死者の尊厳」とともにある。「死者の尊厳」こそが人類の歴史をつくってきた。そしてそれは、死者は生まれ変わるとか天国や極楽浄土に行くというようなことではなく、生き延びるための衣食住に対する執着から解放されている存在だということにある。生きているものたちだって、そこからの解放として金銀宝石や水や火や花などの「きらきら光るもの」に愛着していっている。
 現代社会のオピニオンリーダーたちがどんなに生き延びるための衣食住に執着してゆく「生活者の思想」や「市民意識」を声高に扇動しても、人間性の自然としての「死に対する愛着」がわれわれの無意識から消えることはない。たとえその無意識がわれわれを生き延びることに無能な存在にしてしてしまうとしても、その「無能性」にこそ人間であることの根拠・自然がある。
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