この世界に体ごと反応するということ・ネアンデルタール人論230

人に対してであれ景色に対してであれ、この世界に「体ごと反応する」ということは、やっぱりあるわけですよ。
脳の「ブローカ野」という部分の名称で知られているブローカという学者は、「人は言葉を記憶しているのではない、言葉の運動を記憶しているのだ」といっている。言葉のすべてを記憶していたら脳はパンクしてしまうし、もともと脳にそんな絵空事の物語が描かれているはずもない。人間の脳だってたんなる動物的な「はたらき」の器官というか、ようするに「はたらき」であり、身体の各部位の神経との関係の上に起こっているのだ。身体は身体の外の世界に反応して、神経のはたらきが起こる。それが脳と連動して、たとえば寒いとか暑いと思う。基本はそういうことで、言葉を思い浮かべるときだって、過去に聴覚神経で起きた声を「聞く」という体験の痕跡とか喉の神経の音声を発したときとか、さらには視覚神経の文字を「見る」という体験の、その「はたらき」の痕跡などが脳のはたらきと連動して「思い出す」ということが起きるらしい。
われわれは言葉を記憶しているのではなく、そのつど「思い出す」のだ。体ごとの体験として思い出すのだ。
感動して鳥肌が立つ、などという。そうやって体中の皮膚がざわざわしている。「気づく=反応する」とは体ごとの体験、われわれは体のシステムとして「気づく=反応する」のであって、脳のはたらきだけですんでいるのではない。

作業記憶能力、というのがある。これは人に特別にそなわった能力かというと、そうではないらしい。たとえば、テレビ画面に次々と変わってゆく数字を映し出し、それを人とチンパンジーのどちらがたくさん記憶しているのかという実験をすると、チンパンジーのほうがずっとたくさん記憶しているのだとか。
ルーティンワークというか、作業記憶能力がすぐれているからといって、頭がいいとはいえない。人の知性とか感性というのは、そういうことではないのだ。
人類の作業記憶能力は退化している。そのかわり、「今ここ」に立ち止って意識を集中させる能力は、チンパンジーよりもずっと発達している。意識の焦点を「今ここ」の一点に結んでゆくということ、そうやって人は、ときめいたり思考したりしている。
チンパンジーの意識は、時間的にも空間的にも拡散している。つまり、まわりの世界に対する緊張感や警戒心が強いために意識の焦点がまわりのあれこれに分散してしまっている。それに対して人類の意識は、そういう緊張感や警戒心を忘れて一点に焦点を結んでゆく。その思考しときめいてゆく「集中力」によって知能というか知性や感性を進化発展させてきた。そしてそれはまわりがぼやけていることなのだから、とうぜん作業記憶能力は退化してゆく。まあ、まわりの世界に対する警戒心や緊張感の強い人ほど作業記憶能力は発達しているし、そういう人ほど「感動する=ときめく」心の動きは希薄な傾向がある。それは、「作業記憶能力=ルーティンワーク」の上に成り立った現代社会の構造から生まれてくるひとつの病理にほかならない。

「感動する=ときめく」能力なら、おそらくわれわれ現代人よりも古代人やネアンデルタール人のほうがずっと豊かだったにちがいない。
それでも人は、感動する(=ときめく)生きものであり、現在だってその能力ならチンパンジーに負けない。それこそが、じつは人類の知能というか知性や感性の正味なのだ。
「ときめく=感動する」から勉強に熱中できる。何かの目的意識で頑張っても、そういう無邪気な「熱中」にはかなわない。それは、勉強でもスポーツでも同じこと。目的意識で熱中するのではない。何かにせかされてときめき感動し、熱中してゆくのだ。そしてその「何か」とは「生きてあることいたたまれなさ」のようなものであり、そのいたたまれなさは、人間なら誰の中にも疼いている。悪事をたくらむにせよ、学問や芸術や恋やセックスや消費行動に熱中するにせよ、人の行為や思考は、おそらくすべてその「いたたまれなさ」にせかされている。その「いたたまれなさ」にせかされて意識が一点に焦点を結んでゆく。われわれは無力な赤ん坊だったころにさんざんその「いたたまれなさ」を味わわされ、死ぬまでそれを引きずって生きてゆく。
たとえば身近の大切な人に死なれたとき、いたたまれなくて何もかもどうでもよくなってしまうだろう。そんなとき、「人はこう生きねばならない」などと説教されても、うるさいだけだ。幸せ自慢をされても、うらやましくもなんともない。好きでもない人間と無理して仲良くすることなど、面倒でやってられない。
人が二本の足で立っていることはとてもいたたまれないことであり、人類は、直立二足歩行の起源以来、猿よりも弱い猿として、たとえばまわりの仲間がどんどんかんたんに死んでゆくとか、いたたまれないばかりの歴史を歩んできたのだ。
だから、どんなに住みにくい土地へでも拡散してゆくことができたわけで、その果てに氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたネアンデルタール人の社会など、まさにまわりの仲間がどんどんかんたんに死んでいったのだ。しかし彼らは、その「いたたまれなさ」にせかされながら、意識が一点に焦点を結んで他愛なくときめき感動し熱中してゆくことを豊かに体験していた。

人は、根源において、「何もかもどうでもいい」というところから生きはじめる。そこから意識のはたらきが、一点に焦点を結んでゆく。そうやって何かにときめき感動し、熱中してゆく。
「いたたまれない」という思いは、頭の中だけの観念ではない。身体感覚なのだ。人は、身体感覚として、ときめき感動している。そしてそれは、意識が一点に焦点を結んでゆく現象であり、そうやって身体もまた一点に向かって「消えてゆく」心地として体験されている。
意識にとって身体は、消えてゆくときにこそ、もっとも確かに実感されているというか、もっとも深く豊かに意識と身体が和解しているのだ。
二本の足で立っている人類の意識にとって身体は、あくまで鬱陶しくいたたまれない対象であり、「消えてゆく」というかたちでしか和解できないし、そこにおいてこそ、ときめき感動するという深く豊かな「快楽=官能」が体験されている。
まあ女のオルガスムスは、おそらくそうやって身体が「消えてゆく」心地として体験されている。
べつにセックスだけのことではなく、われわれのこの生のいとなみにおける「体ごと反応する」というときめきや感動の本質は、「身体が消えてゆく」心地として体験されている。そのときこそ、体中の神経が活性化している。
小さな花を見て「かわいい」とときめくこと、それ自体がすでに「身体が消えてゆく」心地の体験なのだ。
今どきは「癒し」などという言葉がよくつかわれるが、それだって「身体が消えてゆく」心地の体験以外の何ものでもない。
「この生=この身体」はいたたまれない。であれば、「この生=この身体」が消えてゆくときにこそ、もっとも深く豊かに癒されている。
身体が大事で身体を身体のまま温存しようとすること、すなわち生き延びようとすることは、身体と和解していないことなのだ。つまり、身体の神経が活性化していないということ、体ごと「反応」していないということ、そうやって大人の男たちはインポテンツになってゆく。
人は「身体が消えてゆく」というかたちで身体と和解する。そのようにして死に対する親密さを心の底に抱えていることにこそ人間性の自然がある。


人類は生き延びようとする「未来に対する計画性」で知能や文化を進化発展させてきたのではなく、「死に対する親密さ」とともに「今ここの世界の輝きに体ごと反応してゆくときめきや感動」によって知能や文化を進化発展させてきたのだ。
このブログでは、人類史の「起源論」をそういう問題設定で書き変えてみたいと試みている。勝算なんかないのだけれど、ここまで来たらもう後戻りはできない。
今どきは、「未来に対する計画性」の正義と人間理解が大手を振ってまかり通っている世の中で、その嘘と倒錯によってわれわれは追いつめられている。そんな正義と人間理解を振りかざすものたちだって、みずからのその嘘と倒錯に追いつめられている。
そりゃあね、誰だって「世の中変えてやる」という気になりますよ。そんなことができるはずもないのだけれど、そう思わないと生きていられなくなってくる。そこのところでは、秋葉原事件の加藤君だろうと、ただしょぼくれて生きているだけの老人である僕だろうと、同じなわけですよ。おそらく誰にだって、そういう思いが胸の奥のどこかしらに疼いている。なんだかいたたまれない。「人間性の自然」が追いつめられている世の中だ、というか。
まあ「未来に対する計画性」においては、それをうまく実行できない「愚かなもの」たちのほうが、実行して得意満面でいるお利巧なあなたたちよりもずっと「人間性の自然」に沿っているのですよ。人は、「未来対する計画性」など打ち捨てて「今ここ」の一点に意識を集中し、ときめき感動しているのだ。それは死に対する親密さから起きてくるのであり、原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散し、言葉ををはじめとする人間的な文化を進化発展させてきた。
死に対する親密さは、自殺しようとする衝動の源泉ではない。死に対する親密さこそが人を生かしている。そこから、心や命のはたらきが活性化してくる。
死に対する親密さがあるからこそ「今ここ」の一点に焦点を結んでときめき感動してゆくことができるのであり、そしてそれによって、いたたまれないこの生と和解してゆく。

この身体この生が、「今ここ」の一点に向かって収束し「消えてゆく」心地とともに、われわれはこの生この身体と和解してゆく。
日本列島の昔の人は、この「消えてゆく」ことを「あはれ」といった。自分を忘れて何かにときめき夢中になってゆくことだって、「あはれ」の体験なのだ。
生きてゆく次の瞬間は、「今ここ」の一瞬が「消えてゆく」ことによってやってくる。そうやってこの生やこの世界は移ろってゆく。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、その姿勢をとることによって現出した「世界の輝き」にときめきながら、「自分」が「消えてゆく」という体験をした。そうして、死に対する親密さが芽生えていった。
人類の死に対する親密さは、「消えてゆく」という体験の上に成り立っている。
人は、自分に執着してというか、自分にとらわれてしまって、心を病んでゆく。つまり「消えてゆく」というタッチを失って、心を病んでゆく。
二本の足で立っている人類にとってこの生は根源においていたたまれないものであり、「消えてゆく」というタッチを持たなければ生きられない。「消えてゆく」というタッチを持たなければ、ときめき感動するという体験はできない。
地球の隅々まで拡散していった人類は、「消えてゆく」というタッチを持っていたから、住みにくい土地でも住み着いてゆくことができた。
「消えてゆく」ことは、ときめき感動する体験のこと。体ごと反応するから、体ごと「消えてゆく」ことができる。
体ごと反応するから、「消えてゆく」という体験ができる。脳だけで反応していたら、できない。
現代社会のときめくことができないという病理は、おそらく脳だけで反応していることによって起きているのだろう。
近ごろでは「脳の活性化」などとさかんにいわれたりするが、脳は体じゅうの神経細胞と連動してはたらいている。心という脳のはたらきは、体ごと反応してゆくことによっよってもっとも活性化する。そして体ごと反応してゆくことは、「消えてゆく」心地とともに起きている。この生の逆説というのか、新しい心の動きは、もとの心が「消えてゆく」ことによって起きてくる。そうやって心という脳のはたらきは、移ろい展開し活性化してゆく。つまり、死と親密になることは、この生が活性化することなのだ。
なんにしても人間的な知性や感性は心が移ろい展開してゆくことであり、この生や正義に居座っていてもしょうがない。それこそが知性や感性の停滞・衰弱なのだから。そんなことはどうでもいい。その「どうでもいい」という感慨とともに「消えてゆく」という体験が起きている。心は、明日のことなんかどうでもいい、と思いながらときめき熱中してくのだ。
まあ人生なんて、10年20年後に死のうと明日死のうと同じことなわけで。
「今ここ」があるだけだし、「今ここ」に「消えてゆく」ことによって、心も命も活性化する。日本列島の古代人はそういうことを「もののあはれ」といい、ネアンデルタール人はそうやって人と人が他愛なくときめき合ってゆくフリーセックスの社会をつくっていた。
「あはれ」とは「カタストロフィー(悲劇的消失点)」のこと、それを思うことには日本人も西洋人もないし、今も昔も変わりない人の心の普遍的な自然なのだ。
すべてのことは、どうでもいいんだよね。心はそこから華やぎときめいてゆく。