貨幣経済の進化論

金が仇の世の中で、アメリカのトランプは根っからの商売人だし、今や世界中の政治が経済の問題を中心にして動いているのだとか。

トランプが軍に命令してイランのスレイマニ将軍を殺させたのも、つまるところ石油利権や軍事利権が絡んだ問題だともいわれている。しかし世界的にどんな状況があるとしても、人を殺していいということにはならないだろう。だから僕は「正義」という言葉が嫌いなのだ。トランプの、あの正義ぶったどや顔を見るとうんざりさせられるが、それを支持する貧しいアメリカの民衆もたくさんいるのだから、人の世のしくみのややこしさというのはなんともやりきれない。

その「ややこしさ」の底に経済の問題が横たわっている。

イギリスのEU離脱が経済の問題を度外視した民族のプライドだといっても、そんな単純なものでもないだろう。富裕層にとっては、世の中に貧乏人がいたほうがみずからの既得権益を守り優越感を満足させることができる。それが「階級制度」を確立してついに革命という名の階級闘争を起こさせなかった国の伝統であり、貧乏人からお金を絞り取る方法はいくらであるし、富裕層とはそれを熟知している者たちなのだ。何しろ塩本主義発祥の国なのだもの、彼らの頭の中に経済のことがなかったはずがないし、その意識は第三者が想像する以上の印影とか屈折があるのかもしれない。すでに階級制度を確立している国だからこそ、「移民」という新しい階級に入ってこられては困る。富裕層はそれを守りたいのだろうし、「移民はろくに働きもせずに納税しないまま国の社会保障制度を食い散らかしている」という不満が貧しい労働者階級にもくすぶっており、それによって納税意欲もそがれてしまう。そうして「移民を養う負担を減らせば雇用も経済も安定する」という考えにもなってゆく。とにかく、彼らには彼らなりの経済意識があるのだろう。

世界は「経済=お金」で動いている。

今やこの国でも経済評論家は商売繁盛の世の中らしく、多くの人々が「景気」とか「金融」とか「貨幣経済」ということに大きな関心があって、素人でも知ったかぶりしてそのことを語ろうとしていたりする。

僕はもともとまるっきりの政治オンチで経済オンチだからそういうことはよくわからないのだが、「人類史における貨幣の起源と本質」という問題なら大いに関心がある。それだっておそらく、「直立二足歩行の起源」のところから考えることができるにちがいない問題だからだ。

 

猿の集団はひとまずボスがメスとのセックスの権利を独占しているいわば「親族社会」であるが、二本の足で立ち上がった原初の人類の場合は、たくさんのはぐれ猿がどこからともなく集まってきた、いわば「無主・無縁」の関係のフリーセックス集団だったのであり、じつはそういう関係だったからこそみんながいっせいに二本の足で立ち上がるということが起きたのだ。まあこのことには偶然のさまざまな環境条件が重なっているにちがいない。とにかくそういう関係の集団でなければ起きるはずがないのだし、であればそれによる集団の「経済」の決定的な違いもあったことになる。

そのとき猿の社会には、強い者が既得権益を得る、という資本主義的な経済のかたちがあった。それに対して「無主・無縁」の関係の原初の人類の集団は、だれもが他愛なくときめき合い助け合うという「原始共産制」の経済の上に成り立っており、そこには「既得権益」も「私有財産」もなかった。

まあ現在の「家族」という集団だって、「父」とか「母」とか「夫」とか「妻」とか「兄」とか「弟」とか「姉」とか「妹」という、猿の集団と同じような「順位制」の上に成り立った「既得権益」が存在している。したがって「家族」といえどもやはり資本主義経済の補完的な機能を持っているのであり、その部分においては「原始共産制」と矛盾している。ゆえに「無主・無縁」の関係が基本だった原始時代に「家族」などというものはなかった。

そういう「無主・無縁」の関係の「原始共産制」の社会から「起源としての貨幣」が生まれてきた。

つまり、「貨幣の起源」においては、現在絶好調の資本義的な「既得権益」や「私有財産」を担保するものではなかった、ということだ。そして「交換」とはたがいの持ち物が「私有財産」であることの上に成り立つ行為だとすれば、原始社会に「交換」という行為などなかったのであり、人間性の自然・本質は「交換の不可能性」を負っている。だから、そのための形見として文明社会における「貨幣」が生まれてきたのであり、そこにいたるまでにはさまざまな歴史の紆余曲折があっただろうし、現在でもなおそれが「交換」ではなく一方的な「贈与」や「収奪」の機能として使われていたりする。

「貨幣の起源と本質」は、けっして「交換」の道具であるのではない。貨幣の起源が「きらきら光る」貝殻や石粒だったとすれば、貨幣は原始時代にも存在していたことになるし、もちろん「交換」の道具でもなかった。

 

「貨幣の起源」を問うことは、人はなぜ「きらきら光る」ものが好きなのか、と問うことだ。

それはもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっている。そのとき人類は、青い空を見上げた。空には、太陽が輝いていた。太陽は、青い空の向こうからあらわれて、青い空の向こうに去っていった。青い空の向こうとはどんなところだろうか。そこは、光り輝く世界だろう、と人類は思った。そうして、その光輝く世界にあこがれた。

なぜあこがれたのかといえば、生きてある「今ここ」が辛く苦しいものだったからだ。「今ここ」が安楽で楽しければ、あこがれたりはしない。

おそらくそのときの人類の一集団は、絶滅の危機に瀕していたのだろう。強い外敵に追い詰められていたのではない。それだったら必死に逃げるし、逃げるためには、もっとも慣れた身体動作である四本足で走る。不慣れな二本足の姿勢で早く走れるはずがない。またそれは、胸・腹・性器等の急所を外にさらした、きわめて無防備で危険な姿勢でもある。したがって、敵と戦っていたのでも逃げていたのでもない。

だったらそれは、「食糧危機」という「経済」の問題に遭遇していたのだろうか。

まず、彼らがなぜその森にいたのか、ということから考えてみよう。そこは、どんな森だったのだろうか。

たとえばそのころの気候の乾燥化によってジャングルの森が後退し、森を侵食するようにサバンナの地域が広がっていった。そうしてその境界あたりでは、小さな森が孤立して取り残された。そこにあちこちの群れからはぐれた者たちが逃げ込んできて、はぐれ者どうしの「無主・無縁」の集団が生まれた……ということだろうか。

またそのサバンナの中の森は、彼らが樹上だけで生活ができるほどの密林ではなく、地面も丈の高い草に覆われていたから地上を移動する機会が増えたし、そのときには二本の足で立って歩いたほうが具合がよかったのかもしれない。

とにかく、猿の主食である豊富な木の実が得られるほどの森ではなかった。しかし、集団の人数はどんどん増えていった。そうなればとうぜん「食糧危機」がやってくるし、「無主・無縁」の集団だから余分な個体を追い払おうとする動きが生まれる「順位関係」もなかった。

彼らは絶望し、途方に暮れていった。おそらくそういう気分で立ち上がり、青い空を見上げた。経済の言葉でいえば、みんなが貧しい状態になった、ということ。このときにみんながエゴをむき出しにして食糧を奪い合っていけば、遅かれ早かれ群れそのものが自滅してゆき、現在の人類種は存在していないことになる。

 

「個体維持の本能」などというが、勝ち残った最後のひとりは、どのようにして種を存続してゆくことができるだろうか。できるはずがない。生きものは必ず死ぬのだし、人類は単体生殖してゆくことはできない。オスにはメスが必要だし、子供が生まれれば自分の食糧を削ってでも育ててゆかねばならない。30万円の収入がある3人家族は、ひとり10万円ずつに振り分けて暮らさなければ家族として存続できない。

食糧危機に瀕した原初の人類集団が種として存続できたということは、その少なくなった食料をみんなで分け合って食べた、ということを意味する。ハチの巣があのようなかたちになっているのは、各個体の生存スペースを最小限にしていった結果にほかならないのであり、それが生きものの本能なのだ。

みずからの生存スペースを最小限にすること、これが生きものの本能であり、そうやって「生物多様性」が成り立っているのであり、原初の人類が二本の足で立ち上がることは、じつはそういう現象だったのだ。

そのとき四本足の猿が二本の足で立ち上がることはみずからの生存スペースを最小限にすることだったのであり、現在でも大災害に逢えばだれもがみずからの生存スペースを最小限にして助け合う、それと同じことだ。そうしてそれをうながしたのは、彼らの「絶望」だった。そのとき彼らはだれもが「弱い生きもの」になり、だれもが「弱い生きもの」である他者を生きさせようとしたわけで、それはまた「弱い生きもの」である自分を生きさせることでもあった。

すべての生きものにおいて「種の存続」を可能にしているのは「弱い存在を生きさせる」すべを身につけてゆくことであって、「強くなってゆく」ことではない。それが「進化の法則」だ。

原初の人類は二本の足で立ち上がることによって「強くなった」のではなく、「弱いものを生きさせるすべを身につけていった」のだ。進化とは「強くなる」ことではなく「弱くなる」のだということを、原初の人類の「直立二足歩行の起源」が証明している。

 

現在の世界は強い者たちが繁栄を謳歌する世の中になっているわけだが、それによって世界全体の景気が良くなったかといえば、むしろ逆に後退=退化してきている。

だれもがみずからの生存スペースを縮小して「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせようとしなければ進化は起きないし、景気は良くならない。人が人であるかぎりいつの時代もそうした進化の動きはあるわけだが、文明社会とか資本主義社会というのはその動きを覆い隠してしまう構造になっており、それはきっと「貨幣」ほんらいのかたちが変質してしまっていることにある。

すなわち、もともと「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせるための形見であったはずの「貨幣」が、強い者がより繁栄するための道具に変わってしまった。貨幣によって「利潤」が生まれ、それがどんどん強い者のもとに吸い上げられてゆく仕組みになっている。

それでもいつの世も「捧げもの」としての「浄財」というのは人々のあいだに存在し、これが貨幣の本質であるのだけれど、「私有財産」や「既得権益」の上に成り立った現在の社会では「利潤」の吸収・収奪が貨幣の第一義的な機能になってしまっているというか、それが貨幣の本質だと信じられている。

「利潤」を生み出すことが貨幣の本質であるのではない。「捧げもの=浄財」であることの本質に付け込んで「利潤」が生まれてくる。「捧げもの=浄財」をせずにいられない人は、その人間性の本質において「等価交換」ができない。必ず「贈与=浄財」の部分が加わらなければ「交換」は成り立たない。それが「利潤」になる。原価が100円の商品を150円で買う。労働者は1500円の仕事をして1000円の給料をもらう。

人が「贈与=捧げもの=浄財」を差し出すのは、生きものとしての本能でもある。そうやってみずからの生存のスペースを縮小して集団をつくってゆくことによって生物多様性が成り立ち、進化という現象が起きている。

たくさんの収入があればたくさんの税金払うのは当然のことで、それが原初の人類が二本の足で立ち上がることによって獲得した人間性だったのだし、しかもそれは生きものとしての本能に遡行することでもあったのだ。

 

消費税の増税とか国民保険料の値上げとか、現在のこの国では、富裕層の減税を進めつつ貧しい者たちから搾り取ることによって国家という集団の運営を成り立たせようとしている。それは人間として病んでいる状態であり、そうやって国家が衰退していっている。

まあ「捧げもの=浄財」が伝統の国だからこそ、支配者は平気で貧しい民衆からたくさんの税を搾り取るということをする。とくに官僚たちはそういう意識があからさまなのだが、それはもう大和朝廷発生以来のこの国の伝統なのだ。

20年以上デフレ不況が続いているのは、世界中でもこの国だけらしい。因果なことにこの国の民衆は人間性の自然としての「捧げもの=浄財」の衝動を豊かにそなえているから、そこに付け込まれてそういうことなってしまう。四方を荒海に囲まれて長いあいだ異民族との軋轢を経験してこなかったこの国には権力社会と民衆社会との「契約関係」がなく、両者の意識が大きく乖離している。

民衆から無際限に税を搾り取ろうとするのはこの国の権力者の本能であり、とくに官僚たちは根っからそういう人種であるらしい、彼らは天皇や政治家を隠れ蓑にしながら、何のためらいもなくそういうえげつないことを推し進めてくる。それはもう、古代の大和朝廷の貴族が天皇を隠れ蓑にしながら好き勝手なことをしてきた以来の伝統なのだ。

しかしそれは、天皇に責任があるのではない。あくどいのはあくまで権力者たちであり、天皇は、民衆社会が「贈与=捧げもの」の上に成り立っていることのよりどころとしての存在にもなっているし、だからこそ権力者からいいように搾取されるというジレンマも抱えてしまっている。

民衆はもっと直接的に天皇とつながらなければならない。京都の「町衆」の自治が発達したのは、天皇との直接的な関係を持てる土地柄だったからだ。

また奈良は、古代以前から民衆自治がもっとも発達した地域だったにもかかわらず、平安遷都とともに天皇との直接的な関係を失ったことによって、民衆自治の能力も衰退していった。

この国においては、天皇の存在こそが民衆自治の能力を担保している。地震や台風などの大災害が起きればかならずみんなで助け合い、妙な混乱は起きない。しかしだからこそ、かんたんに権力社会から支配されてしまう。横暴な支配に対する艱難辛苦は民衆自治によって耐えようとするだけで、権力社会を倒そうとする動きは起きてこない。

 

人はなぜきらきら光るものが好きなのか……これが、貨幣の起源と本質の問題である。

きらきら光るものは「セクシー」だ。

原初の人類は二本の足氏で立ち上がり、青い空を見上げ、きらきら光る太陽の輝きに感動した。そうして太陽がやってきて去ってゆく「異次元の世界」に対する遠いあこがれを抱いた。これが、人類が「貨幣」を生み出す原体験だった。そうして、その体験を今なお引きずってこの世に「貨幣」が流通している。

それはまあ「ときめく」という体験でもあったわけで、これによって猿から分かたれたともいえる。これによってときめき合いながら一年中発情しているようになり、その「ときめき」とともに人間的な知性や感性がどんどん進化発展してきた。

「きらきら光るもの」であった「貨幣」は、その遠いあこがれの形見として生まれてきたのだし、それが「死」に対するあこがれでもあるがゆえに、「利潤」という名の「収奪(=支配)するもの」と「収奪(=支配)されるもの」との関係にもなっている。

人の心の「ときめき」の底には、「異次元(=死)の世界」に対する遠いあこがれが息づいている。

「貨幣」はもともと「死=滅亡」に対する遠いあこがれとともに一方的に「贈与」し、みずからの生存のスペースを最小限にするための形見として生まれてきたのだが、それゆえにこそいろいろややこしい性格のものへと変質してこの社会に流通するものになってきてしまった。

「収奪される」とは「贈与=捧げものをする」ということだ。権力者は民衆のそういう本能的な衝動に付け込んで「収奪=支配」してきて、それが民衆社会の隅々にまで張り巡らされているのが現在の世界であるのかもしれない。

それでも人の世が人の世であるかぎり一方的に「贈与=捧げもの」をし合うという関係は存在するのであり、それが人類史の原初の関係であると同時に究極の関係でもあろうと思える。

 

資本主義社会は、けっして究極の人の世のかたちではない。

「贈与=捧げもの」の本能を持った存在である人類は、究極の人の世のかたちとしての「共産制」を夢見ている。ただそれは「マルクス共産主義国家」とか、そのようなものではないということだ。

貨幣の本質に照らせばこそ、究極においては「共産制」になってゆくほかない。それは、一方的な「贈与=捧げもの」の形見として世の中に流通している。現在の社会経済がどれほど高度で巧妙な「搾取・収奪」のしくみの上に成り立っていようとも、その「搾取・収奪」それ自体が「贈与=捧げもの」であることの上にしか成り立たない。

他愛なくときめき合い助け合う集団としての「共産制」……すなわちそういう「祭りの賑わい」こそが人類普遍の原初的な集団のかたちであり、それがこの国の民衆社会の伝統でもある。

この国の民衆自治はひとつの「お祭り」であり、それは「新しい時代を夢見る心」を共有してゆくことの上に成り立っている。そのだれもが他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」とともに集団運営のダイナミズムをつくってゆくことを昔の人は「まつりごと」といったのであって、権力者が「支配」することをいったのではない。それはもともと、民衆のあいだで交わされていた言葉だった。

この国の民衆は権力者を倒すことなんかしない。権力社会を置き去りにしながら、新しい時代を夢見てみんなで自分たちのカリスマを祀り上げてゆく。そういうかたちで投票率が上がれば、きっと現在のこのひどい政治体制も変わるのだろう。

なんのかのといっても10年前の民主党政権誕生のときは「祭りの賑わい」の盛り上がりがあったから投票も上がった。であれば今、それを生み出すことのできる政治的カリスマはいるだろうか。枝野幸男玉木雄一郎ではいかにも心もとない。彼らの政治的な主張が正しいか正しくないかということ以前に、セックスアピールに乏しい彼らのキャラクターでは、民衆社会の「祭りの賑わい」が盛り上がることはない。山本太郎が彼らより「セクシー」であるのは、「もう死んでもいい」という勢い持っているからであり、べつにハンサムだからとか、そういうことではないし、それは命のはたらきの本質の問題なのだ。

世の中が「セクシー」に動かないことには、「新しい時代」は生まれてこない。

 

命のはたらきは「セクシー」なものだ。

「セクシー」とは「もう死んでもいい」という勢いのこと、そうやって命のはたらきは起きるのであって、生き延びようとしているのではない。生き延びるためにもっとも有効なのは命のはたらきを停滞させて「今ここ」にとどまることだろう。「命がはたらく」とは、「死に向かっている」ということだ。したがって「もう死んでもいい」という勢いが起きているときこそ、もっとも命のはたらきが活性化している。

原初の人類は、「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がった。その「もう死んでもいい」という勢いが、「青い空」と「きらきら光る太陽の輝き」と、さらにはその向こうの「異次元の世界」に引き寄せられていった。その(感動)体験が「きらきら光るもの」としての「貨幣」を生み出したのであれば、「貨幣」とはもともと「セクシー」なものだったといえる。

命のはたらきも人の世も、「セクシー」に「もう死んでも(滅んでも)いい」という勢いで動いてゆく。その形見として「貨幣」が生まれてきたのだし、今なおじつはその本質の上に貨幣経済が成り立っている。

「貨幣」とは、命と同様に大切に「貯め込む」ものであると同時に「消えてゆく」ものでもある。そして光の輝きと同様に「出現する」ものであると同時に「消えてゆく」ものでもある。現在の貨幣経済だってそのようにして成り立っているのだし、それが命のはたらきの本質でもある。まあ貨幣であれ人であれこの世界であれ、人はそのような「セクシー」な対象にときめき追いかけようとするわけで、そうやって人生が流れ世の中の歴史が流れてゆく。

気取ったインテリたちが「貨幣=お金には意味も価値もない」などというが、そんな安直な認識は彼らのナルシズムからくるただの思考停止にすぎない。「貨幣=お金」には、命のはたらきの本質にかかわる深い意味が宿っている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。