生きにくさを生きる・ネアンデルタール人論20

 現在のこの国の集団的置換説のもっとも代表的なテキストはきっと、C・ストリンガーとC・ギャンブルの共著『ネアンデルタール人とは誰か(朝日選書)』にあるのでしょう。
 僕にとってははなはだ不愉快な一冊で、読めば読むほど「こいつらほんとにアホだなあ」という思いばかりが募ってくる。彼らの考えることは、卑しく底が浅い。
 彼らはこういう。ネアンデルタール人はただもう頑丈な身体を持つことによって寒さを克服していただけだったが、クロマニヨン人は知能=文化によって克服していった、そこに大きな分水嶺が横たわっている、と。
 ネアンデルタール人の祖先がはじめて氷河期の北ヨーロッパに住み着いたのがおよそ50万年前ころで、そこからクロマニヨン人が登場してくるまでの40数万年間をひたすら身体的にその激烈な寒さに耐えていただけで知能=文化の発展はほとんどなかったのだとか。
 何を幼稚なことをいっているのだろう。よくそんなくだらないことがいえるものだ。
 そんなはずがないじゃないですか。
 もちろんそのあいだに石器も狩の方法も進化してきたし、人間なんだもの、そうした環境を生きればそれなりにいろんな思いや考えが堆積してゆく文化の歴史がないはずないじゃないですか。そのあいだに、ネアンデルタール人ならでは人や世界に対する感じ方や生きる作法の文化が育ってきたに違いないのだけれど、この二人にはそれに対する想像力がまるでない。
 こんなアホが世界の人類学をリードしているなんて、まったくいやになってしまう。
 たしかにネアンデルタール人は、生きのびるための技術的な問題にはわりと無頓着だった。なぜなら彼らは、その40数万年間を、「もう死んでもいい」という感慨とともにひたすら「今ここ」の「ときめき」を生きる「祭り=遊び」の文化を育てながら歴史を歩んできたからです。
 たとえば、ネアンデルタール人が10万年くらいほとんど狩のための石器を変えなかったということは、彼らの思考や感性が愚鈍だったことを意味するのではなく、「生きのびるための生存戦略」にはわりと無頓着だったことを意味しているだけのことです。彼らにとっての狩はあくまで心ときめく「祭り=遊び」だったのであり、おおむね祭りの道具や作法は古いまま踏襲されてゆくのが普遍的な法則です。彼らは石器を変える知能がなかったのではなく、変えたくなかったのです。
 ヨーロッパ人は、今でも街並みや生活習慣など古いものを残そうとする傾向が強い。生活に不便でも、その伝統を守ろうとする。彼らは、生きにくさを生きることから心が華やぎ知性や感性が育ってくることをよく知っている。ヨーロッパの歴史とは生きにくさを生きる歴史だったともいえる。それは、ネアンデルタール人以来の、人と人がときめき合う関係を生きようとする伝統でもある。
 ネアンデルタール人は「祭り=遊び」を生の第一義的な作法として生きていた。
 人類の文化は、「祭り=遊び」から生まれてくる。彼らは、生きのびるための技術の問題などどうでもいいと思ってしまうくらい、とても文化的な存在だった。
 ひとりひとりは「もう死んでもいい」と思いながら、けんめいに他者を生かそうとしてゆく。けんめいに他者を生かそうとすることによって「もう死んでもいい」という心地になってゆく。人類の文化は、この心模様から生まれ育ってきたのです。
 みんなして生きにくさを生きながら他愛なくときめき合ってゆくのが彼らの生きる作法だった。生きのびることなんか、どうでもよかった。そうでなければ、あんな苛酷な地に住みついたりはしない。
 この二人の著者はそういうことがわかっていないから、たとえばクロマニヨン人の壁画や彫刻などのことも、強引に「生きのびるための生存戦略(生産活動)」の道具として解説している。そんなものは、「今ここのときめき」を生み出す「お祭り=遊び」の文化であり、彼らの生きにくい生を宥めるものだったに決まっています。50万年前に氷河期の極北の地に住み着いた人類は、40数万年かけてそういう文化が花開いてくる心模様の歴史を歩んできたのです。それはべつに生きのびるための生存戦略だったのではない、あくまで「今ここのときめき」としての「祭り=遊び」だった。それによって生きにくい生が宥められ「もう死んでもいい」という心地に浸っていったのであり、それが結果的に彼らを生き延びさせていった。
 人類の歴史を動かしてきたのは「もう死んでもいい」という「祭り=遊び」のカタルシスだったのであって、生きのびようとする欲望による「労働=生存戦略」だったのではない。


 マルクス主義国家というのは、生きのびるための合理的な生存戦略を徹底的に突き詰めていった結果として生まれてきたのでしょう。なのに、破綻してしまった。それは、そういう「生存戦略」が人間の本性・自然にかなっていなかったからでしょう。
 人間の生を根源・自然において支えているのは「生存戦略=労働」ではなく「祭り=遊び」にある。
 マルクス主義は「宗教は不自然なものだからいつかはなくなる」といったが、皮肉なことに宗教よりもマルクス主義のほうが先になくなってしまった。
 宗教はそれ自体不自然で観念的なものに過ぎないが、それでも「祭り=遊び」の人間性と結びついて生き残ってきた。
 言い換えれば人間は、宗教のような不自然で観念的なものまで「祭り=遊び」にしてしまう。
 マルクス主義国家は「祭り=遊び」の要素が入ってくる余地がないほど生存線戦略を突き詰めたから破綻したのでしょう。
 現在の資本主義国家においても、多くの知識人が「生きのびるための生存戦略」としてよりよい社会や幸せを目指そうと啓蒙・煽動しているし、まあそういうコンセプトで社会が動いているのだろうが、それでも人々が「祭り=遊び」を生きる余地は残されている。その「ときめき」を体験しないと人は生きられない。
 社会は生きのびるための「生存戦略=労働」で動いているが、ひとりひとりは「祭り=遊び」のときめきで生きている。
 まあ、あまり社会や時代に踊らされてばかりいると、人間性の自然を失って知性や感性が停滞してしまう。
 人間は受動的な存在だから社会や時代や知識人の啓蒙・煽動に踊らされてしまいがちなのはしょうがないのだが、それでも誰もがこの世の「ひとりぼっち」の存在として途方に暮れつつも他愛なく目の前の他者や世界にときめいていっている。そういう「ときめき」がなければ人は生きられない。
 その「ときめき」は、心がこの生や「自分」という存在からはぐれてゆくことによって体験される。
 人の心は漂泊してゆく。漂泊しつつ世界や他者にときめいてゆく。
 だから、社会や時代や知識人や親が啓蒙・煽動して人や子供の心を囲い込んでしまうと、ときめきを失ってしまう。まあそうやってマルクス主義国家は崩壊し、平和で豊かな資本主義国家でも多くの社会的家族的な病理を抱えてしまっている。


 何が人間性の自然かという問題は、けっして解決されているわけではない。
 マルクス主義による国家は、生きのびるための生存戦略こそが人間性の自然だと考えその実現に向けて邁進していったのだが、そこから世界や他者に対する「ときめき」が生まれてくることなく、けっきょく崩壊するほかなかった。
 人間は、その本質・自然において、いい社会やいい人生やいい人間性を実現しようとする欲望を持っているわけではない。
 人間は、自己実現しようとする存在ではなく、自己からはぐれながら世界や他者に他愛なくときめいてゆく存在だ。すくなくとも原始人やネアンデルタール人はそのようにして生きていたし、現代人だって、そのようなかたちで知性や感性が生まれ育っている。
 そこのところを、マルクス主義は見誤っていた。
 マルクスは、その徹底したルーティン思考で人間とはこういうものだと次々に決定していった。そしてそれは真理だと多くのマルクス主義者が心酔していった。そうやって彼はこの社会における人と人の争い(=階級闘争)に勝利する道を開いてみせた。しかし人と人がときめき合う関係の機微については何も語らなかった。
 人は「この社会における人と人の争い(=階級闘争)に勝利する」ために生きているのか?
 たぶんそうじゃない。そういう「労働」によって人類の歴史が動いてきたのではなく、ときめき合う関係「祭り=遊び」こそが人を生かし、それによって人類の歴史が動いてきた。そこにこそ、人間的な知性や感性が生まれてくる源泉がある。
 中国の文化大革命だってひとつの階級闘争だったのだろうが、それによって人と人のときめき合う関係を失ってゆき、その結果として知性や感性において世界から置き去りにされてしまった。いったい中国文化の伝統はどこに行ってしまったのか、ということになっていった。
 現在のこの国だって、高度経済成長とともに生きのびるための生存戦略に邁進してきた結果として、いったい日本列島の文化の伝統はどこに行ってしまったのか、という状況になっている。それはまあ、ひとつの成功した文化大革命だだったのかもしれないわけで、他人事ではない。
 高度経済成長によって、庶民だっておしゃれな服を着てうまいものが食べられるようになった。それは、階級闘争の勝利でしょう。しかしそれによって日本人の知性や感性が花開いていったかというとそうでもなく、人と人がときめき合う関係も昔に比べれば衰退して社会問題になってきている。
 まあ、今どきの「よい社会の実現を目指す」という政治家や知識人による啓蒙・煽動だって、ひとつの階級闘争の論理でしょう。
 しかし人は根源・自然において、よい社会の実現などめざしていない。人は生きにくさを生きようとする存在であり、それは「よい社会の実現を目指す」ということと矛盾する。だから民衆は、支配者の圧政(搾取)を許してしまう歴史を歩んできた。
 原初の人類は、生きにくさを生きながら地球の隅々まで拡散していったのだし、人の世の学問の発見や芸術の創造や技術の進歩というイノベーションは、生きにくさを生きながら実現してきたことです。生きにくさを生きることができる知性や感性を持っていなければ、そういうイノベーションは実現できない。
 われわれを生かしているのは「今ここ」の他愛ないときめきとしての「祭り=遊び」であり、それがあれば生きられるし、それがないと生きられない。
 

「生きのびるための生存戦略」という問題設定では、原始時代の歴史に推参することはできない。
 猿よりも弱い猿だった原初の人類が生き残ってきたのは、人と人が他愛なくときめき合う関係をつくってきたからであって、「生きのびるための生存戦略」をがんばって追求してきたからではない。
 人類拡散は、「生きのびるための生存戦略」が未発達なものたちによって実現されていったのです。
 まあ、人類史上、ネアンデルタール人ほど「生きのびるための生存戦略」に無頓着だったものたちもいない。だからこそ他愛なくときめき合って豊かに繁殖し、生き残ってきた。
 彼らに勤勉な「生きのびるための生存戦略」があったのなら、とっくに暖かい南の地に移住していっている。それこそがもっとも有効な生存戦略だったのだから。
 猿よりも弱い猿だった人類を生き残らせたのは、「生存戦略」ではなく、豊かな「繁殖力」だった。そんな人間的な生のかたちがネアンデルタール人のところで極まり、現在にもその伝統が引き継がれている。
 なんのかのといっても現代人だって、「ときめき」がなければ生きられないし、知性や感性も育ってこないのです。
 マルクス主義国家は、「生存戦略」だけを追求して失敗したのです。
 人類の歴史は「生存戦略という労働」の上に築かれたのではない。
 人間は生きにくさを生きようとする存在であり、不埒にならないと生きにくさを生きることはできないし、生きにくさを生きようとすること自体が不埒だともいえる。それは、「何、なぜ?」と問うてゆく態度であり、ときめきです。
 情報化社会の現代では、問題と出会っても、すでに存在する答えの情報を探すことが先に立って「何、なぜ?」と問うことをしない。それは、「情報を探す」というというルーティンワークであって、考えたり感じたりすることではない。つまり「ときめき」がない。そうやって現代社会のその生きやすさが、構造的に人と人の関係を殺伐としたものにしてしまっているという側面もある。
 まあ人間的な知性や感性というものがあるとするなら、それは、金持ちだろうと貧乏だろうと知能指数が高かろうと低かろうと人間であるかぎり誰もが生きにくさを抱えて生きている、ということを意味する。
 たとえばサッカーは、人間の体でもっとも自由に動く部分である手が使えないゲームです。そうやって人間は、生きにくさを生きようとしてしまう。
 地球の隅々まで拡散していった原始人の歴史は、そういう生きにくさを生きようとする人間性ネアンデルタール人のところで極まり、そこから人間的な知性や感性が花開いていった。


 人類史上、ネアンデルタール人ほど生きにくさを生きた人々もいない。
 10万年20万年前のろくな文明を持たない原始人が、現在のアラスカやシベリアよりもっと寒い氷河期の北ヨーロッパで生きていたのです。もともと赤道直下のアフリカに生息していた南方種である人類が、数百万年かけてそんなところまで拡散していったのであればそこはもう、人類が生きられるはずがない環境だった。ちょっと病気をすれば、すぐ死んでしまう。寿命はどんどん短くなっていったし、生まれて間もない乳幼児は半数以上が死んでいった。
 それでなぜ生き残ってくることができたかといえば、圧倒的な繁殖力を持っていたからです。ただこれは、現在の人類学の常識からは外れてしまっている仮説です。この点においては、世界中の人類学者がわれわれの敵です。
 おそらく世界中の99パーセントの人類学者が「人類は生きのびるための生存戦略を追求して生き残ってきた」と考えている。
 でも、そうじゃない。
 生きのびるための生存戦略など忘れた「祭り=遊び」の文化を育てながら圧倒的な繁殖力を獲得して生き残ってきたのです。
 ネアンデルタール人の男と女は他愛なくときめき合い、誰もが毎晩のように抱き合ってセックスしていた。そして、人がどんどん死んでゆく社会だったのに、誰もが死を厭わなかった。彼らは「いつ死んでもいい」という感慨とともに生きていた。そういう苛酷な環境で歴史を生きてくれば、とうぜんそういうメンタリティの文化が育ってくる。
 彼らはもう、生きのびるための技術などあくせく追求しなかった。ひたすら「今ここ」で人と人がときめき合ってゆく文化を育てていった。そういう「祭り=遊び」の文化こそが彼らを生かしていたのであり、それがその後の人類の知性や感性の基礎になっていった。
 猿よりも弱い猿であった人類を生き残らせたのは、生きのびるための「生存戦略」ではなく、ほかの猿にはない圧倒的な「繁殖力」にあった。
 この世の「弱いもの」は、自分が生き延びるための生存戦略など追求しない。自分を忘れた「今ここ」の「ときめき」を生きようとする。「弱いもの」なんだもの、弱くて生きられない自分なんかかまっていられないじゃないですか。「いつ死んでもいい」と思い定めるしかないじゃないですか。たぶん、そこに人間性の根源・自然がある。
 ネアンデルタール人は寒さに耐えるための頑丈な骨格を持っていたが、それは、そうなるほかないほどの生きにくさを生きていたからであり、つまり誰もが「生きられない弱いもの」だったということです。たとえ頑丈の骨格を持った大人の男でも、その苛酷な環境のもとではやっぱり「生きられない弱いもの」でしかなかった。そうして彼らは、自分を忘れた「今ここ」の「ときめき」を生きようとする文化を育てながら圧倒的な繁殖力を持っていった。
 彼らは、生きのびようとしたのではなく、生きられない弱いものであろうとした。心はそこから華やいでいった。ここに、人間性の自然・根源のかたちがある。マルクス主義者だけでなく、現代では世界中がそこのところで人間を見誤っている。
 心が活発に動けばいいというものではない。鬱病患者の心だって死にたい思いの自分に対する関心で活発に動いているし、世界や他者に対する憎しみで心が荒れ狂っている人もいる。むしろ、そういう自閉的な心ほど活発に動いている。
 人の心の華やぎは、そんな騒々しいところから生まれてくるのではなく、もっと深くしずかな「弱いもの=許されないもの」であることの「かなしみ」から生まれてくる。
 もともと猿よりも弱い猿であった人の心は、根源・自然においてそういう「かなしみ」を持っている。誰もが持っている。
 ネアンデルタール人の社会では、誰もが他愛なくときめき合っていたと同時に、そういう「かなしみ」を誰もが共有していた。
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