別れのかなしみ・ネアンデルタール人論82

 ネアンデルタール人は、原始時代の人類拡散の歴史を背負って氷河期の北ヨーロッパに登場してきた。そこは人類拡散の行き止まりの地であり、もともと人類が生きられるはずのない苛酷な環境の地でもあった。住みよい理想の環境だったのではもちろんない。その苛酷な寒さのために人がかんたんに死んでゆく環境だった。生まれた赤ん坊の大半が死んでいったし、大人だって30数年しか生きられなかった。それでもそれ以上に子供を産んで生き残っていった。もしも住みよい理想の環境を求めたのなら、さっさと温暖な地に引き返してゆく。人類は住みよい理想の環境(ユートピア)を求めて拡散していったのではない。そこは死と背中合わせの苛酷な地であったが、その生きられなさから心が華やぎときめき合いながら住み着いていった。そこは、そのころの地球上で、どこよりも人と人が他愛なく豊かにときめき合っている土地だった。男と女は他愛なく豊かにときめき合ってセックスばかりしていたからたくさんの子供が生まれてきた。
 人類が一年中発情している猿になっていったのは、猿よりももっと他愛なく豊かにときめき合う存在になっていったからだ。そこは生きられない苛酷な環境の地だったが、どこよりもダイナミックなセックスの関係が生まれる地でもあった。
 人類拡散をうながしたのは、生き延びることのできる住みよさではなく、他愛なく豊かにときめき合うセックスの関係だったのかもしれない。
 人は生き延びることのできる住みよさを確保しようとして戦争をする。チンパンジーだってテリトリーを守るために戦争をする。それに対してセックスの快楽は「もう死んでもいい」という心地になってゆくことにある。戦争とセックスは、原理的に逆立している。
まあ人間は「もう死んでもいい」という心地になって戦争をしたりするのだからこのへんの心模様のあやはなんともややこしいのだが、とにかく原始人の行動をうながしていたのは、生き延びようとする「未来に対する計画性」にあったのではなく、「もう死んでもいい」という心地のカタルシスにあった。人類は生き延びることのできるユートピアを求めて地球の隅々まで拡散していったのではなく、拡散するほどに「もう死んでもいい」という心地になるセックスの関係というかときめき合う関係が豊かになっていったからだ。
 人と人のときめき合う関係が人類の歴史に進化発展をもたらした。人類の知性や感性(=知能)の基礎・本質もそこにある。人と人のときめき合う関係がなければ、個人も社会も生きられなくなる。人類は生き延びるための衣食住の充実を求めて地球の隅々まで拡散していったのではない。人と人が他愛なく豊かにときめき合う場では、たとえ衣食住が不如意になってもかまわなかった。
 つまり人類の歴史においては、知性や感性が豊かにはたらくのなら衣食住のことはたいした問題ではなかったわけで、だから知性や感性が進化発展したきたのであり、知性や感性によって衣食住が充実していった。


 なにはともあれ人類の知能が発達した契機は「ときめく」という心模様を持ったことにある。必死に生き延びようとがんばったから知能が発達したのではない。生き延びようとがんばることは、知能の停滞をもたらす。人の心はほんらい、生きてある「今ここ」に立ち止って、生きてあることのさまざまなニュアンスに気づき味わってゆく。そうやって知能が発達してきたわけで、そのはたらきを振り捨ててひたすら生き延びようとがんばるのだから、知性や感性が発達するはずがない。
 現代人は、生き延びるための方法論ばかり追い求めていて、生きてあることそれ自体のニュアンスに気づき味わってゆく知性や感性が鈍磨している。「もう死んでもいい」と思い定めて「今ここ」と向き合ってゆく心意気やときめきが欠落している。
「ときめく」とは、生きてある「今ここ」に立ち尽くすことであって、生き延びる「未来」に向かうことではない。原初の人類は生き延びる未来に向かって拡散していったのではない。それは、「もう死んでもいい」とこの生からはぐれてゆく体験だったのであり、心はそこから華やぎときめいていった。そうやって生きにくい新しい土地に住み着いていったのだ。
 人と人は、「別れのかなしみ」を携えてときめき合っている。われわれは、根源において、生き延びる未来を持たない置き去りにされた存在であり、それこそが「旅=漂泊」の心なのだ。



人は、生き延びることが許されない存在として旅に出る。旅に出れば、衣食住が不如意になる。しかしその生きにくさから、心が華やいでゆく。人類の知能の発達は、一般的にいわれているような「生きのびるための生存戦略」を身につけてゆくというようなことではなく、その生きにくさの中で「もう死んでもいい」と思い定めていったところから脳のはたらきが活性化していったことにある。
 氷河期の北ヨーロッパなんて、「死んでもいい」と思わなければ住みつけるところではなかった。
 死ぬ、という別れの体験。別れるという体験の心の華やぎがある。人はそうやって涙している。別れることはひとつの悲劇であり「喪失」であるのだが、人の心はそこから華やいでゆく。そうやって旅に出る。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことは猿としての能力を喪失する体験だったが、その喪失感から心が華やぎ、人間的な知性や感性が進化発展していった。
 病気になることは健康との「別れ」の体験だが、そのとき世界は輝いて見えている。ただの草の緑だって目にしみる。死ぬことは人生最大の「別れ」の体験であり、人の心は死を意識しながらというか、死のそばに立ちながら華やぎときめいてゆく。
 生きていれば、別れ=喪失の体験はつねについてくる。生きることは別れ=喪失を生きることだともいえる。誰だってそんな体験はしたくないのに、それが人の生のかたちというか、普遍的な人類の生態になっている。
 死ぬという旅立ち、そのことに対する思いが根底にある。別れはつらいだけのものなのに、人類はそれを普遍的な生態として持っている。心はこの生からはぐれて旅立ってしまう。
 この生のいとなみはこの生を消去してゆくいとなみである、というパラドックス。息をすることは息苦しい身体のことを忘れてしまう体験であり、そうやって身体を消去している。いや実際には、息苦しくなる前にすでに息をしている。そうやって身体=この生を消去し続けているのがこの生のいとなみであるといえる。したがって生き物は生き延びようとする本能とやらを持っていない。そんな本能などというものは原理的論理的に成り立たない。生きものは生きてあることを忘れ(=消去し)ながら生きているのだもの、生き延びようとする本能などというものが成り立つはずがない。
 生き物の生のいとなみは、この生からはぐれて(=この生を消去して)「もう死んでもいい」という心模様が生まれてくるような成り立ち方をしている。まあそんな心模様はほかの動物にとってはたんなる無意識であるが、人はそれを自覚的に意識してゆく。「もう死んでもいい」という心模様は、生き物としての自然なのだ。本能(のようなもの)と言い換えてもよい。
 人は、「もう死んでもいい」というかたちで死を意識する存在になった。そうやって「別れ=喪失」という体験が普遍的な生態として組み込まれていった。


 人類が「別れる」という生態を持っているということは、「出会う」という生態も同時に持っているということを意味する。別れていった先で誰かと出会うし、誰かがどこかからやってくる。基本的には「出会い」と「別れ」を繰り返してゆくのが人類の生態だといえる。出会いのときめきは別れのかなしみの上に成り立っている。
 たとえば商店は、一期一会の出会いと別れの場だといえる。そこでは、どこからともなく人がやってきて、去ってゆく。貨幣だって、本質的には、その、見知らぬ人との出会いと別れの体験を支えるものとして機能しているのかもしれない。人類社会の経済活動そのものが、おそらくそうやって生まれ進化発展してきた。経済活動なんて今やどうしようもなく卑しくグロテスクな部分も持ってしまっているが、本質的には、人類の生態は出会いのときめきと別れのかなしみの上に成り立っている。
 そうして、別れのかなしみにもそれなりのときめきがある。
 やまとことばの「かなし」は、喪失感としての「かなしみ」ををあらわすとと同時に、「いとおしい」というニュアンスも込められていた。古代人が赤ん坊のことを「かなし」というとき、もうその時代には戻れないというかなしみといとおしさを呼び覚まされる対象であるという感慨がこめられている。
 人類の言葉の起源そのものが、出会いのときめきと別れのかなしみの「詠嘆」とともに口の端からこぼれ出てくる音声だった。そうやって人は、「おはよう」とか「ありがとう」とか「ようこそ」とか「さようなら」という言葉=音声を交し合っている。
やまとことばの「嘆(なげ)き」の「な」は「なあ」の「な」、すなわち「親密感」の表出で、「げ=け」は「蹴る=分裂」すなわち「喪失感」の表出。「嘆(なげ)き」とは「親密な喪失感」のこと、「途方に暮れたようななやましくやるせない気分」とでもいうのだろうか。
いずれにせよ古代人は、「嘆き」という心模様に、どこか甘くなやましいようなニュアンスを感じていたらしい。というか、甘くなやましい気分で嘆いていた。彼らの暮らしが安楽なものであったはずもないが、それでも近代的自我によってもたらされる「生活苦」などという意識はなかった。そんなものを嘆いたのではない。それは主に、死者との別れに際して泣きかなしむ態度をあらわす言葉だった。喪失感としての「泣(な)く」から「嘆(なげ)く」という言葉が生まれてきたのかもしれない。深い喪失感ともに泣くことを「嘆(なげ)く」という。「嘆き」の「げ」はひとつの「強調」の音韻でもあり、「身も世もなく泣きくずれる」ことを「嘆(なげ)き」といったのかもしれない。「生活苦」はたしかに深刻だが、それによって「身も世もなく泣きくずれる」ということはない。「身も世も泣きくずれる」ことの甘くなやましいカタルシスがある。そうやって心が華やいでゆく。「もう死んでもいい」と華やいでゆく。


人類史には、無数の死者との別れが堆積している。人間性の自然は、死者との別れを受け入れることにある。猿にとっての他者の死と人間にとってってのそれとでは、ずいぶん意味の重さもかなしみの深さも違う。人間は猿よりもずっと他者と深い関係になるから、そのぶんその死が深くかなしいものになる。
人は、みずからの死を知ることはできない。「他者の死」を知ることができるだけだ。人類は、「他者の死」によって死を意識する存在になっていった。すなわちそれは「他者との別れ」を意識することであり、まあ原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、他者の身体とくっついてしまう状況から逃れてたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合うというかたちの、ひとつの「別れ」の体験だった。
人類の生は、「別れの体験」が無意識の中に刷り込まれてある。二本の足で立ち上がって他者とくっつかないでたがいに離れながらときめき合ってゆくということ、その関係自体がひとつの「別れの体験」にほかならない。「ときめく」とは「別れる」ということ。人と人は、「別れる」ことによってより深く親密になってゆく。それが「死者の尊厳」という意識になり、「死者を弔う」という体験になっていった。そうやって人は、死を意識する存在になっていった。
われわれはもう、何ごとにつけても「別れ=喪失」を受け入れながら生きている。道で人と出会って「おはよう」ということは、出会いのときめきの表出であると同時に別れのあいさつでもある。そうやって他者と出会って別れるという体験がこの生に刻印される。「別れ=喪失」の体験にこそ、もっとも深いカタルシスがある。人は、そうやってこの生や他者からはぐれてゆきながらこの世界や他者にときめき、この生のカタルシスを汲み上げてゆく。この生やこの世界との別れを繰り返しながら地球の隅々まで拡散していった原始人はそのことを無意識のうちに知っていたし、現代人は知らないで生きている。いやわれわれだって無意識においては知っているのだが、文明社会の構造によってそれを封じ込めてしまう観念を持たされている。社会や時代に踊らされてというか、社会や時代に意識を冒されている人間ほどそのカタルシスを知らないで、この生や自分=自我に執着して生きている。
他者とのコミュニケーションとか他者を説得するということは、他者とくっつくということだ。その共生関係の中で自分=自我の満足を得ることもあれば、ヒステリーを起こして憎しみを募らせたりもする。
「ときめく」とは「自分を忘れる=自分と別れる」という体験であり、それはこの生との別れでもあるわけで、そうやって人は「もう死んでもいい」という心地になってゆく。
人が生きてあることに、ほんらい、「生き延びる」という命題などない。少なくとも原始人は、そんな命題を携えて生きていたわけではない。彼らは生きてあることを嘆いていたし、その「嘆き=別れのかなしみ」から生きてあることのカタルシスを汲み上げていた。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。「生き延びる」ために拡散していったのではない。「結果」として生き延びてきただけのこと。なのに現代人は、それが目的になってしまい、その「結果」として生きてあることのカタルシスがあいまいになり、知性や感性も停滞してしまっている。


「さよならだけが人生だ」といった小説家もいるくらいで、「別れ」こそ人と人の関係の基礎になっている。他者に対する「ときめき」それ自体が、「別れのかなしみ」を含んでいる。
人と人の関係の自然は、共生関係の上に成り立っているのではない。物欲しげに女に寄ってゆく男はもてないし、すがりつかれたら男でも女でも鬱陶しくなる。魅力的な男や女は、「別れ」の気配を持っている。他者からちやほやされたがっていないし、他者をちやほやしようとしない。人と人は、「別れ」という「共生することの不可能性」の上に立って、そこからの「飛躍」としてときめき合ってゆく。その不可能性の気配に人はときめく。その「別れの気配」は、「死者の気配」、と言い換えてもよい。
もっとも深い「アイ・ラブ・ユー」の感慨は、「別れのかなしみ」とともにある。「あなた」がこの世に存在しないことのかなしみを込めて「アイ・ラブ・ユー」というのだ。「この世のものとは思えないほどの美しさ」などともいうではないか。人は、死者の尊厳を思うようにして他者にときめいてゆく。セックスアピールとはまあそのような気配のことで、魅力的な人は、人類の「生贄」として存在している。美人とは、(美人にもいろいろあろうが)ともあれ人類の「生贄」なのだ。
「生贄」とは、死の世界に遠ざかってゆく存在のこと。人の心は、その「遠さ」という「別れの気配」に向かってときめいてゆく。
セックスアピールとは、「生贄」の気配のこと。
どんなに生き延びる能力を自慢しても、あなたが魅力的であるとはかぎらないし、あなたの知性や感性が豊かだとはかぎらない。たとえば、正義を手にして正義を振りかざすとか、その鈍感な気配こそ目障りなのだ。人は、根源において「生き延びたい」と願っているのではない。人類は、そういう願いを共有し、たがいに相手を生き延びるための道具として利用し合いながら歴史を歩んできたのではない。生き延びようとするものは、他人を生き延びるための道具にしようとする。
少なくとも原始人は、そういう流儀で生きていたのではない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有しながら、そこから心が華やぎときめき合ってきたのであり、そのダイナミズムが人類の知性や感性に進化発展をもたらした。
魅力的な人とは、「もう死んでもいい」という「別れ」のタッチでものを思ったり行動したりすることができる人のことであり、そういう人と出会えば、こちらだって「もう死んでもいい」という心地になってときめいてゆく。心地というか、そういう心意気を持っていなければ魅力的じゃない。
あなたがどんなに生き延びる能力や正義とともにある誠実さを自慢し見せびらかしても、あなたは、あなたが思っているほど人から魅力的だと思われているわけではない。
 人と人は、正義からはぐれるようにしてときめき合っている。ときめくとは、他者の「生贄」になって死んでゆこうとすることであり、生き延びるために他者を利用することではない。


人の「もう死んでもいい」という心地とはひとつの「集中力」であり、「ときめき」とは「集中力」のことだ。二本の足で立ち上がっていったん猿よりも弱い猿になった原初の人類は、その「もう死んでもいい」という無防備な「集中力」によって知性や感性を進化発展させてきたのであって、生き延びようとしながらつねに外敵を警戒している「緊張感」によってではない。「緊張感」とは意識が散乱している状態であり、生き延びようとする「緊張感」は知性や感性を停滞させる。
かなしいかな、生き延びることにハンディキャップを負った下層世界にはそういう「緊張感」が強すぎてつい に知性や感性を花開かせることができなかった人がたくさんいるし、エリート世界だって、そういう人は一流にはなれない。無防備な「集中力」こそ、人間的な知性や感性を花開かせる。
現代社会は。「緊張感」を持っていないと生きられないし、「緊張感」によって社会的な成功への道が開ける。しかしその「緊張感」によって、認知症鬱病やインポテンツになったりもする。
エリートであろうと下層のダメ人間だろうと、豊かな知性や感性すなわち豊かなときめきを持ったものは、「もう死んでもいい」という一途な「集中力」を持っている。
たとえば、出勤途中の電車の中で本を読んでいるとしよう。そのとき、時間のことや下りる駅のことなどを気にしてばかりいたら、本を読むことに集中できない。人の集中力は、そんなことなどすべて忘れてひとつのことにのめりこんでゆくことができる。ほんとにおもしろい本なら、下りる駅のことなど忘れて乗り過ごしてしまったりする。
人類は、生き延びようとする「緊張感」で歴史を歩んできたのではない。「もう死んでもいい」という「ときめき=集中力」とともに知性や感性を進化発展させてきた。
魅力的な人はそういう「集中力」を持っているし、そこにこそ普遍的な人間性がある。原始人はみなそういう「集中力」を持っていたし、それによって人類は生き残って知性や感性を進化発展させてきた。
「集中力」とは、「もう死んでもいい」という心地とともにこの生からはぐれてゆくこと。学問や芸術のエリート世界でなくとも、魅力的な人はそういう「集中力」を持っている。
 この社会の制度性や仕事の世界は、人に「緊張感」を持つことを強いる。そうやって現代人は、生き延びることに執着しながら「集中力=ときめき」を失ってゆく。生き延びようと緊張しながら自分のまわりのあれこれを警戒しつつあれこれに意識が散乱してしまい、そのあげくに脳細胞のあれこれが疲弊しきって認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
 生き延びるとは「自分が生き延びる」ということであり、生き延びようとする衝動なんて、生きものとしての「本能」でもなんでもなく、現代人のただの「自己愛」にすぎない。まわりの人間はみんな敵だとか、みんなバカだとか、みんな自分に悪意を持っているとか、そういう自己愛で緊張しっぱなしで生きたあげくに認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
 人類の歴史は生き延びるための必死のいとなみだった……だなんて、そんな倒錯した問題設定で人類史の起源論が解き明かせるはずがない。
 今どきは生き延びることが正義の世の中で、人は、生き延びようとがんばり、そうした正義を手に入れることによって知性や感性を鈍磨させてゆく。エリートはエリートなりに、庶民は庶民なりに、正義を手に入れ正義に冒されながら知性や感性やときめく心を鈍磨させてゆく。あえていってしまえば、正義こそ諸悪の根源で、正義を振りかざしながら戦争や人殺しをするし、日常生活でも、正義を振りかざしながら人を傷つけることを平気でいったりしたりするようになってゆく。正義を振りかざす人間ほど他者の心のあやに鈍感なところがある。正義を手に入れれば、そんなことには鈍感でも生き延びることができる。というか、鈍感にならないと正義は手に入れられないし、生き延びられない。人は、生き延びようとがんばりながら正義に冒され、正義を振りかざして生きてきた結果として、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
 生き延びようとがんばることはこの社会の正義であるが、それが人間性の自然であるわけではないし、それによって人間的な知性や感性やときめきが豊かになるのでもない。
 人類の歴史は、生き延びようとがんばってきたいとなみであるのではない。そんな俗っぽいスケベ根性で人間的な知性や感性やときめきが進化発展するのではない。生きることに無防備な「もう死んでもいい」という感慨とともに他者の「生贄」になってゆく、そういうこの生やこの世界との「別れ」の心とともに歴史を歩んできたのだ。心は、「別れ」の体験においてもっとも深く豊かにときめいてゆく。そういう猿にはない「ときめき=集中力」を持ったことが原初の人類の「二本の足で立ち上がる」という体験だったわけで、その「ときめき=集中力」すなわち「飛躍」の心模様にこそ人類の文化が進化発展してきた契機がある。
 人の心は、「死=他界」に向かって「飛躍」してゆく。つまり、猿にはない人間性としての「死を意識する」とは「別れを意識する」ということであり、そこに人間的な文化のさまざまなニュアンスやダイナミズムがある。そこのところを考えないと、人類史の「起源論」には推参できない。
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