もっと不埒に・ネアンデルタール人論19

 この世の弱いものやだめな人間たちは、もっと不埒になってもいい。不埒にならないと生きられない。何はともあれ他愛なく世界や他者にときめいてゆく心を持たないと生きられない。社会に不満を抱いたり他者を憎んだりできる身分ではない。弱いものやだめな人間がそんな気持ちを抱くと、引きこもりになってしまう。
 この世の弱いものやだめな人間たちは、未来のよい社会など目指さない。「今ここ」の「ときめき」が彼らを生かしている。それがないと生きられない。彼らを生かしているのは未来のよい社会や幸せを目指す「労働」ではなく、「今ここ」の「ときめき」としての「祭り=遊び」です。
 まあ人間なんか本質・自然においては誰もが「この世の弱いもの」として存在しているのであり、「今ここ」の「祭り=遊び」こそが人間社会を成り立たせている。
 原初の人類は猿よりも弱い猿で、その生きられなさの艱難辛苦の中で必死に生きのびようとしてきたかというと、そうではなく、「もう死んでもいい」という不埒なお祭り騒ぎを繰り返しながら、とうとう地球の隅々まで拡散していった。
 現在の人類学では、原始人のそうした行為をすべて「生きのびるためのいとなみ」という問題設定で考えています。いわゆる労働史観。この問題設定は根底的に間違っている、とここでは考えています。人間性の本質・自然に照らし合わせて、それは間違っている。人間は、そんな生き物じゃない。
 現代人は、みずからの生きられる能力や幸せにアイデンティティを見出している。しかし人は、本質・自然において、他者の生きられない気配にときめいてゆく。人間的な魅力とかセックスアピールというのは、そういうところにある。
 人間は生きられなさを生きようとする存在であり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。幼児が「これなあに?」と問う、それが人間的な知性や感性すなわち「ときめき」の原点です。
 人類は「今ここ」の「ときめき」が生まれる「祭り=遊び」とともに歴史を歩んできたのであって、人間性の本質・自然においてはよい社会や幸せを目指す欲望などはたらいていない。そういう生きのびようとする「労働」によって人類の歴史が動いてきたのではない。


 人間社会は、いつの間に人間の本性を「未来のよい社会や幸せを目指すことにある」と規定するようになったのでしょう。 現代社会のそのような倒錯した労働史観が弱いものやだめな人間を追いつめている。
 弱いものは、基本的に「生きられない存在」であり、「生きのびることが許されていない存在」です。労働史観は、そういうものたちに向かって「生きのびるためにけんめいに努力せよ、それが人間性の本質・自然である」という。
 人間は、根源・自然において、生きのびようとしている存在ではない、世界にときめいているだけです。世界にときめきながら「すでに生きてしまっている」存在です。「今ここ」のときめきがあれば生きられるし、それがなければ生きられない。
 生きのびようとする欲望は、現代社会の制度的な観念のはたらきであって、人間の根源・自然の心模様ではない。
 人間を生かしているのは世界に対するときめきであって、生きようとする欲望ではない。
 生きられない弱いものに向かって、生きようとする欲望を持て、それが人間の本性・自然だと説くなんて、ひとつの脅迫じゃないですか。
 あなたたちのように安全で豊かな場所にいてご立派に生きている人はそれでもいいだろうが、弱いものやだめな人間はそんなふうにがんばることなんかできないし、それでも「すでに生きてしまっている」のです。
 いったいこの「今ここ」をどう生きればいいのか?
 また、自分だけ安全な場所にいて、社会が悪い、社会を変えないといけないなどとえらそげに語るけど、弱いものはこの悪い社会の「今ここ」をどう生きればいいのかと四苦八苦しているのですよ。よい社会がやってくる日までなんか待てない。「今ここ」を生きることができなければ、どんなにいい社会になろうと、そのときはもう死んでいる。
 自分だけは生きのびることが約束された安全な場所に立っているものが「人間のいとなみは生きのびようとするいとなみである」などと考える。そのみずからの約束された安全な場所を確保したくて「いい社会にしないといけない」などと叫ぶ。未来の「いい社会」など、ご立派に生きている人たちに必要なものであって、この世の弱いものやだめな人間が欲しがっているものではない。
 生きられない弱いものにとっては「今ここ」があるだけです。「今ここ」に「ときめき」があれば生きていられるし、「ときめき」にせかされて生きている。
 弱いものは、「いい社会」が来ても弱いものでしかない。だから、「いい社会」など望まない。みんなが生きられない弱いものになってしまう社会を拒む理由を持っていない。
 人間が生きられない弱いものとして存在していることは、けっして不自然なことではない。


 原始人は、誰もが生きられない弱いものなってしまう住みにくい土地に移住してゆき、そこで誰もが他愛なくときめき合いながら住み着いていった。そうやって地球の隅々まで拡散していった。そこは住みよい土地ではなかったが、「いまここ」の人と人の他愛ないときめき合いがあった。
 この世のもっとも弱いものこそ、もっとも他愛なく、もっとも深く豊かなときめきを知っている。
 因果なことに人間は、生きにくさを生きようとする本性を持っている。人の心はそこから華やいでゆく。そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していったのであり、その拡散の果ての氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。彼らの社会では誰もが「生きられない弱いもの」だったし、そこから心が華やいでゆき、誰もが他愛なくときめき合っていた。その華やいでゆく心模様を基礎にしてクロマニヨンの文化が花開いていった。
 生きのびようとがんばれば文化が花開いてくるというものではない。学問にしろ芸術にしろ人と人がときめき合う関係の作法にしろ、人類の文化は、心が華やいでゆく「祭り=遊び」の心模様から生まれてきたのです。
 人類の文化は、ご立派な人びとの「よい社会をつくろう」という啓蒙・煽動にリードされて生まれ育ってきたのではない。誰の中にもある人間としての「生きにくさを生きようとする衝動」とともに生まれ育ってきたのです。
「ときめき」とは、「それは何か?」と問うことです。それが学問や芸術の根本であるし、人が人がときめくことだってそうやって問うてゆく心模様です。関心を持つとは問うことです。そして「問う」ことは「わからない」ということであり、生きにくさを生きることです。まあ、人間なら誰もが無意識の中にその「問い=ときめき」を持っている。そうやって生きにくさを生きることこそ人間性の自然・本質であり、人間は、それはつまり、人間は根源において「弱いもの」として生きている存在である、ということです。
 学問を探求することも、芸術に感動することも、人にときめくことも、すべて「弱いもの」として生きていることの現象です。
 

 人類は、あえて生きにくさを生きることによって知性や感性を花開かせてきた。生きにくさを生きるとは、「弱いもの」になる、ということです。
 まあご立派に生きて未来のよい社会をつくろうと啓蒙・煽動する人は尊敬されるのだろうが、その人たちの正味の知性や感性などたかが知れている。人類の知性や感性は、そんなふうにして花開いてきたのではない。彼らの知性や感性はすでに停滞している。
 人類の知性や感性は、生きにくさを生きてしまうところから生まれ育ってきた。
 人間性の自然は、生きやすいよい社会などめざしていない。人間的な知性や感性は、避けがたくいきにくさを生きてしまう。そうやって「身もだえ」するところから知性や感性が生まれ育ってくる。
 人間の本性は生きやすさを目指すことにあると規定した労働史観の上に成り立った共産主義社会の建設・運営は、けっきょく失敗してしまったじゃないですか。それはきっと、人間性の自然に沿った社会ではなかったからでしょう。
 人間は生きにくさにのめりこみながら知性や感性を発展させてきたのであり、それは「この世の弱いものになる」ということです。「この世の弱いもの」になって、「それは何か?」問うていった。すなわち、ときめいていった。
 人類が生きられない弱いものを介護するようになったのは、かわいそうと思ったからではなく、もともと弱いものになろうとする衝動を持っていて、そこにひとつの「連帯感」のような感情があったからでしょう。
 現代人は、みずからが生きられるものであることのうしろめたさとともに「かわいそう」と思って介護をするが、原始人にとってのそれはもう、他愛なくときめき連帯してゆく行為だった。いや現代人においても、誰の中にも無意識的にはそういう心模様がはたらいているに違いない。


 氷河期の極寒の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は人類史上もっとも生きにくさにのめりこんでいった人たちであり、彼らの心はそこから華やいでいった。彼らこそ人類史上もっとも深く豊かにときめいている人たちだったのであり、おそらく人類の介護の歴史はそこから本格化してきた。あんな苛酷な環境では生まれて間もない赤ん坊が生きられるはずがないわけで、彼らはそれをけんめいに介護し生きさせていった。
 生きられない弱いものに対する連帯感……彼らは、誰もがこの生からはぐれ、身もだえしながら生きていた。と同時に、そこから心が華やぎ、世界や他者に深く豊かにときめいていった。生きやすいよい社会を目指して労働にいそしむなどということが、彼らの生の作法だったのではない。もっと不埒な「もう死んでもいい」という「祭り=遊び」の心模様で生きていたのです。人類の知性や感性は、ネアンデルタール人のそうした心模様を基礎にして進化発展してきた。そこからクロマニヨンの文化が花開いていった。
 あなたたちは、何を根拠にネアンデルタール人の知能がアフリカのサバンナの民よりも劣っているというのか。
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