「これは違う」ということ・ネアンデルタール人論31

人の知能(知性や感性)は、正解や美を目指してはたらいているのではない。「これは違う」と判断する能力にあり、学者や芸術家は、最後に残った「違うとは言い切れないもの」をとりあえず正解なり美ということにしているだけなのです。だからこそ科学の歴史においては次々に新しい発見が生まれ、それまで正解となされていたものが正解ではなくなる、というイノベーションが起きてきたし、芸術だって、時代とともに美の様式はどんどん変遷してきた。そういうことが起きるのは、知性や感性のはたらきの本質が「これは違う」と判断してゆくことにあるからです。それがなければ、進歩とか発展ということは起きない。「これが正しい」とか「これが美しい」と決定してしまったら、進歩も発展も飛躍もない。
「これが正しい」と思うのではない、「これは違う」と思うのです。
 人類は、「正しい」ことなんか何もわかっていない。「これは違う」という修正をし続けてきただけです。新しい発見によって証明されるのは「正解」ではなく、前の正解が間違っていた、ということだけです。その新しい発見だって、「これは違う」といつかひっくり返される。それが科学の歴史だったのだし、街のファッションの流行だって、つねに「これは違う」と前の流行が否定される契機があって起きている。新しい流行は、前の流行を否定しているところに存在理由があるわけで、誰もそれが「永遠不滅の美だ」などとは思っていない。
 人間の知性や感性は、「これは違う」というかたちではたらいている。データを積み上げて正解を導き出すのではない。積み上げたデータを白紙に戻してしまうことが人間的な知性や感性なのです。芸術や芸能やスポーツや職人技術の進歩は、「こんなのではだめだ」と悩みながら進歩してゆくのでしょう。


「これは違う」という心の動きは、われわれが生きてあることに対する感覚そのものでもある。
 生き物は、この世に生まれ出てきたときに「これは違う」と思う。とうぜんでしょう。胎内は限定された予定調和の世界だったのに、生まれ出たこの世界は無限の広がりを持った生きられない空間になっている。そして「これは違う」と思うことは、この生きられない空間を受容することでもある。それまでの胎内空間を世界とする認識をいったん白紙に戻して忘れ、新しい生きられない空間を世界として受容してゆく。
 新生児はそこで、胎内空間を忘れる脳のはたらきが起きる。その「忘れる」ということが「これは違う」というはたらきです。それまでは予定調和の空間で自動的に生きていたのに、息をしたりおっぱいを飲んだりしなければならない状況に置かれてしまった。その状況を受け入れることは、それまでの自分の脳のはたらきのシステムを根本的に組み換えてゆくことです。まあ、組み換わってしまう、といったほうが正確かもしれない。避けがたく組み換わってしまう。それまでのシステムをすべて「これは違う」としながら組み換えてゆく。組み換えることによってはじめて息をするとかおっぱいを吸うという行為が生まれてくる。それは、胎内世界では体験したことのない行為なのです。それでもちゃんとそれをするということは、そこで脳のはたらきの組み換えが起きている、ということでしょう。
 われわれはもう、本能的無意識的なレベルで「これは違う」という心の動きを持っている。
 原初の生命は、生まれた瞬間に「これは違う」というかたちで死んでいった。人のその心の動きは、そういう生命の起源・本質に遡行してゆく試みでもある。
 命とは、「これは違う」というはたらきなのです。腹が減ったり息苦しくなったりするその「違和感」が命のはたらきです。痛いと思ったり暑いと思ったり寒いと思ったり。
 体に入ってきた毒を「これは違う」という違和感とともに排出することをホメオスタシス(恒常性)という。
 命のはたらきとは「違和感」のことだといえる。そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。人間的な知性や感性の本質・自然は、命のはたらきの起源に遡行してゆくことにある。
 それはつまり、心よりも体のほうがえらい、ということです。心は、体のはたらきに規定されている。そして体のはたらきは環境世界に規定されている。
 女の裸を前にして男のペニスが勃起する。けっきょくのところ、体のはたらきも心のはたらきも「環境世界」に規定されている。意識が「これは違う」という違和感を持つのは、体が環境世界からそういうプレッシャーを受けているからであり、だからホメオスタシスというはたらきが起きる。そしてそのはたらきが意識のはたらきの基礎になっている。
 意識のはたらきの本質・自然は「受動性」にある。
 そしてわれわれのこの命は環境世界に「許されていない」のであり、その違和感が命のはたらきになり、意識のはたらきになっている。原初の生命は、生まれた瞬間に死んでいった。すべてはそこからはじまっている。われわれの体のはたらきも意識のはたらきも、この世界に生まれ出たことの違和感としてはじまっている。
「これは違う」という認識は、意識のはたらきの起源・根源であると同時に究極でもある。この世のもっとも高度な知性や感性は「これは違う」というかたちではたらき、われわれ凡人だってそういう認識を基礎にして生きている。一流の学者や芸術家だろうとわれわれ凡人だろうと、知性や感性のはたらきのかたちは同じなのです。同じ人間なのだもの。


「これは違う」という認識は、「これとあれは似ている」という認識の裏返しでもある。人間的な知性や感性は、そういう類推思考(アナロジー)でもある。
 空の青と海の青は同じような色であるという類推思考から「青」という言葉が生まれてきた。空と海はまったく別のものであるはずだが、「青」という言葉によって類推関係を持っている。つまり、空を眺めても海を見ても、「青」という色に対する感慨そのものにそう違いはない。「青」という色に対する感慨から「青」という言葉が生まれてきたのであって、空を象徴する言葉として生まれてきたのではない。それは、海の青でもある。空と海は違う。しかし人は、空を眺めても海を眺めても、「遠いあこがれ」とか「深いかなしみ」などの似たような感慨を抱く。それは、「青」という色に対する感慨です。そのとき、空は海でもある。
「空は海だ」という言い方と、「空は海のようだ」という言い方は、ちょっと違う。「あの男は猿だ」というのと、「あの男は猿のようだ」という言い方が違うように。前者を「暗喩」といい、後者を「直喩」という。
 万葉集では、初期の歌ほど「暗喩」が多く使われ、後期になってから「……のようだ」という表現が定着してくる。
 このことを万葉学者の中西進氏は「古代人は人間と動物(自然)の区別をしなかった」などといいっておられるのだが、そういうことではない。人間ほど自然(=環境世界)に対する違和感の強い生き物もないのであり、「これは違う」という違和感を持っているからこそ、言葉の世界での類推関係を遊んでいただけです。たとえば、自分を群れて飛ぶ鳥に喩えて詠うとき、自分と鳥の区別がつかないのではなく、人間も鳥も群れの中で暮らしているという類推関係の上に立っているだけです。
 古代人は、そういう類推関係にことのほか敏感だった。それは、それほどに自然(=環境世界)に対する違和感が深かったからです。彼らは、現代人のような自然を支配しつつ自然と同化してゆく力を持っていなかった。
「空は海だ」といえば、それだけで誰もが青い色に対する「遠いあこがれ」や「深いかなしみ」を共有してゆく言語空間を持っていた。「青によし」は「青」という色から喚起されるやみがたい「望郷」の感慨をあらわす枕詞だったのであって、たんなる「奈良」のお飾りの言葉として使われていたのではない。そこのところで、現在の枕詞研究はぜんぶ間違っている。「よし」とはまさにそういう深くひそやかなあこがれをあらわす言葉だったわけで、空の青を眺めているとそういう感慨が胸に満ちてくる、というニュアンスの枕詞だったのです。
 古代人の類推してゆく知性や感性は、現代人よりもずっとラディカルだった。そしてそれは、「これは違う」という認識の裏返しだった。彼らは、生き物として環境世界から「許されていない」存在であるという嘆きを生きていたし、そこから心が華やぎときめき合っていた。
 
 

 われわれがこの世に生まれ出てきたことは何かの間違いであり、生き物が死ぬということは、命そのものが何かの間違いだということです。間違いだから赤ん坊は、自分の脳のはたらきをどんどん組み換えてゆく。この世に生まれ出てくれば、先天的にそなわった脳のはたらきでは生きられない。
 生き物は、存在そのものにおいて生きてあることを許されていない。
 人は、この生は何かの間違いだ、と思って生きはじめる。そうやって脳のはたらきを組み換えてゆくことによって生きられるのだし、組み換えてゆくことによって知性や感性に個人差があらわれてくる。
 先天的に優秀な脳などというものは存在しない。後天的な組み換えで優劣があらわれてくる。基本的にはそういうことです。
 あんまり「遺伝」ということを大げさに考えるべきではない。
 脳のはたらきは、後天的に「これは違う」というかたちでどんどん組み換えられてゆく。より豊かに「これは違う」というはたらきが起きた脳によって、より豊かな知性や感性が育ってゆく。


 正しい答えを持っているのが優秀な知性や感性であるのではない。「これは違う」という認識ができることによって本格的な知性や感性が育ってゆく。
 科学に「正しい答え」などない。「これは違う」と気づいてゆくことによってその歴史が進化発展してきたのです。正しい答えを持っている科学者など、この世にひとりもいない。さしあたりこれだけは「これは違う」とはいえない……というところにたどり着くのが科学の探求です。そしてそれすらも、次世代の科学者によって「これは違う」という証明がなされてゆく。
 この世に「正しい答え」など存在しない。このことに文科系も理科系もない。
 この世に「正しい社会」「正しい人生」「正しい人格」などというものは存在しない。そういうことを語りたがる人間がたくさんいて、そういう答えを欲しがっている人間がたくさんいるのもこの世の中だが、そのような集団からは本格的な知性や感性は育ってこない。それは、知性や感性の停滞です。
 すべての社会や人生や人格が「これは違う」と否定され新しく組み換えられてきたのが人類の歴史です。
 どんな立派な親でも「正しい親」になったとたん、子どもから「これは違う」と否定される。それが「歴史」というものです。
 現在のこの国は平和で豊かな社会になったせいか、「正しい親」のつもりの親がたくさんいて、子供から「違う」と否定されている。「正しい親」だから否定されるのです。親に反抗しようとするまいと、いつの間にか親とは違う人格になっていったりする。人間の知性や感性は、そのようにはたらく。


「揺らぎ理論」というのはもともと物理学から生まれてきたのだろうが、最近では生物学や経済学だけではなく芸術理論としても語られている。
 そうして、人工知能を実現する鍵は「揺らぎ理論」にある、と考えている科学者もいるらしい。
 いまや、「揺らぎ理論」という考え方は、科学だけのものではなくなってきている。
 もちろん僕は物理学の「揺らぎ理論」などというものはよく知らないのだが、「揺らぎ」という言葉から自分の思考が触発されるところはないわけではない。
「揺らぎ」とは、「この世に正しい答えなど存在しない」ということでしょう。
 物理学の法則がなんであれ、人間社会の「正しい答え」は、つねに「それは違う」と否定され乗り越えられてきた。
 コンピュータのはたらきはデジタルで人の脳のはたらきはアナログになっている、といってしまえばかんたんだが、人の脳だってデジタルなはたらきをする。そしてそのデジタルなはたらきのルーティンワークで社会的に成功したり心を病んだりしている。いったい人間的な知能とはなんなのか、その答えはかんたんには出せない。
「正しい答え」は、「それは違う」と否定され乗り越えられる宿命を負っている。
 答えがないのが人間的な知能だ、ともいえる。それもひとつの「揺らぎ」でしょう。答えはつねに「それは違う」と否定され乗り越えられる。
 人は「何、なぜ?」と問うが、答えを求めているのではない。問うことの、その「わからない」ことのなやましさを生きているだけです。いったん「わからない」というかたちで頭の中を白紙にし、脳のはたらきを新しく組み換えようとしているだけです。つまりそれは、自分の思考体系を「これは違う」と否定して新しく組み換えようとしていることです。
 自分の思考体系をいったん白紙にしてしまうことは、我を忘れて夢中になるということであり、そういう華やぎの体験です。頭の中をからっぽにして問題にときめいている。それが「何、なぜ?」と問う体験です。
「何・なぜ?」と問う心の「揺らぎ」がある。それは、みずからの思考体系をいったん白紙にする脳のはたらきです。物理学的な法則がなんであれ、人の心は、「この生もこの世界も存在することを許されていない」という感慨を前提にしてはたらいており、そうやっていったん頭の中をからっぽにして頭のはたらきを組み換えてゆくということをたえずしている。


 人の心の「揺らぎ」とは、脳のはたらきを拡大拡張することではなく、脳のはたらきを組み換えてゆくことです。この世に生まれ出た赤ん坊は絶えずそういうことをして成長してゆくということが科学的に明らかにされつつあるらしいが、大人の脳だってじつはそういうことをしているはずです。そうやって人類史のイノベーションが起きてきたし、「三つ子の魂百まで」というようにいったんつくられた人の性根が死ぬまで変わらないというのも、その組み換えの作法がそこで決定されるからであって、組み換えなくなってゆくことじゃない。われわれだって、乳幼児と同じように脳のはたらきを組み換えながら生きている。だから三つ子の魂は百まで変わらない。
 われわれは「許されていない」存在だから、絶えず「これは違う」と脳のはたらきを組み換えている。
 人の脳のはたらきは、そういう「揺らぎ」を持っている。それはつまり、この生が「許されていない」ということです。そして許されていないものは、この世界のすべてを許してゆく。
 この社会や他人が許せないというのは、自分の存在が「許されている」という前提を持っているからでしょう。その前提を危うくするものは、ぜんぶ許せなくなる。
 しかし人の本格的な知性や感性や人の心のときめきは、自分の存在を危うくするところから生まれ育ってくる。この世の生きられない赤ん坊や老人や障害者は、この世の存在や自分の存在を危うくする対象です。それでも人はそうした対象を介護してゆこうとするのは、そのみずからの存在が危うくなるところから心が華やいでゆくからでしょう。
 誰もが許されない存在として生きている。そしてこの世界のすべては許されている。
 この宇宙そのものが許されない存在としてやがて消滅してゆく運命を負っている。
 人の脳のはたらきの基礎は、「これは違う」という認識にある。「これは正しい」と決定することにあるのではない。この世界に「これは正しい」と決定されているものなど何もない。「これは正しい」と決定できる知性や感性など、たかが知れているし、そうやってみずからの存在の正しさに執着しながら他人が許せなくなる。「これは正しい」という予定調和の世界がないと生きられないなんて、ひとつの精紳の病です。
「これは違う」と認識してゆくこと、そこに人間的な知性や感性の基礎と究極のかたちがある。
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